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取り持ち女:フェルメールの女性たち

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フェルメールには、製作年代の記載がある絵が3点だけある。「取り持ち女」はその最も古い作品で1656年の記載がある。フェルメールが24歳のときの作品である。この作品でフェルメールは、歴史画(宗教画)から風俗画に転じたと解説されているが、実はこの作品も、聖書の記述をテーマにしている点では、前作「マルタとマリアの家のキリスト」同様歴史画といえなくもない。

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フェルメールが故郷デルフトの画家組合に入会を許されたのは1654年の暮れのことだ。その時フェルメールは弱冠22歳だった。まだ本格的な製作を始めていなかっただろうと思われる。彼のもっとも早い時期の作品は、「マルタとマリアの家のキリスト」と題したこの絵であるが、これは画家組合への入会前後に描いたと考えられる。

フェルメールの女性たち

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筆者の知人にフェルメールが好きな人がいて、フェルメールの作品を展示している美術館を求めて、世界中を飛び回っている。そんなことが可能なのは、フェルメールの作品数が少ないためもある。なにしろ今日まで残っている作品の数はわずか三十数点だ。美術館によっては数点の作品を保有しているところもあるし、都市単位にすれば精々十数都市に限られるので、その気になれば、そんなに時間をかけなくとも、満遍なく踏破することができる。

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「聖アンナと聖母子」の製作時期については、ダ・ヴィンチがフィレンツェに戻った直後(1503年頃)とする説と、晩年の1517年頃とする説とがある。この絵と同じような構図のカルトン画(ハーリントン・ハウス・カルトンと呼ばれる)が、1499年頃フランス王の依頼を受けて作られたことがわかっているが、この絵はその延長で描かれたのではないかとする説が有力である。ハーリントンのほうには幼児のヨハネが加えられているが、それを除けば聖アンナと聖母子の構図は両者でほとんど変らない。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、60歳を過ぎた晩年に、ジュリアーノ・デ・メディチの庇護を受けてローマに赴いたが、ローマではミケランジェロやラファエロの仕事がもてはやされていて、レオナルドの画家としての活躍の場はほとんどなかった。従って、今日まで残るような大作を製作していない。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノのフランチェスコ教会のために描いた「岩窟の聖母」を別人に売却してしまったために、教会との間でトラブルを起こした。そこで、その埋め合わせとして製作したのが、現在ロンドンのナショナル・ギャラリーにある第二ヴァージョンの「岩窟の聖母」である。

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1499年にスフォルツァ公ルードヴィコが政争で失脚すると、庇護者を失ったダ・ヴィンチはミラノを去り、マントヴァ、ヴェネチアを経て翌年の春頃にフィレンツェに戻った。これ以降、ダ・ヴィンチの画家としての成熟期を迎えることになる。

最後の晩餐:レオナルド・ダ・ヴィンチ

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「最後の晩餐」は世界の絵画史上最高傑作のひとつに数えられる。ダ・ヴィンチがミラノ滞在中に、スフォルツァ公ルードヴィゴの命を受け、サンタ・マリア・デレ・グラーツェ聖堂の食堂の壁画として、1495年から1497年にかけて製作した。保存に適さないテンペラ画法で描かれたため、早くも16世紀には損傷が現われ、以来何度も修復が繰り返されている。

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「婦人の肖像」もミラノ時代に描かれた肖像画の一つだ。同時期の作品「白貂を抱く婦人の肖像」と比較されることが多い。どちらも、上体を斜めにして顔を観客のほうに向けた構図だとか、強い明暗対比などがそのおもな要素だが、一番の共通点は、額に着けた飾り(フェロニエール)だ。

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「若い男の肖像」は「白貂を抱く婦人の肖像」と同じ頃にミラノで描かれたと考えられている。この若い男が右手で持っている紙片が楽譜であるところから、音楽家のフランチーノ・ガッフリオではないかと指摘される。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、ミラノにやってきてから数年後(1487年ごろ)に、スフォルツァ公の宮廷画家になることに成功した。そこでダ・ヴィンチは、ミラノの貴顕たちを描いた肖像画を何点か製作した。「白貂を抱く婦人の肖像」と呼ばれるこの絵は、その代表的なもので、別名を「チェチリア・ガッレラーニの肖像」というように、スフォルツァ公ルードヴィコ・イル・モーロの寵姫と言われた女性を描いたものである。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、30歳になった頃(1482年頃)フィレンツェを去ってミラノに赴いた。詳しい動機はわかっていないが、ミラノの支配者スフォルツァ公に自分の軍事技術を売り込むのが目的だったとも言われる。結局ダ・ヴィンチはスフォルツァ公に召抱えられることはなかった。その彼がミラノで最初に完成させた絵が、「岩窟の聖母」といわれるこの作品である。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは、未完成のまま放棄した作品が多いことで知られている。「聖ヒエロニムス」と題されたこの作品もその一つである。彼の未完成癖の理由としてはいくつかのことがあげられているが、どうも彼には新たな関心の対象が現れると、それに夢中になってしまい、それまで従事していた仕事を忘れてしまうという傾向が強かったようだ。

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「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」は、ヴェロッキョの工房での宗教画から逸脱した世俗的な作品であり、レオナルドらしさが一層発揮されていると評されるものだ。もともとは、手の部分まで描かれていたが、後に下部が切断されて今日見るような形になった。そのもとの姿は、フランドル絵画の影響を強く感じさせるものであったと考えられる。上半身をやや斜めに向け、両手を膝の上にそろえて、顔を観客のほうへ向けるという構図は、フランドル絵画の著しい特徴である。

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「ブノワの聖母」は「カーネーションの聖母」よりやや後に描かれたが、著しい進歩、というかレオナルドらしさが強く見られる作品である。バックを思い切り暗くすることで、モチーフの人物をダイナミックに浮かび上がらせるところは、その最たるものである。幼子の肉体や聖母の着物の襞に見られる陰影も、モチーフをダイナミックに表現する効果を生み出している。

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「受胎告知」は「カーネーションの聖母」とともに、レオナルドの最初期の作品とされるが、レオナルドが単独で描いたのではなく、ヴェロッキョの工房における共同作品だろうと考えられる。

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レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年にトスカナ地方の村ヴィンチに生まれ、17歳の頃、フィレンツェの画家・彫刻家アンドレア・デル・ヴェロッキョの工房に弟子入りして画家としての修行を始めた。レオナルドは早くから絵の才能を示し、ヴァザーリを通じて彼の才能を知ったヴェロッキョが、その才能を伸ばしてやるようにレオナルドの父親を説得したのだった。

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レオナルド・ダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)は、イタリア・ルネサンスを象徴するような人物であるばかりか、人類史に屹立する偉大な人間である。絵画の歴史においても、偉大な業績を残している。彼はイタリア・ルネサンス芸術を代表する画家であり、人類の絵画史上において最も偉大な画家ともいえるのだ。

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システィナ礼拝堂壁画「最後の審判」の最下列右側は地獄に落とされた人々を描いている。これら呪われた人々は、渡し守カロンによって船で三途の川を渡され、地獄の入口でミノスに引き渡される。するとミノスは、人々の罪状に応じて、地獄のなかの各部分に割り当てるのだ。そのミノスの有様をダンテの「神曲」は次のように記述している。

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システィナ礼拝堂壁画「最後の審判」の最下列は、そのすぐ上の列と密接に対応している。即ち、左側については、上の列が祝福された人々を描いているのに対応して、下の列は復活した死者がイエス・キリストの呼びかけに応えて起き上がる場面を描いている。一方右側については、上の列でキリストから呪われた人々が、下の列では地獄へ引き渡される場面を描いている。

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