樋口一葉の生涯は、わずか24年の短いものだった。その短い生涯は、貧困との戦いにあけくれていた。父が生きていた少女時代には、中産階級の家族としてそれなりの生活はしていたようだが、父が一葉の17歳の時に死ぬと、一家は収入のあてがなくなり、次第に貧困に苦しむようになった。その貧困を、やがて一葉が一家の家長として引き受けるようになる。彼女の晩年の日記の記事は、金の心配事ばかりといってよいほどである。そんな中で、一葉は恋をした。もしこの恋がなければ、一葉の生涯は悲惨そのものだったろう。恋が彼女に生きる気力を奮い立たせたといってよい。一葉はその恋の思いを、日記の中で克明に記している。
一葉の恋の相手は、作家の半井桃水である。一葉は、小説作法の師匠として半井を選んだのだったが、それが恋に変わり、生涯桃水を慕うようになる。ところが彼女はその恋の成就をあきらめざるをえなかった。一つには、師の中島歌子はじめ知人・友人らの強い反対があったこと、また、半井自身に一葉への配慮が欠けていたことがその理由である。一葉は桃水との正式な付き合いが終わったあとでも、桃水への思いを忘れなかった。日記を読むと、死の年まで桃水との交際を続けており、そのたびに桃水を懐かしんでいる。もっとも、死期に近づくほど、彼女の桃水への恋情は淡白なものに変わっていくのであるが。
一葉が桃水とはじめて会ったのは明治24年4月15日のことである。日記を書き始めた日から4日後のことだ。きっかけは、妹邦子の友達野々宮きく子の紹介だった。一葉が小説作法の師を求めていることを知った野々宮が、知り合いの桃水を紹介したのである。桃水を一見しての印象を一葉は次のように記している。「君は年のころ卅計にはおはすらん。姿形など取立てしるし置かんも無礼なれど、我が思ふ所のままをかくになん。色いと白く面ておだやかに少し笑み給へるさま、誠に三歳の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈けは世の人にすぐれて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様になん」。
一葉の願いを桃水は受け入れ、「我れ師といはれん能はあらねど、談合の相手にはいつも也なん。遠慮なく来給へ」と言ってくれた。その言葉を励みに、一葉は以後頻繁に桃水を訪ねるのだ。一葉は桃水のところを訪問する際に、小説の草稿を手渡し、指導を乞うた。
一葉はその一週間後に、別の小説草稿を持参して桃水を訪ねた。その時桃水は、「先の日の小説の一回、新聞に乗せんには少し長文なるが上に、余り和文めかしき所多かり。今少し俗調に」と、かなり踏み込んだ指摘をした。小説の長さへの指摘を脇に置くと、文体についての指摘が興味深い。一葉はこの指摘を踏まえ、以後和文を基調としながら、それに俗調を取り入れるために、西鶴風の雅俗混交体というべき文体を追求していく。
明治25年の暮れまで一葉はかなりの頻度で桃水を訪ねるが、日記の上では恋情についての記述はない。ただ、桃水が男女関係が誤解されやすいことを一葉に諭すように語っていることに触れている。「余や、いまだ老果たる男子にもあらず、君は妙齢の女子なるを、交際の工合甚だ都合よろしからず」と言うのである。一葉はその言葉にひるまず、かなりの頻度で桃水を訪ね続ける。やはり桃水の教えをありがたいと感じたからであろう。
一葉が桃水への恋を自覚したのは、明治24年2月4日のことだ。後に「雪の日」としてたびたび思い出すこの日の出来事を、一葉は自分が恋を自覚した日だと認識していた。この日12時を少し過ぎたころに、一葉は平河町の桃水を訪ねる。桃水はまだ寝ていた。その桃水のいびきを聞きながら、一葉は隣の座敷にあがり、桃水の目覚めるのを待った。そのときにどんな感情を抱いたのか、日記には細かく書いてはいないが、桃水が目覚める二時ごろまでずっと彼の目覚めるのを待っていたというのは尋常ではない。若い女が男の家に単身上がりこみ、その寝息を聞き続けていたというのである。
2月4日の訪問のすぐあと、一葉は小説「闇桜」を脱稿する。桃水はそれを自分がかかわっている雑誌「武蔵野」に載せることを約束する。その際に、本名ではなくペンネームを使ったらどうかとアドバイスされる。彼女が選んだのは「一葉」である。その一葉という名に込めた気持ちを、後に次の歌で表現している。
なみ風のありもあらずも何かせん一葉のふねのうきよ也けり
自分の身の境遇を波間にただよう船のたよりなさにたとえたということか。
一葉と桃水との関係は公然たる恋愛関係には発展しなかったけれども、悪い噂が立った。その噂を気にする記事が明治25年5月29日の日記にある。「我始めより、かの人に心ゆるしたることもなく、はた恋し床しなど思ひつること、かけてもなかりき。さればこそあまたたびの対面に、人けなき折々は、そのこととなく打ちかすめてものいひかけられしことも有しが、知らず顔につれなうのみもてなしつる也。さるを、今しも、かう無き名など世にうたはれ初て、処せく成ぬるらん、口惜しとも口惜しかるべきは常なれど、心はあやきしものなりかし」。
噂はやがて師中島歌子の耳にも入る。歌子は、桃水が一葉を妻と吹聴していることを取り上げ、もしそんなことがないならば、桃水とは絶交したほうがよい、と忠告する。一葉はその忠告に従って、桃水と絶交する振舞いをする。この振る舞い方が、ちょっとわかりづらい。日記には、桃水のやり方を「にくしともにくし」と書いて、もう桃水には未練がないというような気持を表出しているが、じつは彼女の桃水への恋情は簡単には収まらず、以後彼女は桃水を思い続けるのだ。さすがに死ぬ直前ともなれば、桃水への気持ちは淡白なものにかわるが、絶交以後も一葉は桃水を思い続けるのである。
桃水と絶交したあとに、かつての婚約者であった渋谷三郎が来訪する。渋谷は父親が夏子の婿に決めていたのだが、父親の死後縁談は破談になった。樋口家が渋谷を金銭的に支援できないというのが理由だった。その渋谷に対して、母親の多喜は面白くない感情を抱いていたが、一葉自身はまんざらでもないと思った。そこで渋谷からの復縁の仄めかしに心が動いた。渋谷の妻になれば、いまや成功した彼の金力を以て、自分や家族が楽になれるだろうと打算したのだ。しかし一葉は思いとどまった。「今にして此人に靡きしたがはんことなさじとぞ思ふ」、と決意するのである。
一葉の桃水との関係は、死の直前まで続いた。日記を読むと、一葉から桃水の家に訪ねていったり、桃水が一葉を訪ねてきたりした。そのたびに一葉は、なつかしい気持ちでいっぱいになる。その思いが絶頂に達するのは、離別後二年後の明治27年7月12日である。その日の日記に一葉は次のように書いている。「一度は、ふたたび此人を思はじ。思へばこそさまざまのもだえをも引おこすなれ。諸事はみな夢、この人こひしと思ふもいつまでの現かは。我にはかられて我と迷ひの淵にしづむ我身、はかなし・・・かく計したはしく、なつかしき此人をよそに置て、思ふ事をも語らず、なげきをももらさず、おさへんとするほどにまさるこころは、大河をふさぎてかへってみなぎらするが如かるべし」。
一葉が恋する半井桃水は、どう思っていたのか。一葉の日記が公刊されるや、半井は俄然時の人となり、各方面から誹謗されたり、廣津柳浪などは、「一葉の恋人はまさしく君であったそうな」と言ってきたが、桃水本人は、自分ら二人の仲は「兄妹であったより以上の何事もなかった」と言っている。
コメントする