「巨人(El coloso)」と呼ばれるこの絵は、一時ゴヤの真筆であることを疑う説も出されたが、今日では一応ゴヤの真筆という合意が確定されていることになっている。「黒い絵」のシリーズとか、版画「戦争の惨禍」と共通する要素が多く指摘され、ゴヤの真筆と考えてよいのではないか。
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ナポレオンのスペイン侵略にともない、ナポレオンの弟ジョゼフがスペイン国王となった(スペイン語ではホセ)。1808年のことである。マドリード市では、ジョゼフ国王をたたえるための肖像画の制作をゴヤに依頼した。その結果が、1809年の作品「マドリード市の寓意(Alegoría de la Villa de Madrid)」である。
ゴヤは宮廷画家として貴族たちの肖像画を描いたのだったが、晩年には商人の肖像画も描いた。「イサベル・デ・ポルセール」と題されたこの肖像画は、その代表的なものである。モデルは富裕な商人アントニオ・ポルセールの若い妻である。ゴヤは、ゴドイを介してポルセールと近づきになり、たびたび饗応された。これはそのお返しとして制作されたといわれる。
「マハとセレスティーナ(Maja y celestina)」と題されるこの作品は、「バルコニーのマハたち」と対をなすもの。ゴヤの財産目録の中に、「バルコニーの若い女性を描いた2枚の絵」とされるものがあることからわかる。どちらも、売ることは考えておらず、自分自身の気晴らしのために描いたものであり、マドリードにあったかれの家の一室を飾っていた。
マハとは、スペイン語で粋な女とか伊達女というような意味である。この絵にはそのマハが二人描かれている。この絵は、サイズとしては大きいのだが、ゴヤはこれを自分の気晴らしのために描いたと言われている。二人の若い女と、あやしげな二人の人物が描かれている。若い女はゴヤのこだわりを示しているのだろう。背後の二人の人物にどんな意味を持たせようとしたのか、よくはわからない。
「着衣のマハ(La maja vestida)」と題するこの絵は、「裸のマハ」と一緒にプラド美術館に展示されている。この二つは、もともとゴヤの時代の宰相ゴドイのコレクションであったものだ。「裸体」のほうが先に制作され、「着衣」のほうが後で制作されたようである。ゴドイは、「裸体」のカモフラージュ用に、着衣のマハの制作をゴヤに依頼したと信じられている。
裸のマハ(La maja desnuda)と呼ばれるこの絵は、ゴヤの最高傑作のひとつである。ゴヤはこの絵を、時の宰相マヌエル・デ・ゴドイの求めに応じて制作した。ゴドイにはポルノ趣味があって、女のヌードを描いた作品のコレクションを、自宅の一部屋で飾っていたそうである。
ゴヤがカルロス四世によって宮廷画家に任命されるのは1789年のことだが、有名な「カルロス四世とその家族」を制作するのは1800年のことである。版画集「カプリーチョス」を1799年に出版している。この家族の集団肖像画の制作には、王妃マリア・ルイーサの意向が強く働いているとされる。
アルバ公爵夫人は、美貌で知られていたという。1796年に夫のホセが死んだので、彼女はアンダルシアの別荘で一年間喪に服した。その折にゴヤは夫人に随行し、彼女の肖像画を何点か制作した。夫人の希望によるものである。この作品は、その一部。
「魔女の飛翔(Vuelo de Brujas)」と題するこの作品は、「魔女の夜宴」と同じく、オスナ公爵の依頼を受けて制作した六点の怪異画のうちの一つ。マドリード郊外の公爵の別荘ラ・アラメダに飾られた。モチーフは、飛翔する魔女たちである。
「魔女の夜宴(Aquelarre)」と題されたこの絵は、オスーナ公の別荘を飾る怪異画6点のうちの一つである。モチーフは、バスク地方の魔女伝説に取材している。バスク地方には、魔女が子供をさらって、それを悪魔に生贄として捧げるという言い伝えがあって、たびたび異端裁判の対象となった。一番有名な魔女裁判は、スカラムルディの魔女を対象としたものだが、ゴヤがこの絵を描いたのは、その裁判が起こされる以前のことである。
ゴヤは、1792年に重病を患い、聴覚を失ってしまった。かれにとってはショッキングな出来事で、深刻な鬱状態に見舞われたようだ。絵画制作の注文を受ける余裕もなくなったほどである。そんな折に、自分自身への慰めのために小品をいくつか描いている。「狂人のいる庭( Corral de locos)」と題する作品はその一つである。
1788年にカルロス三世が没し、カルロス四世がスペイン国王に即位する。ゴヤはその翌年(1789)に、カルロス四世付の宮廷画家に任命され、引き続き宮廷画家としての職務に励むことになる。その頃のゴヤの美術面での主要な仕事は、王の離宮の装飾にかかわるものだった。すでにカルロス三世のために、パルド離宮のタペストリー下絵シリーズの制作に取り組んでいたが、つづいてカルロス四世の離宮サン・ロレンソ・エル・エスコリアル宮殿のタペストリー制作に従事した。「竹馬(Los zancos)」と題するこの作品は、シリーズ最後を飾るものである。
「サン・イシードロの牧場( La pradera de San Isidro)」と題されたこの作品は、パルド宮殿を飾るタペストリーのための下絵として制作された。パルド宮殿は、時の国王カルロス三世の離宮である。ゴヤは、1786年にカルロス三世の国王付き画家に任命され、その仕事の一環としてパルド宮殿のタピストリー制作にかかわった。ゴヤはその下絵をいくつか描いており、この作品はその一つである。
「マヌエル・オソーリオ・マンリケ・デ・スニガ(Manuel Osorio Manrique de Zuñiga)」と題したこの肖像画は、男の子の肖像画としては、ピカソの作品「ピエロに扮したパウロ」と並んで、美術史上最も有名なものである。モデルの少年は、スぺインの大銀行サン・カルロス銀行の理事であり、財力に物を言わせてゴヤを雇い、家族の肖像画を数点制作させた。マヌエルは彼の末子であり、この時三歳か四歳の子供だった。
「フロリダブランカ伯爵の肖像」は、肖像画家としてのゴヤの名声を一気に高めた作品である。フロリダブランカ伯爵ホセ・モニーノは、スペイン王カルロス三世の信頼厚く、1777年以来宰相を務めていた。その人物にゴヤがどのような機縁で近づいたかはよくわからぬが、その肖像画を制作するや、大いに気に入られ、貴族社会に名を知られるようにもなった。そうした境遇をバネに、ゴヤは宮廷画家に迎えられることになる。
ホガースは、版画家としては有名だが、油彩画家としてはあまり高くは評価されていない。そんな彼の油彩画のうち、最も有名なのが「エビ売りの少女」と呼ばれるこの作品である。これは一応肖像画ということになっているが、注文を受けて描いたわけではなく、ホガース本人の気晴らしとして描かれたものらしい。ホガース生存中は常に手元に置かれ、死後も妻はこれを売却せずに手元においた。クリスティーズのオークションにかけられたのは、妻の死後1789年である。その際に、カタログに「エビを売る少女」と記された。
ウィリアム・ホガースの版画「ジン横町(Gin Lane)」は、「ビール通り(Beer Street)」と一対をなすもので、後者がビールが人々に及ぼす肯定的な効果を強調しているのに対して、これは、ジンが人々に及ぼす否定的な効果を強調する。その効果とは、人間の堕落であり、道徳の破壊であり、コミュニティの崩壊である。
ウィリアム・ホガースが1751年に制作した版画「ビール通り(Beer Street)」は、「ジン横町(Gin Lane)」と一対になっている。これは、1750年に制定された法律「焼酎販売法( Sale of Spirits Act 1750)」の宣伝のために作られたものと言われる。焼酎販売法は、外国から輸入されるジンなどのスピリット類が、イギリス人を堕落させているとし、かわって国産ビールを飲むように勧める法律である。その法律の宣伝になぜホガースがかかわったのか。おそらくホガース自身に、外国から輸入される焼酎類に反感があったからと思われる。
ウィリアム・ホガースの版画シリーズ「選挙のユーモア(Humours of an Election)」の第四作は「議員を椅子に乗せる(Chairing the Member)」と題する。選挙の結果当選した議員を、支持者らが椅子に乗せて行進する様子を描く。行進は穏やかには進まない。どんちゃん騒ぎを伴う。
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