愛のコリーダ:大島渚

| コメント(0)
j.oshima09. corida1.jpg

大島渚の映画「愛のコリーダ」は、昭和11年に起きたいわゆる阿部定事件を取り上げたものである。この事件は、安倍定という身持ちの良くない女が、情夫を絞殺したうえでその男根を切り取り、警察に捕まるまで後生大事に見につけていたというもので、その猟奇性から当時の世論を大いに賑わした。あの謹厳実直で知られる荷風散人でさえ、日記断腸亭日乗のなかでわざわざ触れているほどである。参考までに記しておくと、当年5月19日(定逮捕の翌日)の記事には、「今朝新聞に出でたる男殺しの噂とりどりなり(中野薬師の待合の亭主その情婦のために絞殺せられ陰茎を切り取られし事件なり犯人の行方未だ知れずと云ふ)」とあり、翌20日には、「昨夜来新聞の紙面を賑はしたる男根切取の女、今夕品川八つ山の旅館品川館にて遂に捕へられし由」とある。その衝撃がいかに強かったかを物語るものである。昭和11年といえば、2・26事件の起きた年、世の中は息苦しい雰囲気に包まれていた。そんな世の中であったからこそ、この事件は一服の清涼剤として、人々の関心を引いたのだと思われる(逮捕直後の写真が残っているが、定を囲む数人の刑事たちはみなニヤニヤ笑っている)。

荷風散人には「四畳半襖の下張」という戯作があるが、大島は安倍定事件を映画化するについて、この戯作を大いに参照したようだ。というのも、当該戯作は男女の秘事を微に入り細にうがって描写しており、いわゆる閨房文学の白眉をなすものだからであろう。これに定自身が後に回想したところを踏まえて、一篇の映画にまとめた。定の回想は自身の半生に渡るもので、閨房のことがらを専らに語ったものではないが、大島はその中から映画の進行に役立ちそうな部分を抜き出したようである。

といっても、この映画は定の半生なり彼女の境遇なりについて再現することを目指してはいない。この映画が目指すのは、ただただ女と男の間の性的な結びつきなのである。その結びつきを、文字通り男根と女陰の縺れ合い、吸いつきあい、いたぶりあい、として描き出している。その中で何故定が男を絞殺するに至ったか、そしてその後男の陰茎を後生大事に持って逃げ歩いたのは何故か、常識では窺い知れない定の心理をあぶりだす資料として、彼女の回想を利用したということなのだろう。

映画は、定(松田英子)が待合旅館の女中として働いているところから始まる。やがて待合の亭主吉蔵(藤竜也)とねんごろになり、二人で駆け落ちし、そこいらの旅館を渡り歩きながら、ただひたすらに性交するところを延々と映し出す。ストーリーらしいものはほとんどない。ただただ性交に明け暮れるのである。旅館の仲居達や芸者の前でも平気で性交するし、町の辻で立ちながら性交する。とにかく映画のほとんどは二人の性交する場面から成り立っているのである。そんな場面ばかり見せられるわけだから、単調なことは単調である。したがって映画に演劇的要素を期待する観客は、退屈するに違いない。見方によっては、ちょっと手の込んだポルノ映画と思われないでもない。実際そう言っても、決して間違いではない。

映画の最大の見どころは、定が吉蔵を絞殺し、彼の男根を切り取るところだ。定が吉蔵を絞殺するのは、何かそれなりの理由があってのことではない。たとえば嫉妬とか、怒りとか、そういうものはかかわっていない。彼女の吉蔵絞殺には現世的な理由はない。理由がもしあるとしたら、それは形而上的なものである。定は、ただ単に吉蔵の絞殺を楽しんだに過ぎないのだ。そうした彼女の行為の背景には、彼女のサド・マゾ的な性向がある。彼女は、男から肉体的に虐待されることや、かえって男を肉体的に虐待することに、無常の性的な恍惚を感じるのだ。その恍惚が勢い余って、愛する男を殺してしまうのである。

彼女のそうした性向に対して、男の方は忌避するどころか、積極的に応えている。男は彼女に虐待されることで苦痛しか感じない、にもかかわらず彼女の肉体的な虐待を受け入れる。どうも男は精神的に去勢されて、彼女の性的奴隷に成り下がってしまっているようなのだ。

こうした男女の特異な関係の機微は、サド侯爵以来フランス人の好んできた分野である。この映画がフランスの映画人との共同制作になるのは、そうした事情によるのだろう。フランス人は何についても形式的な完全性を求める傾向がある。そうした形式性は、多くの場合幾何学的な対称性という形をとる。例えば街並の構成から庭園の作り方などにあらわれた幾何学的対称性がそれだ。それは男女の性的関係についても同様である。フランス的な男女関係とは、男女間の幾何学的対称性から成り立っている。それに対して日本的な男女関係は、もっと融通無碍なものである。荷風散人が上記の戯作で描いたのも、そのような融通無碍な男女の営みについてであった。この映画は、男女の営みを日本風に描きながらも、それにフランス風の幾何学的対称性を持ち込んだ。男が女を支配しているように見せながら、いつの間にか女が男を支配している、というこの二人の独特の関係は、そのような対称性のあらわれなのだ。

映画には、脇道への脱線のような挿話がいくつかあって、息抜きのような効果を果している。定が昔のパトロンの所に出かけて行って床に入ったはいいが、パトロンがもう立たないといって降参する場面。68歳の老芸者を強姦するよう定が吉蔵をけしかける場面。この老芸者は拒むどころか大喜びで吉蔵とのセックスを楽しむのだ。老醜をさらした老婆が性的なエクスタシーで陶然とした表情をしているところなどは、人間の業を感じさせずにはいない。

また、吉蔵が定の膣の中にゆで卵を入れる場面が出て来る。それを定は、手で掴み出すのではなく、尻を落としてしゃがみこみ、鶏が卵を産むような具合に、股の間から排出する。エログロの極みのようなシーンだ。日本の男女は普段からこんなえげつないことをして楽しんでいるのかと、諸外国の観客に誤解を生じさせかねないところだ。

なお、ラストシーンの映像に、定が血糊で吉蔵の腹に描いた文字が映し出されるが、これは「定吉二人切り」とあるのが本当のところ。「お定・吉蔵が二人切りでいる」という意味だ。女の名を先にしたのは日本の芸能の伝統を踏まえているというのは、洒落たエッセーで知られる丸谷才一の見立てだ。

題名にある「コリーダ」とは、スペイン語で「闘牛」の意味である。男女の性的格闘を闘牛に譬えた、ということか。







コメントする

アーカイブ