山水経 正法眼蔵を読む

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正法眼蔵第二十九は「山水経」の巻。その趣旨は、さとりの境地を山水にたとえたもの。さとりを自然にたとえたところは「渓声山色」に通じる。冒頭で「而今の山水は、古物の道現成」なりと言って、われわれを取り巻いている山水つまり自然こそ、仏道が現成した姿であると説く。

山水とあるが、一応山と水それぞれの功徳について説いたあと、両者一体として悟りの境地をあらわすというふうに結ぶ。まず、山についていえば、大陽山楷和尚の言葉「青山常運歩」を手掛かりにして説く。これは、山は常に歩いているという意味だが、なぜそういうかと言えば、「山はそなはるべき功の虧闕することなし。このゆゑに常安住なり、常運歩なり」と説明される。山はそれに備わった功徳がやむことがないから、常運歩だというのである。人間の歩く姿と違って見えるからと言って、山の運歩を疑うべきではないというのだ。

そこで運歩とは何かがあらためて問題になる。これについては、「いま佛の道、すでに運歩を指示す、これその得本なり」。つまり仏の道が運歩を指示しているというのである。仏の道はさとりをいうから、運歩はさとりを目指す動きということになる。人間もまたさとりをめざして歩むものだが、それと同じく山もまたさとりをめざして歩くのだというわけであろう。

山と人との関係については、次のようにも説かれる。「青山すでに有情にあらず、非情にあらず。自己すでに有情にあらず、非情にあらず。いま山の運歩を疑著せんことうべからず」。山も人も、有情・非情の差別が生じる以前の絶対的な真実としてのさとりの境地にあるという意味であろう。もっとも山はそれ自体として悟りの境地であるが、人は修行してそれをめざさねばならない。

水については、雲門匡眞大師の言葉「東山水上行」を手掛かりにして説く。この言葉の意味は、山の脚下に水が集まり、それが上昇して雲になり、その雲に山が乗るようにして天を行くということである。その天を行くさまは、青山の運歩に通じ、さとりをめざす姿を現しているということであろう。

なお、この「東山水上行」への小乗・外道の批判に対して道元は反批判している。かれらはこれを「無理会話」つまり「理屈ではわからない」と言うのであるが、それはかれらの頭が悪いからであり、頭の良い人間はこれを理解できると反論する。この辺には道元の党派性が現れているといえよう。

同じ山水でも、見方によって、あるいは生き物の種類によって違って見える。水を瓔珞として見るものもあり、妙華と見るものもある。鬼は水を猛火と見、竜魚は宮殿と見る。人間はそれを水と見るとともに、その水にさとりの境地を重ねる。

次に文子の中の言葉「水の道、天に上りては雨露を爲す。地に下りては江河を爲す」を取り上げ、水とさとりの関係について考察を深める。これは水の至らざるところはないという意味であるが、その水の一滴一滴のうちに仏国土が現成する。それゆえ、水をただ水としてだけ見るのではいけない。「いま學佛のともがら、水をならはんとき、ひとすぢに人間のみにはとどこほるべからず。すすみて佛道のみづを參學すべし。佛のもちゐるところの水は、われらこれをなにとか所見すると參學すべきなり、佛の屋裏また水ありや水なしやと參學すべきなり」というのである。

山についてもさらに考察を深める。山は昔から聖人たちのいるところであった。「おほよそ山は國界に屬せりといへども、山を愛する人に屬するなり。山かならず主を愛するとき、聖賢高やまにいるなり。聖賢やまにすむとき、やまこれに屬するがゆゑに、樹石鬱茂なり、禽獸靈秀なり。これ聖賢の徳をかうぶらしむるゆゑなり。しるべし、山は賢をこのむ實あり、聖をこのむ實あり」。

聖人の中には水に住むものもいる。水は単なる流れではなく、聖人をはぐくむ場所である。「水はこれ眞龍の宮なり、流落にあらず。流のみなりと認ずるは、流のことば、水を謗ずるなり」。

以上を踏まえて、この巻は次のような言葉で結ばれている。「かくのごとくの山水、おのづから賢をなし、聖をなすなり」。

その前に、古仏の言「山是山、水是水」について注釈している。この言葉の意味を道元は、「やまこれやまといふにあらず、山これやまといふなり」と解釈している。山は山ではない、だから山である、という意味だ。こういう言い方は禅者がよくするところだが、ここの文脈では、「山是山」を道元のように解釈するのは、ややむつかしいのではないか。






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