十二巻正法眼蔵第三は「袈裟功徳」の巻。仏衣としての袈裟の功徳を説いたものである。仏衣の功徳については、本巻三十二「伝衣」でも説いていた。内容的には同じようなものである。奥書に仁治元年示衆とあるが、これは「伝衣」の奥書の日付と同じものである。「伝衣」の内容を踏まえ、さらに詳細に展開したものと考えてよいだろう。
冒頭は次のような文である。「佛佛祖祖正傳の衣法、まさしく震旦國に正傳することは、嵩嶽の高祖のみなり」。代々の仏祖の間に正伝してきた衣と仏法が中国に受け継がれたのは達磨によってである、と言っている。袈裟と仏法が一体となって、仏祖の間に正伝されてきたと言うのである。「伝衣」においても、袈裟の伝授が仏法の伝授と一体となっていたと説いていたが、ここでも袈裟の伝授は仏法の伝授と一体となっているわけである。だが、袈裟には袈裟としての独自性もあるわけで、ここではその袈裟の独自性について詳説するのである。
袈裟は釈迦から迦葉へと正伝され、そこから二十八祖達磨に至り、達磨以後は中国において三十三祖の大鑑禅師まで正伝されてきた。いまその袈裟は曹溪山寶林寺に安置されている。だが、その袈裟だけが袈裟というわけではない、仏法を正伝されたものの着る法衣が袈裟なのである。正伝というのはだから、仏法の正伝と一体として行われるということになる。道元は、日本で最初に袈裟を着たのは聖徳太子だと言っている。達磨の来ていた衣がそのまま聖徳太子に伝わったとはいえないから、達磨の仏法を体現している袈裟を言うのであろう。
そのような仏法を体現している袈裟こそが、仏教の本道をあらわしている。それゆえ「佛化のおよぶところ、三千界いづれのところか袈裟なからん」ということになる。真の仏法の行われるところには必ず袈裟があるということである。だが誰でも袈裟を着ることができるわけではないと道元はいう。袈裟は、仏法を究めたものが着る資格を得るのだが、そのためには宿善を究めねばならない。宿善とは前世における善行のことである。そうした宿善を積んだ報いとして仏法を正伝され、袈裟を着る資格を得るのである。「もし宿善なきものは、一生二生乃至無量生を經歴すといふとも、袈裟をみるべからず、袈裟を著すべからず、袈裟を信受すべからず、袈裟をあきらめしるべからず」なのである。
道元はさらに次のように言う。「およそしるべし、袈裟はこれ佛祖の恭敬歸依しましますところなり。佛身なり、佛心なり。解脱服と稱じ、服田衣と稱じ、無相衣と稱じ、無上衣と稱じ、忍辱衣と稱じ、如來衣と稱じ、大慈大悲衣と稱じ、勝幡衣と稱じ、阿耨多羅三藐三菩提衣と稱ず。まさにかくのごとく受持頂戴すべし」。
以後、かなり些末なことに立ち入って縷々説いている。袈裟の着しかたとか、種類、材質などである。材質はできるだけ粗末なものがよいと道元はいう。粗末な材質の袈裟を糞掃衣と呼んでいる。
袈裟は仏法と一体のものだが、仏法の修行には出家することを要す。袈裟は出家しなければ着す資格がない。その出家の功徳についても説かれているが、その具体的な内容は十二巻正法眼蔵第一「出家功徳」のものと同じである。
袈裟功徳の具体的な利益を道元は十勝利と呼んでいる。あるお経の中の釈迦の言葉である。「能く其の身を覆うて、羞耻を遠離し、慚愧を具足して、善法を修行す」以下十の利益をあげている。そして「この十勝利、ひろく佛道のもろもろの功を具足せり」と言っている。
付録の部分で道元は、在宋中に自身が体験した袈裟をめぐる儀礼を紹介している。曰く、「予在宋のそのかみ、長連牀に功夫せしとき、齊肩の隣單をみるに、開靜のときごとに、袈裟をささげて頂上に安じ、合掌恭敬し、一偈を默誦す。その偈にいはく、
大哉解服、無相田衣。
披奉如來、廣度衆生。
ときに予、未曾見のおもひを生じ、歡喜身にあまり、感涙ひそかにおちて衣襟をひたす」。袈裟がいかに仏法と一体として受け取られているか、それを目の当たりに体験して感激したというのである。
冒頭は次のような文である。「佛佛祖祖正傳の衣法、まさしく震旦國に正傳することは、嵩嶽の高祖のみなり」。代々の仏祖の間に正伝してきた衣と仏法が中国に受け継がれたのは達磨によってである、と言っている。袈裟と仏法が一体となって、仏祖の間に正伝されてきたと言うのである。「伝衣」においても、袈裟の伝授が仏法の伝授と一体となっていたと説いていたが、ここでも袈裟の伝授は仏法の伝授と一体となっているわけである。だが、袈裟には袈裟としての独自性もあるわけで、ここではその袈裟の独自性について詳説するのである。
袈裟は釈迦から迦葉へと正伝され、そこから二十八祖達磨に至り、達磨以後は中国において三十三祖の大鑑禅師まで正伝されてきた。いまその袈裟は曹溪山寶林寺に安置されている。だが、その袈裟だけが袈裟というわけではない、仏法を正伝されたものの着る法衣が袈裟なのである。正伝というのはだから、仏法の正伝と一体として行われるということになる。道元は、日本で最初に袈裟を着たのは聖徳太子だと言っている。達磨の来ていた衣がそのまま聖徳太子に伝わったとはいえないから、達磨の仏法を体現している袈裟を言うのであろう。
そのような仏法を体現している袈裟こそが、仏教の本道をあらわしている。それゆえ「佛化のおよぶところ、三千界いづれのところか袈裟なからん」ということになる。真の仏法の行われるところには必ず袈裟があるということである。だが誰でも袈裟を着ることができるわけではないと道元はいう。袈裟は、仏法を究めたものが着る資格を得るのだが、そのためには宿善を究めねばならない。宿善とは前世における善行のことである。そうした宿善を積んだ報いとして仏法を正伝され、袈裟を着る資格を得るのである。「もし宿善なきものは、一生二生乃至無量生を經歴すといふとも、袈裟をみるべからず、袈裟を著すべからず、袈裟を信受すべからず、袈裟をあきらめしるべからず」なのである。
道元はさらに次のように言う。「およそしるべし、袈裟はこれ佛祖の恭敬歸依しましますところなり。佛身なり、佛心なり。解脱服と稱じ、服田衣と稱じ、無相衣と稱じ、無上衣と稱じ、忍辱衣と稱じ、如來衣と稱じ、大慈大悲衣と稱じ、勝幡衣と稱じ、阿耨多羅三藐三菩提衣と稱ず。まさにかくのごとく受持頂戴すべし」。
以後、かなり些末なことに立ち入って縷々説いている。袈裟の着しかたとか、種類、材質などである。材質はできるだけ粗末なものがよいと道元はいう。粗末な材質の袈裟を糞掃衣と呼んでいる。
袈裟は仏法と一体のものだが、仏法の修行には出家することを要す。袈裟は出家しなければ着す資格がない。その出家の功徳についても説かれているが、その具体的な内容は十二巻正法眼蔵第一「出家功徳」のものと同じである。
袈裟功徳の具体的な利益を道元は十勝利と呼んでいる。あるお経の中の釈迦の言葉である。「能く其の身を覆うて、羞耻を遠離し、慚愧を具足して、善法を修行す」以下十の利益をあげている。そして「この十勝利、ひろく佛道のもろもろの功を具足せり」と言っている。
付録の部分で道元は、在宋中に自身が体験した袈裟をめぐる儀礼を紹介している。曰く、「予在宋のそのかみ、長連牀に功夫せしとき、齊肩の隣單をみるに、開靜のときごとに、袈裟をささげて頂上に安じ、合掌恭敬し、一偈を默誦す。その偈にいはく、
大哉解服、無相田衣。
披奉如來、廣度衆生。
ときに予、未曾見のおもひを生じ、歡喜身にあまり、感涙ひそかにおちて衣襟をひたす」。袈裟がいかに仏法と一体として受け取られているか、それを目の当たりに体験して感激したというのである。
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