反哲学的エッセー

日本の歴史の中で、男優位の原理が男尊女卑という形で確立されたのは明治時代である。明治維新は、徳川幕府から西日本の藩閥勢力への権力の移動をもたらしたが、新たに権力の座を占めた藩閥勢力が行ったことは富国強兵政策である。国を富まし兵力を充実させなければ、欧米列強に植民地支配される恐れがあったからだ。その考え自体は間違っていないと思うが、しかしそれが男尊女卑の方向をとると、女たちにとって住みにくい社会が訪れるのは如何ともなしがたかった。

記紀神話は、太古の日本が女性優位社会であったことの遠いこだまのようなものだったといえる。記紀神話が編纂された奈良時代初期には、次第に男性優位の社会へとかわりつつあった。それを反映するように、神武天皇以後の歴代天皇は、神話的なものも実在したものも、みな男性的な原理を体現しているように描かれている。それでも、女神である天照大神を皇室の祖先としたのは、やはり長く続いた女性優位社会の記憶が、いまだ強く残っていたことを物語っているのではないか。

これまでの部分で小生は、日本は古来女性優位の社会であったと主張した。神功皇后と応神天皇にまつわる神話は、それを象徴的に示したものといえる。この神話は、応神天皇の統治の正統性を説くかにみえるが、実は日本の皇統が女性である神功皇后を通じて伝えられたと説くことに主眼があると見てよい。神功皇后と応神天皇はあくまで神話的な人物であって、その実在性は確実視されているわけではない。そういう意味で神話というのだが、その神話を通じて太古の日本人は、日本社会のもつ女性優位の傾向を説明しようとしたのであろう。

パンパン・コンプレックスは被支配感情を源泉としている。支配されているというのは、人間にとって不愉快なものだ。それは恐れと反感をもたらす。しかし反感は簡単には表出できない。そんなことをすれば、自分を支配している強者によって手ひどい扱いを受けるからだ。だからその反感は抑圧されざるを得ない。個人の場合においては、その抑圧はエディプス・コンプレックスをもたらす。エディプス・コンプレックスとは、子供にとって圧倒的に強大な父親への反感にその起源をもっている。その反感は抑圧されざるを得ない。でなければ父親によってこっぴどい仕打ち(去勢)をされかねないからだ。集団においては、抑圧にともなうコンプレックスはもっと複雑な形をとる。トーテミズムはその顕著な例だ。戦後日本におけるパンパン・コンプレックスも、集団的な規模での抑圧がもたらしたものだ。

坂口安吾の小品に「パンパンガール」と題するものがある。坂口が数人のパンパンとざっくばらんに語り合った様子を描いたものだ。これを書いたのは昭和22年、日本はまだ敗戦のどさくさの中にあり、男たちはうしひしがれていたが、パンパンたちは陽気だった。その陽気さを坂口は「自由で、自然で、明るい」と言って、褒めている。坂口は戦後すぐに「堕落論」を書いて、敗戦が日本人の心の中まで堕落させたと批判していたが、そんな坂口の目にも、女たちは、堕落どころか、生き生きとして自律的に生きていると映ったようだ。女たちはそれまで自分たちを押さえつけていた男たちの文化が崩壊したことで、かえって解放されたと感じ、自分本来の生き方を追求し始めたように、坂口の目には映った。少なくとも彼が接したパンパンガールたちは、自由で生き生きとした雰囲気をただよわせていたようだ。

戦後さまざまな意匠をまとった日本人論が登場した。それらはおそらく、戦後における日本人の激的な変化を反映したものと思われる。敗戦の日を境に日本人は激変した。それまでは、天皇を民族の父とし、全国民が疑似家族を構成して、一糸乱れぬというべき強調行動をとってきた。ところが敗戦を境に日本人は、民族としてのアイデンティティを失ったかのごとくに、利己的になり、また自尊心を失った。ふつうの感覚では、利己主義と自尊心とは結びついてしかるべきなのであるが、戦後の日本人の場合にはそうもいかなかった。

子規と蕪村

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芭蕉が俳句の確立者とすれば、子規は近代俳句の確立者、あるいは俳句の中興者ということになろうか。この二人にはかなりな相違がある。芭蕉が余韻を重んじるのに対して、子規は写生を重んじるということだ。芭蕉の俳句の余韻は、深層意識の光景を詠むところからもたらされるということについては、前稿で指摘したとおりだ。深層意識に映った光景というのは、理智の働きを蒙る以前の、つまり分節される以前の混沌としたものだった。その混沌がかえって、俳句に余韻を生む。これに対して子規の写生は、どのようにして俳句を生むのか。それを考えるために、いくつかの作例に即して、子規の俳句の詠み方を分析してみたいと思う。

芭蕉の句は深層意識に映った光景をそのまま詠んでいる、と指摘したのは井筒俊彦だ。深層意識に映った光景というのは、井筒によれば分節以前の未分節の状態で、したがって混沌としたものだ。その混沌から余韻が生まれる。芭蕉の句の強みはその余韻にある。俳句とはそもそも余韻の芸術なのだ。芭蕉がその余韻を重んじたのか、あるいは余韻が芭蕉によって見出されたのか。どちらとも言えないが、芭蕉の登場によって、余韻の芸術としての俳句が成立したのは間違いないようだ。そこで小生は、芭蕉の句に一々あたり、そこにどのような事情が成立しているのか、考えてみたいと思う。考えてみたいというのは、とりあえずは井筒からもらったヒントをもとに、それがどのくらいの妥当性を主張できるかについて、いささか納得できるものを得たいと思うからだ。

イスマイル派はシーア派の分派で、十世紀の中葉にはエジプトを中心にファーティマ朝という強大な王朝をたてたほど勢力があった。そのイスマイル派の中から、アラムート派というものが生まれたのだが、その名称は、テヘラン北西部のアラムートという山岳地帯を拠点にした宗教運動だったことに基づく。この宗教運動は、宗教的敵対者を根絶することを目標とし、そのために独特な暗殺組織を作った。この暗殺組織は「暗殺団」と呼ばれ、十字軍がやって来た時には、その指導者を次々と暗殺した。その暗殺の能力が非常に高かったので、十字軍は脅威を感じ、その恐怖感をヨーロッパ社会に伝えた。その際の恐怖感は、もともと暗殺団を呼称する固有名詞だった「アサッシン」という言葉が、「暗殺」を意味する普通名詞になったことからもうかがわれる。このイスマイル派暗殺団について井筒俊彦は、多面的に解明してくれる。「コスモスとアンチコスモス」所収の小論「イスマイル派『暗殺団』」がそれだ。

井筒俊彦の論文集「コスモスとアンチコスモス」のうち、同じタイトルを冠した小論「コスモスとアンチコスモス」は、コスモスとカオスの対立について論じたものである。コスモスというのは、井筒の定義によれば、「有意味的存在秩序」を意味する。有意味的存在秩序というのは、世界を存在者の意味のある秩序としてとらえることを意味している。世界の無数の存在が、それらの意味単位が、「一つの調和ある全体の中に配置され構造的に組みこまれることによって成立する存在秩序、それを『コスモス』と呼ぶのである」、と井筒はいうのである。どの民族にもそれ固有のコスモスがある。このコスモスがあるおかげで、当該コスモスの中に生きている人々は安心して生きることができる。これに対してカオスとは、そうした秩序が全くない混沌として受け取られて来た。その混沌は、とりあえずは、コスモスが成立する以前の状態をさすのが普通だった。というか歴史的な事実だった。世界は混沌から秩序へ、カオスからコスモスへ向かって進む、というのが、どの民族においても、歴史的な(あるいは神話的な)趨勢だったわけだ。

井筒俊彦の著書「コスモスとアンチコスモス」の第二論文「創造不断」は、道元の時間論をテーマとする。道元の時間論といっても、道元だけに特有の時間論ではない。道元を含めた東洋思想に共通する時間論の特徴を明らかにしようとするものだ。東洋的な時間論の特徴を井筒は、時間を切れ目なく連続した流れとしてではなく、瞬間ごとに断続していると見るところに求める。西洋では、絶対時間といって、事物の存在とは別に純粋な時間の流れがあって、それが絶え間なく続いて行くと見るわけだが、東洋の時間意識はそれとは真逆で、純粋な時間というものはなく、時間と事物の存在は別物ではない、と見る。そしてその時間は、連続して流れていくものではなく、瞬間ごとに新たに生み出されるのだと考える。そうした時間についての考えを井筒は、イブヌ・ル・アラビーの「創造不断」の概念に代表させ、その概念を用いて道元の時間論を考究するのである。

井筒俊彦の論文「事事無礙・理理無礙」の後半は、イスラーム神秘主義の思想家イブヌ・ル・アラビーの存在論(「存在一性論」という)を取り上げる。それも華厳哲学のタームを用いて、イスラーム神秘主義の特徴を解明しようというのである。それを単純化していうと、華厳哲学の四種法界をベースにして、それにイスラーム神秘主義特有のものとして、「理理無礙」を加えるということになる。

井筒俊彦の著作「コスモスとアンチコスモス」の冒頭を飾る論文「事事無礙、理理無礙」は、華厳哲学及びイスラーム神秘主義の存在論を通して、東洋的な存在論の(西洋に比しての)基本的な特徴について考察したものである。事事無礙は華厳哲学の、理理無礙はイスラーム神秘主義者イブヌ・ル・アラビーの、それぞれの存在論を規定する中核的な概念である。それらを詳しく検討することで、東洋的なものの見方・考え方が、とくに存在のそれについて、明瞭に浮かび上がってくると井筒は考えるのである。

ヨーロッパ哲学の伝統において、パロールがエクリチュールに優位してきたのは、エクリチュールが表音文字によって書かれてきたからではないか。そんな問題意識を井筒は、「意味の深みへ」所収の「書く」という小論の中で提起している。表音文字というのは、アルファベットのことだが、そのアルファベットは音を表記するための文字である。パロールを通じて語られた言葉の、その音を表音文字であらわすわけだから、それはパロールの(表音的な)コピーということになる。だから本物はパロールであって、エクリチュールは偽物ということになりかねない。じっさいプラトンは「パイドロス」の中で、(パロールとかエクリチュールという言葉は無論使わないが)書かれたことは話されたことのコピーだというような言い方をして、話されたことの優位を主張している。

エクリチュール(écriture)は、解体(déconstruction)や相異=相移(differance)とともにデリダの思想の中核的な概念である。だがデリダは、この重要な概念を定義しようとしない。定義された術語は、たちどころに硬化して、もはや自由な読み替えが出来なくなってしまうからだ。エクリチュールという述語はだから、明確でかつ固定した内容を持たない。それには不分明性、不定性、曖昧さが纏綿する。そこがデリダの狙いでもある。井筒はそう言って、エクリチュールという述語を、多面的な見地から考察する。

強い影響力を持つ現代の哲学者のうち井筒がもっとも注目するのはジャック・デリダである。その理由はデリダのユダヤ性である。井筒はユダヤ教に深い関心を寄せ、とりわけカッバーラーの思想については、井筒の考える東洋的な思想のあり方の一つの典型として捉えているわけだが、そうしたものとしてのユダヤ性を、井筒はデリダの中に見たわけである。ユダヤ人の思想家としては、ほかにフッサールとかレヴィナスなどがあげられるが、そのなかで特にデリダに注目するわけは、デリダが西洋哲学の伝統に挑戦して、その解体(デコンストリュクション)をめざしたところにあろう。井筒も又、東洋哲学を以て西洋哲学を相対化しようとする路線をとっており、その自分の路線にデリダがつながると見たことが、彼のデリダへの強い関心の淵源なのだろうと思う。

カオスとコスモスといえば、通常浮かんでくるイメージは、混沌と秩序の対立である。その対立においては、カオスはマイナスイメージ、コスモスはプラスイメージとして捉えられる。混沌として形が定まらぬカオスに、秩序が与えられて形ある世界としてのコスモスが形成される、というのが普通の(西洋的な、したがって今日における地球支配的な)考え方だ。その考え方は、旧約聖書にも示されている。

「意味の深みへ」所収の小論「意味分節理論と空海」は、真言密教の言語哲学的可能性について論じたものだ。真言密教は、仏教の教派の中でも特異な言語哲学を有している、と井筒俊彦は言う。真言という言葉は「真の言葉」を意味する。その真の言葉が存在を生みだす。真の言葉とは究極的には大日如来のことである。大日如来は言葉として存在する。その大日如来が自己分節した結果我々の日常的な経験世界が生まれる。仏教の常識では、我々の日常的な経験世界は虚妄として、その実在性を否定されるのだが、真言密教においては、それは大日如来が法身説法したものとして実在性を持つ。この世界は大日如来が言葉として顕現したものなのだ。

アラヤ識というのは、唯識派の基本タームで、意識の深層をさす言葉だ。西洋哲学に比較した東洋思想の特徴は、意識の表層部分だけに着目するのではなく、深層部分にも着目することだ。意識というのは、表層のもっと深い部分に別の領域が開いている。これを下意識とか、深層意識とかいうが、それを唯識派の哲学ではアラヤ識という。この言葉を井筒俊彦は、東洋思想に共通する深層意識のあり方を表現した言葉として用いるわけである。この言葉は、東洋哲学を論じる際の、もっとも基本的なタームとして使われる。ひとり唯識派のみならず、東洋哲学全体にとっての、共通タームとしてだ。

井筒俊彦の小論集「意識の深みへ」の冒頭を飾る「人間存在の現代的状況と東洋哲学」は、グローバル化時代における異文化間のコミュニケーションの可能性について論じている。異文化間のコミュニケーションの問題は、いままでにもなかったわけではないが、それは局所的な問題にとどまっていた。ところがグローバル化が進んだ今日では全地球的な規模で問題となっている。というのも、グローバル化は全世界を巻き込む形で進行し、そこに地球社会とでもいうべき、いまだかつて存在していなかったものが現出するようになった。そういう段階においては、異文化間のコミュニケーションの問題は、全地球規模において生じるようになるわけである。それは、異文化間の差異を解消し、各文化を均一化させる方向へ進む傾向を持つ一方、異文化間に深刻な対立を生むようになる傾向もあわせ持つ。その対立は、全地球を巻き込んだ形で進まざるを得ないから、対立はある種の戦争状態をもたらすであろう。

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