壺齋小説

 小生が学海先生の史伝体小説を書き上げたのは六月末のことであった。小生としてはもう少し書きようがあると思わないでもなかったが、なにしろ初めての試みであるし、自分の能力を以てしてはこれくらいが限界だろうと思って筆を擱いた次第だった。書き上げるとすぐに原稿の写しを英策に送り、後で感想を聞かせて欲しいと頼んだ。
 小生は鬼貫平右衛門の疑念を解くのに多少の難儀をしたが、なんとか理解してもらった。それにはあかりさんの助力が大きくものを言った。あかりさんが小生を子どもの頃からの知り合いだと言ってくれたので、あかりさんにすでに心を許していた平右衛門は、小生にも心を開いてくれたのだった。それでも小生が自分自身の子孫だということには、なかなか納得がいかないようだった。
「お前の隣にいるのは、上田さんとこのあかりちゃんじゃないのかえ?」
 小生の母はひかりちゃんを指さしながら言った。
「いや、この子はあかりさんの子どもなんだ。ひかりちゃんというんだ」
「そうなの? お母さんによく似ているね。うり二つだよ。いくつなの?」
「十四歳です」
 小生の母に聞かれてひかりちゃんは答えた。
 英策と話しているうちに小生には小説の結び方に一定のイメージが湧いて来たように感じた。英策が指摘するまでもなく、この小説は学海先生の史伝という形をとっていながら、そこに小生の個人的な事情を介在させている。しかもそれが英策の言う通り、小説の本筋とはほとんどかかわりがない。これでは全く異なったものが一片の小説に無秩序に混在する結果となり、小説としてのまとまりを著しく損なっていることは、英策の指摘を待つまでもない。そこで小説のどこかでこの両者に橋渡しをする必要が生じるが、小説をここまで書いてきてしまった以上、ラストの部分でそれを行わねばならないだろう。
 三州盤踞策をとった西郷軍は、薩摩、大隅、日向を舞台にして、九月の下旬に鹿児島の城山で全滅するまでの間、官軍と壮絶な戦いを繰り広げる。その戦いにはいくつかの重大な局面が認められる。まず西郷軍が最初に本営を置いた人吉での戦いに始まり、鹿児島、都城、宮崎、延岡と順治舞台を移して、最後には鹿児島の城山に集結した西郷軍最後の精鋭部隊が官軍によって壊滅させられ、西郷自身も城山付近の宮崎口で切腹して果てるのである。
 田原坂と山鹿を抜かれた西郷軍は一時総崩れとなったが、熊本の南方で体制を持ち直し、大津から御船に至る二十キロの防衛戦を敷いて、官軍を迎え撃つ体制を整えた。その際の西郷軍の兵力は一万を割っていた。一方官軍は数万の兵力を擁し、西郷軍を一気に叩き潰そうと意気盛んであった。
 明治十年二月十五日、西郷は桐野、篠原、村田らを始め一万三千人にのぼる鹿児島県士族を率いて熊本に向かった。これに先立つ二月十二日には、鹿児島県令大山綱良が、陸軍大将西郷隆盛が政府に尋問すべきことがあって兵隊を従え上京するから、これをつつがなく通行させるようにとの通告を政府と各県に送った。西郷軍は道々各地からはせ参じた不平士族らを吸収し、あっというまに三万余の大軍となった。その西郷軍の門出を見送るかのように、南国には珍しい雪が降った。
 旧佐倉藩士依田学海をめぐるこの史伝体小説はついに明治十年にたどり着いた。以前にも書いたように、小生はこの小説を明治十年まで書き継ぐつもりでいた。その目標としていた年についにたどり着いたわけである。この年は言うまでもなく西南戦争が行われた年である。この戦争には学海先生も異常な関心を示し、先生のこの年の日記はもっぱらこの戦争への言及で満たされている。先生がそれほどまでこの戦争にこだわったのには、それなりの理由があると思う。この戦争は武士階級の存在意義というものが根本的に否定されて、天皇を中心とした新たな国づくりが始まる結節点に位置する。それゆえこの戦争は、一つの時代の終わりと新しい時代の始まりを画すシンボルのようなものでもある。武士として生まれ、武士としての心情を生涯持ち続けた学海先生にとっては、この戦争は自分のアイデンティティにかかわるものだったのであろう。
 五月の下旬、あかりさんから職場に電話がかかって来て、これから会えるかと聞かれた。電話を受けたのは午後一時過のことで、二時から重要な会議を控えていた。小生は会議の主催者なので外すわけにはいかない。それでその会議が終わったらすぐにでも会うようにしよう、四時には職場を出るようにするから、四時半には銀座のいつもの喫茶店に着けると思う。そう言って電話を切った。
 神風連の乱が起きた四日後、十月二十八日には山口県の不平士族が乱を起こした。これを萩の乱という。首謀者の前原一誠は松下村塾の出身であり、維新当時には参議・兵部大輔の要職についたほどの大物だった。明治三年に下野して以来、山口県不平士族のシンボル的な存在となり、新政府の政策を厳しく批判していたが、廃刀令と秩禄処分によって士族の生命線が破壊されたと見るや、一段と過激さを増していた。そんな矢先に熊本で神風連が立ち上がったと知り、それに呼応する形で乱を起こしたのである。
 明治九年の秋から翌年の秋にかけての一年間は、いわゆる不平士族の反乱が各地に勃発した。まず明治九年の十月に熊本で神風連の乱と言われるものが起き、それに続いて福岡で秋月の乱が、更に山口で萩の乱が起った。翌明治十年になると鹿児島を舞台に西南戦争と称される大規模な内乱が起り、これが二月から九月まで続いた。これら士族の反乱に加えて農民を中心とした一揆も起った。出来て間もない維新政府は大きな危機に直面したのである。維新政府はこの危機を乗り越えることで、有司専制から踏み出して天皇制絶対主義体制を確立したというのが、大方の歴史の見方と言ってよい。
 この頃学海先生がもっとも親密に交際していたのは川田甕江であった。甕江は藤森天山門下の同輩で少年時からの付き合いであるし、今は修史局の先輩として職場を同じくしていたので、毎日のように顔を合わせていたわけだから、自ずから親密さも増すのである。その甕江はいまや天山門下の世話焼きのような形で、同門の誼を深める触媒のような役割を果たしていた。甕江の呼びかけに応じて、同門の人々はけっこう頻繁に会っていたのである。
 修史局における学海先生の仕事ぶりは、所属や担当事項を何度か替えられた後に、南北朝時代の末期から応永年間の初期に渡って歴史の真実を明らかにすることに向けられていた。通説では南朝の元号は元中九年を以て終了し、そのことで南北朝時代が終わりを告げたということになっている。そこを先生は、元中九年以降も南朝の年号は続いていたのではないかと推測した。そのためには南朝の天子の存在が不可欠となるが、先生はその天子を後村上帝の御子泰成親王あるいは懐良親王の御子雅良ではないかとして、その親王を戴いた南朝勢力が少なくとも元中十二年までは存在していたと推測した。元中十二年は北朝の元号で応永二年にあたる。
 眼を覚ますと、あかりさんは浴衣を着た姿で縁側に座り、池の水に見入っているようだった。小生は彼女に
「おはよう」と声をかけて床から出た。
 そして下着と浴衣を身に着けてトイレに入り、小用を済ませてあかりさんの隣に座った。
「よく眠れたかい?」
「ええ、まあ、布団だからいつかみたいにベッドから落ちることはなかったけど、何度もあなたに蹴飛ばされて布団からはみ出したけどね」
「それは申し訳なかった」
 小生はあかりさんからまたもや寝相の悪さを指摘されて、すっかり恐縮してしまった。
四月も終わり近く、小生はあかりさんを誘って伊豆に小さな旅をした。東京駅中央コンコースの新幹線改札口前で待ち合わせ、九時過ぎのこだま号に乗った。彼女は淡いグリーンのコットンジャケットにベージュ色のチノパンツをはいていた。座席に腰かけるといたずらそうな顔をして、
「今日は教員仲間の女友達と旅行すると言って出て来たのよ」と言った。
「女友達がいつの間にかむくつけき親爺に変わっていたというわけだね」
 そう小生が返すと、
「軽口をたたかないで。これでも娘には気を使っているんだから」とあかりさんは不平そうな顔を見せて言った。
 柳北居士の政府攻撃の手は五日間の自宅禁固に処せられたくらいでは引っ込まなかった。禁固の期間があけた後、以前に増して政府批判を強めた。末広鉄腸が自宅禁固から解放されると彼を朝野新聞の編集長に迎え、二人三脚で政府批判を続けた。その末広は井上薫に呼びつけられて政府の役職を提供すると言われたが、その懐柔を策せることを見抜いた末広は、断固その誘いを拒絶していた。そんな末広のジャーナリストとしての気概を柳北居士は高く評価したのである。
 学海先生は墨堤に居を構えたことで一人の友人を新たに得た。成島柳北である。柳北のことを先生は、郵便報知新聞の先輩栗本鋤雲からしばしば噂話を聞いていた。共に幕臣として幕末に活躍し、維新政府におもねらず、フランスにも旅行したことなど、柳北と鋤雲には共通するところが多かった。年は鋤雲のほうが十五歳も上だったが、鋤雲はこの年下の才子を非常に高く評価していた。しかし学海先生にとって成島柳北といえば、「柳橋新誌」の作者柳北居士として、つとに畏敬すべき存在だった。その柳北が墨堤に定めた住まいの近くに住んでいると知って、先生は早速厚誼を求めたのである。
 郵便報知新聞を舞台にした学海先生の活躍はそう長くは続かなかった。社長小西に迎えられた古沢滋が紙面を洋風の議論で埋めるようになり、それに伴って社員にも洋学者を多く用いるようになったため、学海先生のように漢学をベースにした議論は次第に浮き上がるようになってきた。そこで先生はもはやこの新聞社に自分の居場所はなくなったと感じて、自ら身を引いたのであった。時に明治八年三月十四日、採用されてからわずか四か月後のことであった。
 学海先生は高まりつつある不平士族の動きには批判的であったし、また板垣等の自由民権運動にもあまり理解を示さなかったようである。その当時の先生の日記には、そうした政治的な動きに触れた記事はあまり見られず、ましてやそうした動きに対して先生自身の考えを述べたものは皆無と言ってよい。先生が主に記しているのは会議所を舞台とした先生自身の活躍ぶりである。
 この年は桜の咲くのが早かった。三月中に満開になった。そんな折、英策から電話がかかってきて一緒に花を見に行こうと誘われ、三月も末に近い頃宮小路の家で会った。英策は花見用だといって、途中で買ってきたという弁当を二人分ぶら提げていた。我々は家を出て肩を並べて歩き、城址公園の方向へ向かって歩いた。途中中学校の隣にある酒屋で缶ビールを買い求め、城址公園に着くと空堀の土手の芝生に腰を掛けて、満開の桜を見ながら缶ビールを飲み、弁当を食った。春爛漫といった雰囲気だった。
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