小生は、自分の職業として公務員を選んだので、自分自身の人生の回想録たる思い出シリーズは、奉職先の役所での生き方が中心になる。小生が奉職したのは東京都庁だ。なぜそこを選んだのか、その理由は先稿「深川清掃事務所の思い出」に記してあるとおりだ。都庁というのは、一地方公共団体に過ぎないのではあるが、なにしろ図体がでかくて色々な仕事を抱えている。小生が入都した頃は、都道府県の業務のほか、市町村が担うべき業務も担当していた。例えば清掃とか消防といった本来市町村が行うべき業務を都が行っていた。区の職員も都が一括採用し、各区に割り当てていたものだ。財政もほとんど一体化していた。千代田区や港区といった裕福な区から税収の一部を吸い上げて、それを交付税(財政調整資金といっていた)の財源としていた。各区の財政自主権はかなり制約されていたのである。
小生の都庁生活は昭和47年に始まった。深川清掃事務所からスタートし、清掃局本局、墨田区、衛生局で平職員及び係長時代を過ごし、瑞江葬儀所で最初の管理職をつとめ、東京体育館、教育庁本庁、財務局でそれぞれ課長職をつとめた。かくして財務局営繕部工務課長から、部長級へ昇任する段取りとはなった。そこまではまあまあ順調な足取りだったと思う。また担当した仕事も結構多彩で、かつユニークなものだった。瑞江葬儀所などは、当時は唯一の公営火葬場であった。なかなかありつける職ではない。
部長級への昇任は、建設局所管の再開発事務所副所長としてであった。所長は技術職で、副所長が事務職という分担である。名称通り、東京都が施工する再開発事業を担当していた。小生の時には、亀戸大島小松川地区と白髭西地区の再開発が施行中で、環状二号線道路整備事業、北新宿地区再開発事業は立ちあげ中だった。当時都の財政はひっ迫しており、赤字を埋めるために管理職手当の一部を召し上げるほど困窮していたのだが、再開発事業には惜しみなく予算措置がなされていた。具体的な数字は覚えていないが、中規模の特別区の予算に匹敵する規模だった。小生は同輩たちに向かって、君たちの管理職手当を召し上げたことで、小生の仕事にはふんだんに金を使うことができるといって、感謝の意を表したものだ。
異動する前から上顎にできた口内炎に悩んでいたが、異動後それが深刻な症状になった。最初にかかった歯科医はどうもいい加減な男で、まともな治療を施してもらえなかった。二人目の歯科医師は、一見して口腔癌だと診察し、自分の出身校の病院を紹介してくれた。日大歯学部付属歯科病院である(お茶の水にある)。そこで手術を受け、およそひと月入院した。入院に先立ち、局の総務部長に報告に行った。癌の手術で一月ばかり休みたい、と。総務部長は即座に了解し、必要な手続きをとった。病気不在中の事務取扱者を指名したのである。これは、御前には用はないから、安心して休めという意味の措置である。小生は多少人事の心得があったので、それが何を意味するかを十分に理解した。
都庁という組織はこれといった人事政策をもっていたわけではない。かなり行き当たりばったりなところがあった。特徴を強いてあげれば減点法がまかりとおっていたということくらいだろう。何らかの不祥事を犯した人間は、減点法の基準に従って減点される。その結果は以後の人事に反映される。不祥事の中には、議会との間に深刻なトラブルを起こしたとか、女性との間で不適切な行為があったとかいったものがある。そういう不祥事を起こすと、まず出世コースから外されるのである。病気休職はかならずしも不祥事とは言えぬが、しかし人事上の効果としては同じように扱われた。小生は長期の病気休養がもとで出世コースから外された人間を多数見てきたから、それとの対比で、自分も同じような憂き目を見るだろうということはわかった。じっさいその通りになった。復職後、小生は自分が通常コースから外され、いわゆる飼い殺しの境遇に陥ったと思い知らされたのである。
そんなわけで、再開発事務所副所長になって以来、六十歳で定年退職するまでの十年間、小生はどうでもいいようなポストをたらいまわしされた。それも忘れたころにそろそろ異動する頃合いだと言われて異動させられるのである。とはいえ小生は、仕事には手を抜かなかった。亀戸大島小松川地区は、そろそろ完了が視野に入ってきた時期に差し掛かっており、事業を終了させるためには、抵抗する者に対して収用の網をかけるとか、債務の返済を怠っている者に対して強制徴収をかけるといった措置を断固としてとった。そうした小生の姿勢を批判する者もあった。もっとやわらかなやり方はないのかね、と言うのである。そういう奴に限って、仕事の進行管理にはうるさかった。仕事はきちんとやれといいながら手荒なことはやるなと平気で言うそんな奴を見て小生は、猿山の猿みたいな奴らだと思った。上意を受け仕事の進行管理には厳しいが、仕事のやり方は微温的たれと言うのであるから、或る意味猿山の猿以上に猿的である。
建設局で六年過ごしたあと、最後の四年間を交通局で過ごした。一応交通局参事という処遇だが、実際には課長級の職である。南千住自動車営業所の所長という扱いになった。部長級の者が課長級の職を兼務するという位置づけだが、実際には懲罰人事と言ってよかった。なぜ小生が懲罰人事を受けねばならぬのか、その秘密はなんとなくわかった。交通局の幹部の中には、以前仕事のことで小生に意趣をもったものがあって、その腹いせをしてやろうという魂胆が見えてきたのである。交通局というのは、じつに閉鎖的な組織で、しかも陰湿なところがある。そんなところで長い間暮らしていると、性格が曲がってしまうらしい。交通局はいわゆる現業系の組織である。清掃局もそうだったが、現業系の局はしょっちゅう不祥事が起こる。交通局の場合は、料金の着服とか飲酒運転といったものが多かった。そうした不祥事は、幹部にとっては自分自身の命取りにつながるので、なんとか責任を逃れようとする。一番手っ取り早いのは、現場に責任をなすりつけて、自分らは責任逃れに集中することである。そういう幹部が多かった。そんな連中を見ると小生は、野良犬みたいな奴らだと思ったものである。
こんな具合で、小生の役人生活は、後半に至って不本意なものになったとはいえ、全体としてこれを見れば、なかなか変化に富み、屈託することのなかったものだったと総括できるのではないか。その意味で小生は、自分の役人人生に悔いはない。
定年退職した後二年ほど外郭団体に在職した。当時管理職は六十歳でやめることになっており、やめたあとは局から再雇用先を紹介されるというのが慣例になっていた。再就職先を世話するのは局の総務部長の仕事である。当時の総務部長は清掃局の後輩だった。その男に呼ばれて話をしたところ、やけに高圧的である。自分を上司として尊敬しろと言わんばかりなのである。小生はこの男におべっかを使ういわれはないから、自然な態度で接していたところ、それが気に食わぬようだった。それで小生に向かい、自分の再就職は自分で始末しろというような趣旨のことを言った。小生は、特にひるむ様子は見せず、淡々と接し続けた。この男は若い頃から裏表を感じさせるところがあり、相手によって態度を変えた。自分より弱いと思った者に対しては高圧的に振舞うのである。要領のいいところもあり、多摩地区のさる有力議員に取り入り、その議員の力で市長にさせてもらった。市長になると、持ち前の性格で好き勝手なことをやったようだ。そのうち、一女性職員から性的な暴行を受けたと訴えられた。当初はしらばくれていたが、形勢不利は避けられず、辞職に追い込まれた。
小生が外郭団体でついた仕事は、普通なら係長級の退職者がつくポストである。おそらく総務部長のいやがらせであろう。それについては、小生の仕事上の不始末が理由にされたらしい。その団体には労働組合の委員長をやった男がいて、その男がしきりに小生に同情してくれた。その不始末とは、労働組合の現職の書記長が不正に給与を受給しているというものであり、当時都の不正を暴くと豪語していたさる都議の追求するところであった。そんな問題は、基本的には労働組合と局幹部の間の問題なのであるが、それを書記長の職務上の上司たる小生が責任を擦り付けられたのである。そのいきさつを知っている元委員長は、小生を親方と呼びながら、親方には本当に申し訳ないと言うのであった。事情を知っている南千住営業所の管理係長も局の幹部の鼻をあかしてやりましょうよと言って憤慨していたが、小生は、余計なことはするなといって諫めたものである。ともあれ、交通局というのは、じつに魑魅魍魎な組織というべきものであった。
この外郭団体では例の豊饒たる熟女たちと仲良くなることができたし、また、仕事が全くないので、毎日好きなことができた。小生が当時始めたばかりのウェブサイトの運営は、この団体での余暇時間を活用して行ったものだ。しかし長い間やる気はなかった。二年ほどで辞表を出した。団体の幹部は、厄介者が始末出来て安心したに違いない。
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