知の快楽

廣松渉の表情論は、哲学的な議論としてはかなりユニークである。表情という言葉で、人はふつう顔を思い浮かべるであろう。顔があるのは、人間や、せいぜいが動物などの生き物だから、表情が認められるのはそうした生き物に限られる、と思いがちだが、廣松の場合には、生き物に留まらず、森羅万象あらゆるものに表情があるという。あるいは表情性があるのだという。

廣松渉は弁証法について、それを論ずるに留まらず、実際に実践してみせた。わかりやすい例が、彼の主著「存在と意味」である。この浩瀚な書物は、文字通り存在と意味について壮大な論理展開をしているのであるが、目次を一瞥しただけで、これがヘーゲルの「大論理学」とマルクスの「資本論」を踏まえた体裁になっていることが読み取れる。「大論理学」も「資本論」も、弁証法的な論理展開を繰り広げていることで知られるが、廣松もそれらにならうことによって、自らの壮大な理論体系を弁証法的に展開してみせたわけである。

廣松渉のマルクス受容は、物象化論を中心に行われた。廣松以前におけるマルクスの哲学的解釈は「疎外論」を中心にしたものが多かったわけだが、廣松はそれを「物象化論」を中心にしたものに転換させたのである。

西洋哲学の伝統においては、真理は主観と客観、認識と存在との一致の問題として考えられてきた。主観的な意識内容が客観的な意識対象と、あるいは主観的な認識作用が客観的な存在と合致すること、それが真理であるとされてきた。ところが廣松は、そうは考えないという。真理について主題的に論じた著書「存在と意味」のなかで、廣松は次のように宣言する。

廣松渉の主著「存在と意味」は、廣松なりの流儀で、認識論と存在論との間に橋渡しをし、人間の認識と世界の存在とを整合的・一体的に説明しようと試みたものである。というのも、この二つは西洋哲学の歴史において長らく分裂したままで、認識論を語るものは存在を語らず、存在論を語るものは人間の認識を軽視していたからだ。こうした傾向の中でも、どちらかといえば認識論が優位に立ち、存在論はやや陰をひそめていた観があった。とりわけ、現代哲学に巨大な影響を及ぼしたカントが、人間の認識を意識の内部に限定して、客観的な存在者をそれ自体は認識不可能な物自体としたことで、この傾向はさらに強まったといえる。廣松の問題意識は、このような歴史的経緯を踏まえ、存在論の復権をはかりつつ、それをいかに認識論と融合させるかということにあった。

廣松渉の謂う「事的世界観」とは、「"もの"に対する"こと"の基底性」、「"実体"に対する"関係"の第一次性」を基本に置く思想である。デカルト以来の西洋哲学の伝統においては、"もの"がまずあってそれが相互にかかわりあうことから"こと"が生じる、あるいは、"実体"がまずあってそれが相互に"関係"しあう、という風に考えられてきたのであるが、廣松はそれを逆さまにしたわけである。

エドムント・フッサールに対する廣松渉の批判の眼目は、主に二つの点に集約される。ひとつは、フッサールが謂うところの「本質直観」が物象化的錯誤であるとする点、もうひとつは、間主観性の議論が抽象的な無内容の粋を出ていないとする点である。廣松は、これらの批判を、「事的世界観への前哨」に収められた小論「フッサールと意味的志向の本諦」の中で展開している。

エルンスト・マッハは、新カント派の中心的な思想家であり、かつ自然科学者としても数々の業績を残しているが、レーニンが「唯物論と経験批判論」のなかで徹底的に批判したこともあって、日本では、一流の思想家としてはなかなか認められなかった。そんなマッハを、本格的に日本に紹介したのが廣松渉である。廣松はマッハの主著「感覚の分析」や「認識の分析」を翻訳する一方、その思想の特徴を解明している。「事的世界観への前哨」に収められた「マッハの現相主義と意味形象」と題する論文は、その成果である。

サルトルは、ヘーゲルの自己意識論に依拠しながら、独自の対人関係論を展開したが、廣松渉はそれを、自分の「共同主観性」論と対比させながら、その意義と限界について論じている。(「世界の共同主観的存在構造」Ⅱ、一、第二節 役柄的主体と対他性の次元)

この奇妙な題名は、廣松渉の哲学的著作「世界の共同主観的存在構造」第一章の章題である。この書物の課題は、人間の認識の根本的なあり方を明らかにすることであるが、それを廣松は共同主観的なあり方としてとらえた。従来の哲学の主流の意見においては、人間の認識作用を主観―客観図式でとらえたうえで、主観は意識内在的なもの(したがって各私的かつ自律的)であり、かつすべての個人を通じて同型的であるとされてきた。このような見方に対して廣松は、主観の各私性・自律性を否定し、それが共同主観的な枠組によって歴史的・社会的に制約されていること、その制約は個別の意識にとっては外在的なものとして働くということを主張した。何故そういえるのか、その根拠を明らかにしたのが、この「現象的世界の四肢的存在構造」と題する章なのである。

廣松渉といえば、ユニークなマルクス主義者として、1960年代前後の日本の新左翼的言説の中心にいた人物として評価されるのが普通だが、彼にはもうひとつ、哲学者としての顔があった。というのも、かれは東大の哲学教授であったわけだし、そのような立場から、日本の哲学界の歴史的な傾向に掉さすようなかたちで、哲学的な思考を展開してもいたわけである。

1940年9月下旬のある日、スペインとポルトガルを経由してアメリカへの亡命を図ったベンヤミンは、一時的に滞在していたマルセイユを出発してピレネーへと向かったが、その時マルセイユにはハンナ・アーレントも滞在していた。アーレントはベンヤミンより14歳も年下であったが、どこかで気が合っていたらしく、ベンヤミンは彼女に遺稿となった作品の一部(「歴史の概念について」)を託している。その遺稿をアーレントは、ベンヤミンの死の翌年にアメリカへ亡命した際に、ベンヤミンの指示にしたがってアドルノに渡している。彼女がベンヤミンの死の詳細について知ったのは、アメリカへ渡った後だったと思われる(死亡の事実については、ベンヤミンの死後4週間後に知らされたらしい)。

ベンヤミンは、同時代の芸術運動に深い関心をもっていた。なかでも彼が大きな関心を注いだのは、未来派とシュルレアリズムだった。だがその関心のベクトルは正反対を向いていた。前者はいわばマイナスの方向を、後者はプラスの方向を。ベンヤミンにとって芸術とは、社会の変革と大いにかかわりを持つはずのものとして意識されていたのだが、前者は芸術のための芸術を標榜することによって、大衆から社会変革のエネルギーを抜き取る効果を発揮していた。それにたいして後者は、芸術を通じて社会の変革を目指そうとしていた。そのようにベンヤミンは、受け取ったのだった。

フランツ・カフカが生前に発表した作品は「変身」など少数の短編小説だけだったが、それでも一部の人々の間に熱狂的な支持者を持っていた。彼の死後、いくつかの長編小説を始めとした遺稿が、自分の死後廃棄して欲しいというカフカ自身の遺言に逆らって公表されると、俄然広範囲にわたる反響を引き起こした。それは、カフカ現象ともいうべきもので、カフカは一躍、世紀の大作家の地位に祭り上げられた。しかし、カフカの小説の世界は、あらゆる基準からして、従来の文学の枠から大きく外れていたので、これをどう評価していいのか、尊大な批評家でさえも戸惑うほどであった。そんな戸惑いが交叉するさなか、ベンヤミンは一篇のカフカ論を書いて、それをユダヤ系の雑誌「ユダヤ展望」に発表した(全四章のうち、第一章と第三章のみだったが)。時にカフカの死後10年経った1934年のことであった。

ハンナ・アーレントはベンヤミンについて、「生まれながらの文章家であったが、一番やりたがっていたことは完全に引用文だけからなる作品を作ることであった」と書いている(「暗い時代の人々~ベンヤミン」阿部斉訳)。彼の「パサージュ論」は、この願望に対して、完全にではないにしても、ほぼ応えている作品ではないかと思う。一瞥してわかるように、この作品は通常の論文のように、一本筋のとおったストーリーを展開しているのではなく、他人の書いた文章の引用で大部分が形成されているのである。

ベンヤミンが「歴史の概念について」の後半部分で展開しているのは、彼独自の歴史認識のあり方についてだ。彼はそれを「史的(歴史的)唯物論」と表現しているが、それがマルクス主義の主流の考え方と大きく異なっているのは、前稿で述べたとおりだ。史的唯物論の主流の解釈では、歴史というものは、基本的にはある目的に向かって直線的に進歩していく過程として捉えられている。しかしベンヤミンは、そうした歴史のとらえ方を、悪しき「歴史主義」だとして否定する。彼にとって真の史的唯物論とは、時間の中に断絶を見る見方である。時間の中に断絶を見ることによって、過去を現在への単なる過渡的なものとして抽象化してしまうのでなく、かけがいのない出来事の集積として、この「いま」と直接つながりあうようなものとして捉える、そうした見方である。悪しき歴史主義者が、「過去」という抽象的な言葉によって一般化してしまうところに、ベンヤミンは具体的で生き生きとしたひとときを見るわけである。

「歴史の概念について」は、ベンヤミンの遺稿となった作品である。彼は、これを「パサージュ論」への諸論として書いた。というのも、自分のライフワークである「パサージュ論」をフランクフルト学派の機関誌「社会研究」へ掲載することを希望したのに対して、編集部から、この膨大な研究を要約した緒論の提出を求められたからだった。そういう点では、「ドイツ悲劇の根源」とその序論である「認識批判序説」の関係に似ている。

複製技術の芸術作品への適用は映画に至って質的な変化をもたらした、とベンヤミンはいう。模写にせよ写真にせよ、それまでは、芸術作品の複製に過ぎなかったのに対して、映画においては複製から芸術作品が生まれる。つまり、芸術の複製ではなく、複製の芸術とでもいうようなものが生まれるわけである。

「複製技術の時代における芸術作品」は、ベンヤミンの論文の中では、テーマの扱い方においても叙述の仕方においても、めずらしくわかりやすい論文である。ここでベンヤミンが扱っているテーマは、芸術作品の複製の意義と歴史ということであるが、歴史の過程を叙述するという作業は、時間軸を追って進むために、勢いわかりやすくなるという事情を抜きにしても、ここでのベンヤミンの叙述はクリアだといえよう。

「ドイツ悲劇の根源」は、ベンヤミンが教授資格論文としてフランクフルト大学に提出したものである。ところが審査にあたったコルネリウスは、「中味が全く判らないので、内容の要約を作ってもらったが、それもまた理解できなかった。弟子のホルクハイマーにも読んでもらったが、彼も理解できないといってきた」といって、これを棄却した。ここで「内容の要約」と言われているのが「認識批判序説」なのだが、たしかにコルネリウスのいうとおり、この論文は非常にわかりにくい。

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