正義についてスピノザは二つの面から考察している。一つは人間的な正義、もう一つは神の正義である。この二つはどう違うか。人間的な正義は人間にとっての正義、つまり人間にとって都合のよいことをさす。その意味で功利的な匂いがする。一方神の正義は、世界そのもののよって立つ基盤である。世界には無論人間も含まれるが、しかし人間だけの基準では図ることができない。あくまでも次元の異なるものである。ところが人間は、この二つを取り違える傾向が強い。とくにユダヤ人にその傾向が強く見られる。しかもユダヤ人は、ユダヤ人にとって都合のよいことを、人類一般にとって都合のよいことに取り違える。そのうえ、人類一般にとって都合のよいこと、つまりユダヤ人にとって都合のよいことを、神の正義と取り違える。それは傲慢のなすわざだ、というのがスピノザの正義論の基本的な特徴である。
まず人間的正義についてのスピノザの議論を追ってみよう。スピノザは、正義についての一般的な定義を参考にしながら人間的正義を定義する。正義の一般的な定義は、「各人の権利を各人に対して認めようとする確乎且つ恒常的意思」だというものである。つまり各人が本来自分が持っている権利をなにものにも妨げられず、自由に享受できることが正義だというのである。その本来的な権利とは、人間として生きるための資源にたいする権利といってもよい。だれでもそれを平等に持っている。不平等が生じるのは、権利の使い方に差異があるためである。人間は本来的には平等にできており、だれもが自分が本来持っている権利を行使する自由がある。以上を踏まえたうえで、スピノザのいう人間的正義を定義すれば、次のようになるであろう。人間的正義とは、人間が生まれながらにもっている権利を、だれにも妨げられずに自由に行使できることをいうと。そうした意味での人間的な正義は、法というものを通じて保証される。法は、各人の権利を保障するとともに、その権利を侵害するものには罰を与える。そうすることで、人間的な正義の実現を図っているのである。
法には人間の法と神の法とがあるとスピノザは言う。人間の法は人間自身が作るものである。それはスピノザによれば、「生活並びに国家の安全のためにのみ役立つ生活規則」のことである。人間は国家を通じて集団的な生活をするわけであるから、法は個々人の権利のみならず国家の安全に関する規定を含んでいなければならない、というのがスピノザの考えである。いずれにしても人間の法は、人間が自分たちの生活をなしやすくするための共同の取り決めである。今の感覚でいえば、法律である。
一方神の法は人間がこれを作るわけではない。だいたい神の法というものがありうるのだろうか。法を人為的に作られるものと考えれば、神の法というのは形容矛盾のように聞こえる。だから、人為的な法律というような意味合いではなく、自然的な法則という意味合いで考えた方がよい。法則と考えれば、神の法とは神の存在のあり方をいうというふうになる。スピノザは神を存在そのものと捉えているので、存在の法則性を神の法といって不自然ではないのである。
以上のように考えれば、神の正義とは、世界があるがままに存在し、何物にも妨げられることなく、自然の法則性にしたがって展開するような事態をさしているようである。それは必然性の王国であろう。なぜなら神はあらゆる事柄をすべて把握しており、あらゆる事柄の生起発展は神のなかで予定されていたことであり、その意味で偶然性の入る余地はなく、すべては必然性に従うからである。
神の正義は、具体的には神の法というかたちをとる。法という言葉を使うことでスピノザは、それに人間への強制性を持たせるのである。正義はただに法則性にとどまるのではなく、人間がそれに従うべき規範となるのである。
こういうわけであるから、神の法とそれが体現する神の正義は、あらゆる人間にとって平等に働くものである。ところがある特定の民族は、神をその民族の私有物のようにあつかう。ユダヤ民族である。ユダヤ人は、自分らは神と特別な契約をしており、その契約は神とかれらの間でのみ有効なのであり、ほかの民族は全く関係ないと考える。彼らの神は、彼らのみに啓示を与える。また、彼らだけによって祭られることを求める。ユダヤ人は独特の風儀で神に祭式を捧げる。また、神は預言者を通じて、ユダヤ民族とその神との関わり合いについて数々の物語を語らせる。旧約聖書はそうした物語を集めたものである。
スピノザはそんなユダヤの神は本物の神ではないと批判する。本物の神は、すべての人類に平等に接する。人類のみならず、自然を含めたあらゆる存在の創造者であり、かつその持続の原因者である。人間的な正義は、人間の集団がつくる法なのであるから、民族によって相違があってよい。だが神の法と神の正義は、すべての民族に平等に働くのである。
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