美を読む

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「紳士とワインを飲む女」は、「士官と笑う娘」とよく比較される。両者とも若い娘がワインを飲むところをテーマにしながら、そこに男女の愛を絡ませている。また、若い娘がワインを飲むことは公序良俗に反しているのだとの寓意を込めている。といった具合に両者の共通性を強調する見方もあれば、構図の相違に着目する見方もある。いづれにしてもこの二つの作品は、遠くない時期を挟んで製作されたと考えられる。

士官と笑う娘:フェルメールの女性たち

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「士官と笑う娘」は1658年頃、「窓辺で手紙を読む女」の翌年あたりに製作されたと考えられる。絵の舞台となっている室内空間が、「窓辺」と同じ部屋の空間であることが、窓の形からわかる。両者で異なるのは、この絵の中では壁に地図がかかっていることだ。この地図は、フランドル地方を、南北軸ではなく東西軸で描いている。当時地図は高価な貴重品であったから、これを絵の中で見せびらかすことで、この空間の知的雰囲気を強調しているのだとも考えられる。

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「窓辺で手紙を読む女」は、「眠る女」のすぐ後に製作されたと考えられるが、この短い間にフェルメールの腕前は飛躍的に高まった。まず光の処理がうまくなった。「眠る女」では、光の効果は絵の前面に集中し、そのため全体のバランスが悪くなっていたのに、この絵では、左側の窓を光源として画面全体にゆきわたっている。そのおかげで全体のバランスがよくなり、また光が一定の方向に向かっているため、陰影もダイナミックに表現されている。構図もすっきりしている。

眠る女:フェルメールの女性たち

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「眠る女」は、「取り持ち女」と同時期かその直後に描かれたと考えられる。カラヴァッジオの影響で光を強調しようとしながら、それを前面の一部の空間に限定した為に、構図上のバランスが崩れ、その結果技巧的な未熟さを感じさせるからだ。だが、一人の女性に焦点を当てていること、歴史や宗教への感心を感じさせないことなどは、その後の作風に通じるところがあり、フェルメールの画業の中での過渡的な作品だと位置づけることができよう。

取り持ち女:フェルメールの女性たち

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フェルメールには、製作年代の記載がある絵が3点だけある。「取り持ち女」はその最も古い作品で1656年の記載がある。フェルメールが24歳のときの作品である。この作品でフェルメールは、歴史画(宗教画)から風俗画に転じたと解説されているが、実はこの作品も、聖書の記述をテーマにしている点では、前作「マルタとマリアの家のキリスト」同様歴史画といえなくもない。

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フェルメールが故郷デルフトの画家組合に入会を許されたのは1654年の暮れのことだ。その時フェルメールは弱冠22歳だった。まだ本格的な製作を始めていなかっただろうと思われる。彼のもっとも早い時期の作品は、「マルタとマリアの家のキリスト」と題したこの絵であるが、これは画家組合への入会前後に描いたと考えられる。

フェルメールの女性たち

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筆者の知人にフェルメールが好きな人がいて、フェルメールの作品を展示している美術館を求めて、世界中を飛び回っている。そんなことが可能なのは、フェルメールの作品数が少ないためもある。なにしろ今日まで残っている作品の数はわずか三十数点だ。美術館によっては数点の作品を保有しているところもあるし、都市単位にすれば精々十数都市に限られるので、その気になれば、そんなに時間をかけなくとも、満遍なく踏破することができる。

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「聖アンナと聖母子」の製作時期については、ダ・ヴィンチがフィレンツェに戻った直後(1503年頃)とする説と、晩年の1517年頃とする説とがある。この絵と同じような構図のカルトン画(ハーリントン・ハウス・カルトンと呼ばれる)が、1499年頃フランス王の依頼を受けて作られたことがわかっているが、この絵はその延長で描かれたのではないかとする説が有力である。ハーリントンのほうには幼児のヨハネが加えられているが、それを除けば聖アンナと聖母子の構図は両者でほとんど変らない。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、60歳を過ぎた晩年に、ジュリアーノ・デ・メディチの庇護を受けてローマに赴いたが、ローマではミケランジェロやラファエロの仕事がもてはやされていて、レオナルドの画家としての活躍の場はほとんどなかった。従って、今日まで残るような大作を製作していない。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノのフランチェスコ教会のために描いた「岩窟の聖母」を別人に売却してしまったために、教会との間でトラブルを起こした。そこで、その埋め合わせとして製作したのが、現在ロンドンのナショナル・ギャラリーにある第二ヴァージョンの「岩窟の聖母」である。

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1499年にスフォルツァ公ルードヴィコが政争で失脚すると、庇護者を失ったダ・ヴィンチはミラノを去り、マントヴァ、ヴェネチアを経て翌年の春頃にフィレンツェに戻った。これ以降、ダ・ヴィンチの画家としての成熟期を迎えることになる。

最後の晩餐:レオナルド・ダ・ヴィンチ

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「最後の晩餐」は世界の絵画史上最高傑作のひとつに数えられる。ダ・ヴィンチがミラノ滞在中に、スフォルツァ公ルードヴィゴの命を受け、サンタ・マリア・デレ・グラーツェ聖堂の食堂の壁画として、1495年から1497年にかけて製作した。保存に適さないテンペラ画法で描かれたため、早くも16世紀には損傷が現われ、以来何度も修復が繰り返されている。

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「婦人の肖像」もミラノ時代に描かれた肖像画の一つだ。同時期の作品「白貂を抱く婦人の肖像」と比較されることが多い。どちらも、上体を斜めにして顔を観客のほうに向けた構図だとか、強い明暗対比などがそのおもな要素だが、一番の共通点は、額に着けた飾り(フェロニエール)だ。

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「若い男の肖像」は「白貂を抱く婦人の肖像」と同じ頃にミラノで描かれたと考えられている。この若い男が右手で持っている紙片が楽譜であるところから、音楽家のフランチーノ・ガッフリオではないかと指摘される。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノにやってきてから数年後(1487年ごろ)に、スフォルツァ公の宮廷画家になることに成功した。そこでダ・ヴィンチは、ミラノの貴顕たちを描いた肖像画を何点か製作した。「白貂を抱く婦人の肖像」と呼ばれるこの絵は、その代表的なもので、別名を「チェチリア・ガッレラーニの肖像」というように、スフォルツァ公ルードヴィコ・イル・モーロの寵姫と言われた女性を描いたものである。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、30歳になった頃(1482年頃)フィレンツェを去ってミラノに赴いた。詳しい動機はわかっていないが、ミラノの支配者スフォルツァ公に自分の軍事技術を売り込むのが目的だったとも言われる。結局ダ・ヴィンチはスフォルツァ公に召抱えられることはなかった。その彼がミラノで最初に完成させた絵が、「岩窟の聖母」といわれるこの作品である。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、未完成のまま放棄した作品が多いことで知られている。「聖ヒエロニムス」と題されたこの作品もその一つである。彼の未完成癖の理由としてはいくつかのことがあげられているが、どうも彼には新たな関心の対象が現れると、それに夢中になってしまい、それまで従事していた仕事を忘れてしまうという傾向が強かったようだ。

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「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」は、ヴェロッキョの工房での宗教画から逸脱した世俗的な作品であり、レオナルドらしさが一層発揮されていると評されるものだ。もともとは、手の部分まで描かれていたが、後に下部が切断されて今日見るような形になった。そのもとの姿は、フランドル絵画の影響を強く感じさせるものであったと考えられる。上半身をやや斜めに向け、両手を膝の上にそろえて、顔を観客のほうへ向けるという構図は、フランドル絵画の著しい特徴である。

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「ブノワの聖母」は「カーネーションの聖母」よりやや後に描かれたが、著しい進歩、というかレオナルドらしさが強く見られる作品である。バックを思い切り暗くすることで、モチーフの人物をダイナミックに浮かび上がらせるところは、その最たるものである。幼子の肉体や聖母の着物の襞に見られる陰影も、モチーフをダイナミックに表現する効果を生み出している。

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「受胎告知」は「カーネーションの聖母」とともに、レオナルドの最初期の作品とされるが、レオナルドが単独で描いたのではなく、ヴェロッキョの工房における共同作品だろうと考えられる。

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