樋口一葉が一家をあげて本郷菊坂町の家を引き払い、下谷龍泉寺町に移住したのは、生活苦に迫られてのことである。ほそぼそとした内職をするほかに収入の宛てがなかった一家は、なんとか安定した収入を得る手立てとして、実業を始める決意をした。実業というのは、小さい店を出して、小商いをするというものだった。一家三人が食っていけるだけの収入がとりあえず得られればよい。そんな気持ちだったようだ。明治26年6月29日の日記に、「此夜一同熱議、実業につかん事に決す」とある。
移住に必要な費用の算段をしながら、7月15日から小商いに適した家を探し始める。それを記した日記は「塵の中」と題される。以下、下谷龍泉寺町時代の日記は、「塵の中日記」とか「塵中日記」と題される。自分らの境遇を塵の中にたとえたのであろう。
色々捜し歩いた結果、下谷龍泉寺町に適当な家を見つける。吉原遊郭の北西に位置する町人町である。下町の人々が下谷の金杉通りから吉原を目指す途上にある。そこに間口二間、奥行き六間ほどの家(12坪相当)があり、3円の敷金で家賃は月1円50銭であった。当時の1円は、現在の1万4-5千円に相当した。
一葉は、この家のたたずまいを次のように描写している。「此家は下谷よりよし原がよひの只一筋道にて、夕がたよりとどろく車の音、飛ちがふ燈火の光り、たとへんに詞なし。行く車は午前一時までも絶えず、かへる車は三時よりひびきはじめぬ。もの深き本郷の静かなる宿より移りて、ここにはじめて寐ぬる夜の心地、まだ生まれ出でて覚えなかりき」(明治26年7月20日)。
一家が出した店は小間物屋である。6畳ほどの広さに、5円相当の品を並べることから始めた。ところがその5円の金が用意できなくて、一時は苦境に陥ったりしたが、なんとかやりくりして開業にこじつけたのは翌8月6日のことである。当初はなかなか客が来なかった。宣伝した様子もない。客がくるのを受け身に待っているだけである。商いの仕方もぎこちない。「物馴れぬほどのをかしさは、五厘の客に一銭のものをうり、一銭の客に八厘のものを出す」というありさまだった。
開店して半月後には、客の数も増えて多忙になった。それでも売り上げは1円ほどである。その後多忙になる割には売り上げが伸びない。「大方は五厘六厘の客」だからである。一日百人の客が来ても、せいぜい1円にしかならない。一葉は多忙な店の運営に時間をとられて、日記を書く余裕もなくなる。まして創作する余裕はもてない。龍泉寺町時代に一葉が書いた作品は「雪の日」と「花ごもり」の二編だけである。
店はそこそこの客を得て、なんとかやっていけそうな雰囲気だったが、年が明けて、向かい側に同業の店が出ると、俄然具合がおかしくなった。客の多くをその新しい店に取られてしまったのである。一葉が店を出したときにも、近所にあった二軒の店がつぶれた。町中の小商いは競争が厳しいのである。
下谷龍泉寺時代に、一葉は不可解な行動をしている。久佐賀義孝というあやしい男に近づいたのである。久佐賀は、本郷真砂町に、「天啓顕真術会」という占い道場のようなものを開いていた。真砂町は、一葉の旧居のあった菊坂町の隣だから、一葉はかねてその存在を知っていた。彼女がなぜそこを訪ねる気になったのか。とりあえずは人生相談をしたのであるが、金を借りるなど、経済的な目論見もあったようである。訪問の意図を、一葉は次のように記している。「久佐賀は、まさご丁に居して、天啓顕真術をもて世に高名なる人なり。うきよに捨ものの一身を、何処の流にか投げ込むべき。学あり、力あり、金力ある人によりて、おもしろく、をかしく、さわやかに、いさましく、世のあら波をこぎ渡らんとて、もとより見も知らざる人の、ちかづきにとて引合せする人もなければ、我こそこれを訪はんとて也」(明治27年2月23日)。
久佐賀を初めて見た印象を一葉は次のように記している。「年は四十計にや、小男にして、声音静かに盛也し・・・つれづれの法師が詞に、名を聞くこそやがて実はおもひやらるれど、逢見れば又思ふ様のかほしたる人ぞなきとありしが、げにしかぞかし」。久佐賀が思っていたような男ではなかったと言いたいのであろう。その久佐賀を相手に、一葉は四時間も語り合った。話の内容は、自分のみじめな生きざまになんとか助力してもらえないかというような事柄であった。久佐賀はそんな一葉に強い関心を抱いたようである。
その後久佐賀は一葉に、梅見に同行したいという趣旨の手紙を書いたりする。はてはあなたの面倒を見るから、自分の妾にならないかと、露骨に誘ったりする。その誘いの手紙が来たのは明治27年6月9日である。それを読んだ一葉は、次のような嫌悪の感情を日記に記している。「その一身をここもとにゆだね給はらずやと、厭ふべき文の来りぬ。そもやかのしれ物、わが本性をいかに見けるにかあらん。世のくだれるをなげきて、ここに一道の光をおこさんとこころざす我にして、唯目の前の苦をのがるるがために、婦女の身として尤も尊ぶべきこの操をいかにして破らんや。あはれ笑ふにたえたるしれものかな」。
久佐賀の次に、一葉は二十二宮人丸を訪ねる。人丸というのは、根津神社の一角に居を構えていた隠者で、一葉はかねてその存在を知っていたようである。一葉が人丸を訪ねたのは、明治27年6月5日のことである。初見の印象を次のように日記に記している。「かの人丸の異様也しがこころにかかれば、かかる処に又おもしろき人もやとて、その庵を訪ふ。異談一ならず、物語をかしかりき。人はいくつ計にや、髪長く,髯しろく、なへばみたる小袖の長やかなるを着たり・・・七、八年を遊歴に送りて、この庵へはをととし計よりときく」。
だが、人丸の印象はすぐに悪くなる。その庵を辞するときにすでに、「いかで埋もれたるむぐらの中に共に語るべき人もやとて、此あやしきまで求むるに、すべてはかなき利己流のしれ物ならざるはなく」と日記に記している。人丸はその後、一葉の家に来て交際を申し込む。それに対して一葉は「かへすがへす我を浮世の異人なるよしたたへて、長き交際を結ばまほしきよしなどいふ。おもしろからぬ者どもなり」と感想を述べている。
一葉が村上浪六に接近したのは明治27年11月10日のことである。その頃、小石川丸山福山町に住んでいた一葉一家は、生活苦がいっそう進行していたため、村上に経済的な支援を期待したのだった。一葉はあったばかりの相手に、すぐさま借財を申し込む。これにはさすがの村上もびっくりしたことであろう。その後村上は一葉を無視した。それを一葉は不愉快に思った。明治28年5月1日の日記に次のように記している。「三十金五十金のはしたなるに、夫すらをしみて出し難しとや・・・慈母にむくひ、愛妹をやしなはん為に、いささかの助けをこふのみ。そも又、成りがたき人に成りがたきことをいはんや。我たのみ、かれうけ引けばこそ、打もたのむなれ。たのまれて後いたづらに過ごすは、そもたれの罪かとおぼす」。
一葉のこの言葉は、明らかにいいがかりである。もっとも一葉が村上に期待したのは、いささかの道理からだ。村上は任侠小説が得意で、侠気のある人間を描きそれを一葉は愛読していた。こんな小説を書くような人間は、実生活においても侠気があるに違いない。そう一葉は勝手に受け取って、村上に借財を申し込んだ、という可能性は非常に高い。いずれにしても、尋常な仕業ではない。
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