
ラース・フォン・トリアーの2018年公開の映画「ハウス・ジャック・ビルト(The House That Jack Built)」は、シリアル・キラー(連続殺人摩)の長年にわたる殺人行為を描いた作品。人を殺すことが自己目的化した精神異常者の話である。精神異常ということを汲んでも、数十人にのぼる数の人間を無残なやりかたで殺し続け、それに快楽を感じると言うのは、まことに異常な話である。その異常さをフォン・トリアーはたいして疑問に思っていないらしい。むしろ暴力礼賛的な傾向を感じさせる。見る人によっては、嘔吐感にさいなまれるだろう。
シリアル・キラーを描いた作品としては、もっとも早い時期のものではないか。題材があまりにショッキングなので、映画化にはなじまないのであろう。だが、この作品に刺激されたのかははっきりしないが、翌2019年にはファティ・アキンが連続娼婦殺人事件を描いた「屋根裏の殺人鬼」をつくり、2022年には、これも連続娼婦殺人事件を描いたデンマーク映画「聖地には蜘蛛が巣を張る」が作られている。この二つとも実際の事件をもとにしたものだ。それに対してトリアーの映画には、特定のモデルはないらしい。想像上の殺人事件であるようだが、実際に起きた事件を参考にしている部分もあるようだ。
中年男があるとき、車に乗せてやった女をジャッキで殴って殺す。たいした動機はない。女が自分をバカにしたというふうに感じて、衝動的に殺したのだ。殺した遺体は、買ったばかりの食品冷凍庫に保存しておく。これが最初で、次々と殺していく。最初はもっぱら女とか子どもを殺すが、そのうち男を殺すこともある。それが積み重なってたいへんな数になる。ある時点で、既に60人殺したとうそぶいているから、最終的には百人近くにのぼるのではないか。だが冷凍庫は業務用で非常に大きく、百人ぐらいの遺体は収容できそうである。
殺し方が人間業とも思われない。人間をこんなふうに殺して快楽を感ずるのは、究極の殺人鬼である。この映画にはヒトラーが意気揚々とした風情で出てくるが、そのヒトラーに連続殺人鬼のイメージを重ねているのだろう。今ガザで、ネタニヤフとその手下のシオニストどもがパレスチナ人を無差別に殺している。それに比べれば、この映画の中のシリアル・キラーはまだ大物とは言えないというむきもあるかもしれない。
映画は一応、この殺人鬼が強迫性障害をわずらい、それに促されて殺人を重ねていると匂わせている。それにしても強迫性障害に殺人の嫌疑をかけるのはフェアではないだろう。やはり人格障害というべきではないのか。ヒトラーもネタニヤフも人格障害を疑わせる。
トリアーの他の作品と同じく、章立てになっている。だがどの章でも殺人の場面が繰り返されるので、章立てにあまり意味はない。最後の章で、男はヴァージという謎の男に案内されて地獄めぐりをする。ダンテの神曲を気取っているのだろう。男がダンテで、ヴァージがウィリギリウスというわけだ。地獄に行くのは懲罰のためではない。男は最後には地獄の坩堝にはまるのであるが、それは罰としてではない。男には罰せられる理由がないと、トリアーは思っているようである。
タイトルの「ハウス・ジャック・ビルト」は、ナーサリー・ライムの一つ「ジャックの建てた家」からとったようだ。この映画の主人公の男もジャックという名であり、やはり自分のために家を建てている。
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