スピノザのキリスト

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スピノザの聖書批判はもっぱら旧約を対象としており、新約については付随的にしか触れない。当面の論争の対象をユダヤ人コミュニティにおいているからだ。だが本当の論争相手は、オランダのプロテスタントである。プロテスタントは、聖書を神の声とする姿勢がつよく、カトリックに比べて聖書を重要視する度合いが大きい。プロテスタントの聖書重視は、新約のほうに強く見られるが、旧約もまた聖書なのであるから、そちらも同じように重視する。スピノザの時代にはダーウィンは生まれていなかったから、進化論を公然と否定するような現象は見られなかったが、世界は神が無から創造したという説は、プロテスタントの間で強く信じられていた。だから、ユダヤ人を相手に旧約聖書を批判することは、間接的にプロテスタントにも波及するはずなのである。

旧約と新約の最大の違いをスピノザは、旧約が預言者たちの予言を集めたものなのに対して、新約はキリストの言葉を使徒たちが伝えたものであるとしている点に見ている。預言者の言葉は、神の言葉そのものではない、とスピノザはいう。預言者は、神の声を聴いたうえでそれを繰り返していると主張するが、じつはそうではなく、預言者たちが創造した物語なのである。かれらの目的はユダヤ民族を団結させることにある。そのためには民族全体の絆としての神が必要である。その神への服従を説くことによって、民族全体を神の名のもとに団結させることができる。その意味で旧約は、宗教を政治的な目的のために動員している、というふうにスピノザは考えるのである。

新約はキリストの言葉を使徒たちが記録したものである。キリストの言葉とはなにか。それは神がキリストの口を通じて自ら語ったものだとスピノザは言う。キリストは神と一体なのだ。こういう考えは、カトリックの三位一体の説を思わせる。だが、プロテスタントにも、キリストと神を一体とみる思想はあったようである。いずれにしても、旧約が間接的に神の言葉を予言というかたちで語っているのに対して、新約は神がキリストの口を通して直接民に語り掛けていると考える。

そういうわけであるから、神との関係においては、新約のほうがストレートである。旧約が語る神は、預言者の予言の中においてであるが、その予言は人間である預言者がいわば勝手に創造した物語である。物語という点では、新約の中の様々な物語もかわりはないが、新約の中の物語は、神が直接語ったものである。旧約の中の物語は預言者が創造したものである。

スピノザの旧約聖書批判は、基本的には預言者の予言に向けられている。その予言は、神の言葉をそのまま表現したものではなく、預言者が創造した物語である。だから、その批判は預言者個人に向けられたもので、神に向けられているわけではない。旧約を批判したからと言って、神を批判することにはならないのである。

こう整理してみると、スピノザは旧約の神を批判する一方で、新約の神は受け入れているように見える。その神がキリストの口をとおして真実を語っている。キリストの言葉は神の言葉そのものであり、したがって真実そのものである。われわれは新約聖書の中で語られている言葉を、神の言葉と捉えて、それを真理とみなすべきである、ということになる。そうだとすればスピノアは、非常に敬虔なキリスト教徒といえるだろう。

だがスピノザは、ユダヤ教徒であることはやめた(やめさせられた)が、キリスト教徒になったわけではない。なぜならキリスト教徒の神とスピノザの神とは違うからだ。キリスト教徒の神は、超越的な存在である。それに対してスピノザの神は、世界に内在する存在である。世界に内在する存在ということは、世界そのものだということだ。我々は世界が存在しているという、その偶然的なありようを、神という形でイメージする、というふうにスピノザは考えるのだ。

キリスト教徒の神は、超越的であるとともに、人格を持った存在である。つまり人間的な存在である。フロイトなら父権性の体現者というところだ。人間の父親のイメージが昇華したもの、それが神だというわけである。ところがスピノザはそうしたイメージをナンセンスとしてしりぞける。神とは便宜的な言葉で、本来なら存在というべきところだ。存在ほど神秘的なものはない。なぜこの世界は、無ではなく有(存在するもの)なのか。これは人類にとっての深刻な問いである。その問に対して、人類の多くの民族は宗教的な答えをだした。世界は神が創造したという説だ。それに対してスピノザは、世界の存在に理屈をつける必要はないと考える。存在するからわれわれはそれを世界というのであって、その世界をそのままに受け入れればよい。だがそう言っては風波がたつから、とりあえず神という言葉を受け入れたうえで、その神を世界の存在と結びつける、というのがスピノザの戦略的な立場なのである。

この立場にたてば、キリストは世界という存在を象徴するものだということになる。キリストは世界の生き写しなのである。






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