「神学・政治論」の大部分は聖書批判にあてられている。それはスピノザが生きていた当時のヨーロッパ、とくにオランダのようなプロテスタント国において、聖書がきわめて強力な政治の道具になっていたという事情による。スピノザが生きていたのは17世紀半ばのヨーロッパであるが、この時代こそ宗教対立がもっとも激化した時期であり、しかも宗教が政治に強い影響を及ぼした時代だった。イギリスの清教徒革命はその典型的な例である。オランダにおいても、オレンジ公をかついだ保守派とヤン・デ・ウィットが音頭をとった改革派の対立が激化した。その対立に聖書が大きな役割を果たした。特に保守派はプロテスタントの正統派を代表し、聖書の価値を無条件にたたえた。スピノザは、ユダヤ人コミュニティからもプロテスタントからも迫害を受けたのであるが、その迫害を聖書が合理化していた。だからスピノザにとって聖書批判は、ただに宗教上のことがらにとどまらず、人格をかけた戦いといってよかった。
スピノザは頭ごなしに聖書を非難し、有害・無用だといっているわけではない。聖書とくに旧約聖書は、ユダヤ人がユダヤ人の福利のために作成したものであり、したがって全人類が守るべき普遍的な真理などではない、といっているだけだ。新約聖書については、ある程度の普遍性は認めているが、しかしそれは宗教的な信仰の範囲内でのことであって、宗教以外のことについては何らの基準とはならない。宗教と世俗の事柄との間には、交互に乗り越えられない高い壁がある。その壁を勝手に乗り越えて、聖書を以て世俗の事柄を規定すべきではないといっているだけのことである。もし聖書が有害・無益なものになるとすれば、それは人々が聖書を錦の御旗にかかげ、あらゆることの基準としたがる場合である。
スピノザの聖書批判の大部分は、旧約聖書への批判にあてられている。それはおそらく、ユダヤ人コミュニティから追放された経験と関係がある。オランダのユダヤ人たちは無神論を理由にスピノザを迫害したのであるが、その際に、旧約聖書を振りかざして、スピノザが旧約聖書を侮辱しているという理由をあげつらった。そこでスピノザは一定の弁明をしたとされるが、その弁明の詳細は伝わっていない。ただ、その際の弁明とほぼ同じようなものが、「神学・政治論」の聖書批判に取り入れられていると推測されている。とにかくこの書物における聖書批判は、旧約聖書とユダヤ人との関係に集中しているといってよいほど、旧約聖書が、ユダヤ人がユダヤ人の福利のために書いたという点を強調しているのである。
旧約聖書は、全人類が信仰すべき普遍的な書物などではない、それはユダヤ人の神がユダヤ人との間に取り結んだ契約にすぎない。だから旧約聖書を重視しないからといって、神を信じないことにはならない、というのがスピノザの基本的な主張である。スピノザは神の存在を否定するのではなく、ユダヤ人の神だけが神だとはいえないといっているだけである。スピノザにもやはり神は存在する。だがその神はユダヤ人の神とは異なっている、というのである。
この書物は、預言についての批判から始まっている。旧約聖書は、モーゼ五書をはじめ、預言者たちの予言を集めているとされているからである。モーゼ五書は預言者モーゼが書き、ヨシュア、士師以下の預言書はそれぞれその名を冠された預言者が書いたと信じられてきた。それに対してスピノザは、旧約の預言書はその名を冠せられた預言者たちによって書かれたのではなく、ある特定の個人によって書かれた部分が中心になっていると考える。モーゼ五書以下歴代史略まではおそらくエズラが書いたのであろう、と推測している。エズラは統一的な視点からユダヤ人の歴史を編纂したのだというのである。だが、これら預言書の間には相互に齟齬があることも事実なので、エズラはすでに存在した預言書を集めて、それをある視点から編集したのであろうとスピノザは推測している。
預言書は、神が預言者たちに与えた啓示を記録したものである。それについては、スピノザもかれを非難するユダヤ人も異存はない。だが、神をどのように考えるかについては、相いれないほど異なった考えをしている。スピノザの神は、自然の存在そのものである。それに対してユダヤ人の神は、民族の祖先のようなものである。祖先というのは、自分たちユダヤ人を創造した人だからである。神は他の民族も創造したが、しかしユダヤ人を特別扱いした。ユダヤ人は神によって選ばれ、神との間で信仰と服従についての契約を結んだ特別の民族だというのがユダヤ人の誇りを伴った思想なのである。
ユダヤ人らは、自分たちの理解を超えた事柄をすべて神の業にする癖がある。旧約聖書は多くの奇跡について語っているが、奇跡とは人間の理解を超えた事柄である。それをユダヤ人は神の業と称するのである。そんなわけで旧約聖書のなかで説かれているのは、人間の理解を超えたことはすべて神の業であるという信仰であり、そうした神への服従を説くのが聖書の役割なのである。聖書が説いていることは多岐にわたるが、それらは科学的で合理的な説明ではなく、ただただ神への信仰を強めるような物語ばかりである。旧約聖書は、ユダヤ民族を団結させるために編み出された物語を集めたものだというのがスピノザの基本的な主張である。物語であるから、別に確固とした根拠があるわけではない。聖書から人が得られるのは、神への服従に必要な精神的な励ましだけである。人は聖書に確固とした自然的法則性や数学的なたしかさを期待することはできないのである。
こんなわけだから聖書とくに旧約聖書は、ユダヤ人らが神をあげつらいながら、ユダヤ民族存続のために有用な物語を集めたものであり、したがってユダヤ人のみに通用する。それがユダヤ人の神である。ところがユダヤ人のみではなく、万人にとっての神が当然存在する。その神の視点からすれば、ユダヤ人の神はカタワな神である。なぜかといえば、ユダヤ人の神もほかの民族の神も、自分らの神こそ真の神といっていながら、じつはそれはその民族が勝手に生み出したものだからである。そんなカタワな神を持ち出すことで、自分を脅迫することは片腹痛いことである、というのがスピノザの本音であったといえよう。
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