知の快楽

サルトルは、サディズムとマゾヒズムを、基盤を同じくし、相互に反転可能な、密接な関係にあるものとしてとらえた。サディストの対象はマゾヒストでありえ、また、サディスト自身は容易にマゾヒストに反転可能だと考えたわけだ。それは彼の対他存在論から論理必然的に導き出される結論だった。対他存在としての私は、眼差しを向けられるものとして、相手の支配の対象となることを徹底することでマゾヒストとなるのであるし、逆に私が相手に眼差しを向け返し、相手を徹底的に支配することでサディストになる。というわけである。こうした考え方は、フロイトを初め精神分析学者たちも共有していたが、フロイトらがサディズムとマゾヒズムを精神病理の範疇として、つまり性的倒錯としてとらえていたのに対して、サルトルの場合には、倒錯ではなく人間関係の根本的なあり方を規定するものとしてとらえたわけである。

サルトルは戦後演劇活動に力を入れ、結構な数の戯曲を書いた。「アルトナの幽閉者」はその代表的なものである。1959年の作品だから、彼の演劇活動の後期に属するものだ。

サルトルの対他存在論の核心は、私の存在の根拠を他者のまなざしに求める点である。私が私であることの根拠を私のうちにではなく、他者のうちに求めるということは、私を自立した存在としてではなく、他者との関係性においてとらえるということである。ということは、私は自立した存在者として自己のうちに絶対的な根拠をもっているわけではなく、他者との相対的な関係性において成立するにすぎない。だから、他者の存在がなければ、私の存在もない。厳密な意味では、対他存在としての私がない。ところで私の本質的なあり方は、この対他存在ということにあるのだから、その対他存在が成り立たなければ、わたしの存在も成り立たないことになる。

他者(人間としての)の問題は、デカルト以降の認識論的哲学の伝統の中では最大のアポリアだった。デカルトの提起した前提の上では、他者は自立した存在としての基盤を持たない。他者は私によって構成されるというかぎりで、無機物や動物と何ら変ることはなかった。要するに、私に対して従属的な関係にある、私の付属物のようなものだったわけだ。ところがサルトルは、私を他者に対して従属的な立場に置き、私を他社の付属物に転化させることで、私と他者との関係を逆転させた。そして、そのことによって、他者の問題に光を当てようとした。それが「存在と無」の中で展開される「対他存在論」である。

長編小説「嘔吐」は、サルトルの初期の活動を代表するものと言ってよい。彼は、「想像力」などの哲学論文や何遍かの短編小説を通じて、彼なりの存在論を展開していたが、この「嘔吐」はそうした試みを集大成しようとしたものだ。「しようとした」というのは、この小説が必ずしも、彼の意図を十全に実現したものとまではいえないからだ。どこか不消化な部分を感じさせる。そのことで、思想の開陳としては中途半端だし、小説としてはぎこちなさを感じさせる。

サルトルは、論文「想像力」によってまず哲学者として登場したが、彼の名を高からしめたのは何本かの短編小説と一遍の長編小説だった。それらは文学の形式を通じて哲学を語ったといった体のもので、たしかに珍しさはあったが、文学作品としては奇妙な代物だったといえなくもない。ともあれ、これら一連の文学作品を通じて、サルトルは変な人間だという印象を世間に与えたようだ。

アドルノの「本来性という隠語」を読んだ後で仲正のこの本を読むと、落差の大きさに驚かされる。一方はハイデガーの民族主義的・全体主義的傾向を徹底的に批判する意図で書かれているのに対して、こちらは初心者を相手にした入門書だという違いもあるが、同じ「本来性」という言葉についても、両者の受け止め方は大分違っている。アドルノはこの言葉に、ハイデガーの狭隘な民族主義を読み取っているのに対して、仲正の方はハイデガーの意図を尊重して、それを人間の「本来的な」生き方というニュアンスで、肯定的に捉えている。

徳永洵は、三島憲一と並んでドイツ現代思想の紹介者として知られる。ドイツ現代思想は、フランスの現代思想のにぎやかさに押されて、日本ではいまひとつ流行らなかったが、徳永はそれを根気強く日本人に紹介してきた。とりわけ、フランクフルト学派の紹介で知られるが(「啓蒙の弁証法」を翻訳している)、それはフランク学派が戦後のドイツ思想を代表するものであってみれば、当然のことだろう。

細見和之はドイツ現代思想研究者で「啓蒙の弁証法」の訳者徳永洵の弟子として、フランクフルト学派を主に研究してきたとあって、フランクフルト学派を紹介したこの本は実に目配りが聞いており、しかもわかりやすい。フランクフルト学派研究の入門書としては非常にすぐれているといえよう。先日読んだ仲正昌樹の「現代ドイツ思想」も、フランクフルト学派を中心に現代ドイツ思想を手際よく紹介していたが、そちらは文意の解釈が主体で、フランクフルト学派の思想史的な意義についての突込みが足りない。それに比べるとこの著作は、フランクフルト学派の思想内容はもとより、その思想史的・社会史的位置づけがわかりやすく論じられている。対象への向かい方が、仲正と違っているせいだろう。仲正は「思想業界」の一員を自認しているとおり、商品の効用を説明するような気軽さを感じさせるのに対して、こちらは対象へのコミットメントというか、対象への同情が感じられる。その同情が文章に熱を含ませ、それが読んでいる者にも伝わってくるといった具合なのだ。

ドイツ思想というのは昔の日本人には大変人気があって、カントやヘーゲルの研究者はそれこそ雲霞の如くいたし、マルクスをドイツ思想に含めれば、日本人にとっての外来思想はほとんどドイツ色一色に染まっていたといってよいほどだ。そんなドイツ思想の勢いも、現代に入ると急に色あせる。戦後の日本人にとっては、かつてドイツ思想が誇っていた地位はフランス人の思想にとって代わられたばかりか、いまや現代ドイツ思想に親しみを覚える人はあまりいないのではないか。仲正昌樹は学校でドイツ研究を専攻した事情もあって、現代ドイツ思想に親しみを覚える数少ない人の一人である。

アドルノの著書「本来性という隠語」は、戦後ドイツの思想状況を批判したものである。アドルノはこの著書を当初、「批判弁証法」の一部として構想したが、扱っているテーマが、本体からの独立性が高いと自覚して、両者の分業を図ったという。この著作でアドルノは、隠語が横行している戦後ドイツの欺瞞的な思想状況を批判するのだが、その欺瞞性はハイデガーのような狡猾な哲学者だけではなく、ヤスパースのような誠実な思想家をも蝕んでいる。隠語の持つ独特の力が、戦後ドイツの思想界をまるまる包み込んでいるからである、とする。

「ヨーロッパの学問の危機と先験的現象学」はフッサールの遺書となったものだ。彼はこの著作のうち第一部と第二部を生前ドイツ国外で発表し、その後まもなくして1938年に死んだ。第三部は死後発表された。

労働と相互行為は、言語(記号表現)と並んで、精神の自己形成のうえで三つの決定的な契機をなすものである。カントが言うように、まず自己意識としての精神があって、そこから人間の間の相互行為や自然を対象とした労働、あるいはコミュニケーションが生じてくる、のではない。逆に労働・相互行為・言語の弁証法的な過程のなかから自己意識としての精神が生まれてくる。こう喝破したのは、「イエナ精神哲学」を講義した頃の初期のヘーゲルであった。ヘーゲルはこの三つの弁証法的な要素から相互行為(相互承認)を重点的に取り出し、それをもとに精神現象学の体系を作り上げたが、それはハーバーマスにとっては、ヘーゲル思想の豊穣さが損なわれる結果につながった。やはりこの三つの要素をともに生かす形で、ヘーゲルの初期思想を再構築し、そこから現代の問題性に対応できるような哲学を構築する必要がある。このような問題意識に導かれながら、ハーバーマスは「労働と相互行為」と題する小論を書いたのだと思われる。この小論はだから、初期ヘーゲルの再発見をテーマにしたものと言える。

ユルゲン・ハーバーマスの論文集「イデオロギーとしての技術と科学」は、彼の初期の仕事で、その後彼が展開する思想の萌芽のようなものが提起されているということだが、なかでも最も力を入れて論じているのは、後期資本主義における科学・技術の問題だ。この問題を彼は、ヘルベルト・マルクーゼへの批判を通じて論じている。マルクーゼは資本主義の発展における科学・技術の役割の重要性を強調した始めての思想家というふうにハーバーマスは評価したうえで、マルクーゼが科学・技術がもっぱら資本主義を延命させる役割を果たしていることを指摘し、それへの対抗として、人間の解放につながるような科学・技術のあり方を模索したことを厳しく批判した。ハーバーマスによれば、科学・技術のあり方は、ただ一つしかないのであり、マルクーゼのいうような人間の解放を目指すような別の形の科学・技術のあり方などというものは存在しない。だから、もしもマルクーゼのいうような人間の解放を目指すなら、現存する科学・技術を前提として、それをどのように利用したらいいかを考えるのがまともなやり方だ、とハーバーマスは言うのである。

「啓蒙の弁証法」最終章は、「手記と草案」と題して短いメモのようなものを集めているが、中心となるのはファシズムについての考察である。アドルノらがこの文章を書いたのは1944年以前のことであるから、ファシズムは現在進行形の状態にあった。とくにナチスドイツのファシズム(アドルノらはドイツのナチズムもファシズムと呼ぶ)は人類史上例を見ない残酷さを以て、人間性を蹂躙していた。ユダヤ人であったアドルノらにとって、それをどう受け止め、どう理論化したらよいか、強い戸惑いを感じたに違いない。この章に収められた文章からは、彼らのそういった戸惑いと、人類の敵に対する怒りが込められている。

アドルノとホルクハイマーが反ユダヤ主義に着目したのは、直接的にはナチスのユダヤ人撲滅政策に触発されたのだと思うが、それだと反ユダヤ主義とは単にドイツ・ファシズムの一要素ということになってしまう。しかし反ユダヤ主義はなにもナチスだけの専売特許ではない。それは「ドイツ人の役人からハーレムの黒人にいたるまで」あらゆる国の潜在的ファシストたちの心に巣くっている。それ故現代における反ユダヤ主義は、ヨーロッパ文明の不可欠の要素として、ヨーロッパ文明が自己の内部から産み出した野蛮として理解されねばならない。反ユダヤ主義は啓蒙の弁証法の究極的なあらわれなのである。

アドルノとホルクハイマーが「文化産業」という言葉で指し示しているのは、映画、ラジオ、テレビといった大衆的な文化のジャンルである。これらはみな二十世紀になって花開いた。これらがそれぞれ登場したときには、映画産業とか、ラジオ産業とか、テレビ産業というふうに、個々の分野について産業という言葉が使われものだが、アドルノとホルクハイマーはそれらを一括して「文化産業」と言ったわけである。

アドルノ&ホルクハイマーは、啓蒙の歴史的な段階を表現した好例としてホメロスの叙事詩「オデュッセイア」とマルキ・ド・サドの小説「ジュリエット」を取り上げる。「啓蒙の弁証法」の第二及び第三章は、それぞれ第一章たる「啓蒙の概念」への補論として、この二つの例の検討に当てられている。彼らによれば、「オデュッセウス」は、人類が野蛮の状態から文明の状態へと飛躍することで、童蒙(蒙昧)の状態から啓蒙の状態へ進化したことを表し、「ジュリエット」は、啓蒙がその絶頂を極めた時点で啓蒙の反対物たる獣性=野蛮を呼び出したということを主張したものだと言うのである。

アドルノとホルクハイマーは「啓蒙」と言う言葉を、ほぼ「文明」と同じ意味に使っている。「文明」という言葉には、一方向的な進歩というニュアンスが含まれており、過去の思想家たちがこの言葉を持ち出すときには、つねにそのような(直線的な進歩という)意味合いを持たせていたわけだが、アドルノとホルクハイマーは、そうした慣用的な用法を覆して、文明を直線的な進歩としてではなく、進んだり戻ったりというジグザグの運動を繰り返す、いわば螺旋状の運動なのだと定義しなおす。文明は時には野蛮を生み出すこともあり、そうした野蛮は文明にとっての例外的な逸脱ではなく、文明が不可避なものとして組み込んでいる、文明にとっての内在的なものの現れなのだと考え直すのである。弁証法という言葉には、否定性という契機が含まれているが、その否定性が野蛮となって現れる、と考えるわけである。

ハンス・ケルゼンはハロルド・ラスキとともにシュミットが最大の標的として強く批判した相手だった。どちらも権力の多元主義を肯定しているところが、権力の一元性にこだわるシュミットには我慢がならなかった。ラスキは国家をほかの形態の団体と並ぶ相対的な存在としてとらえ、その特権的な位置を認めない多元的権力論の立場をとった。ケルゼンは国家の特権性は認めたが、国家権力の一元性には懐疑的で、国家権力が複数の機関に分有され、それらが相互に牽制しあうという権力分立論を主張した。この考え方の背後にあるのは自由主義的な国家観である。

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