反哲学的エッセー

本質とは、西洋哲学の伝統においては、或るものが何であるかという、その何であるかについての定義というふうに考えられている。それは通常、類と種差という形で表明される。たとえば人間については、人間とは理性的な動物である、というふうに。動物が類で、理性的が種差である。本質についてのこの定義は、アリストテレス以来の西洋哲学の大前提になっている。

これまで、本質実在論の諸タイプについて見て来たが、その本質実在論の対極にあるのが禅である。禅は二つの点で、本質実在論とするどく対立する。禅はまず、本質そのものを認めない。本質の実在どころか、その意義そのものを否定するのである。禅はまた、神の存在を認めない。というか神の問題を回避する。これは禅が仏教の一つの流派であり、したがって宗教であるらしいことを考えると、奇異なことのように思えるが、そもそも原始仏教というものは、神を問題とはしていなかった。原始仏教の問題意識は、輪廻から超脱して存在することをやめることであった。存在することをやめれば、あらゆる煩悩から解放されるからだ。仏教というのはしたがって、自力で以て煩悩から解放されることを目的としており、そこに神が介在する必要はなかった。その原始仏教の問題意識を、禅はもっとも純粋な形で受け継いでいるのである。

カッバーラーは、ユダヤ教の神秘主義的部分である。これに井筒俊彦は、本質実在論の第二タイプ元型的本質論の一つの有力な例を見る。ユダヤ教は、神が無から世界を創造したとする。これは、キリスト教やイスラームも受け継いだセム的宗教の基本的な考え方である。この考え方によれば、神は世界の外側から働きかけて、世界を作ったということになる。神は世界を超越した存在なのだ。これに対してカッバーラーは、神を世界から超越した存在だとは見ない。神は世界にとって内在的な存在なのだ。つまり、神が自分自身の内部から世界を生んだという見方をする。というより神が顕現したもの、それが世界だと見るわけである。

本質に普遍的本質マーヒーヤと個体的本質フウィーヤがあるとして、個体的本質に実在性を認めるのは理解できる。そもそも個体とは実在する個物を想起させるからだ。これに対して普遍的本質に実在性を認めることは、少なくとも西洋哲学的な思惟に慣れている者には、むつかしいのではないか。何故なら普遍的というのは、あくまでも人間の思惟が作り出したもので、したがってあくまでも概念的なものだからだ。概念は実在とは異なった範疇に属するものである。ところが、この普遍的本質に実在性を認める考え方が、東洋思想には珍しくない。というより、普遍的本質に実在性を認める考え方のほうが、東洋思想では主流となっている、と井筒俊彦は主張する。

西洋哲学では、本質は普遍者をあらわす概念である。本質とは、或るものが何であるかという問いへの答えであると言ったが、その「何であるか」は、普遍的な概念として与えられる。それは徹底的に抽象的なものだ。西洋哲学とは、個別者を抽象的な概念の枠組みに当てはめることを主な関心事としながら発展してきた。だから、抽象的なものへの偏愛というべきものを、西洋哲学は持っている。東洋ではそうではない。東洋思想の殆どは、普遍者という抽象的なものには満足しない傾向が強い。日本人も例外ではない。その代表者として井筒は本居宣長をあげ、宣長がいかに概念的・抽象的思惟を嫌ったかについて言及している。宣長にとっては、同じ東洋人である中国人の思惟でさえ、概念的・抽象的に映った。宣長は、そうした概念的・抽象的な思惟に代えて、個体的で具象的なものにこだわった。かれが言う所の「もののあはれ」とは、そうした個体的・具象的なものを言語的に言い現わしたものなのである。

意識といい、本質といい、西洋哲学のタームである。そのタームを用いて東洋思想を語るところに井筒俊彦の特徴がある。東洋思想特有のタームを用いて東洋思想を語れば、たとえば仏教固有のタームを用いて仏教を語れば、西洋的な思考をする人にはわかりにくかろうし、仏教のタームを通じてでは、ほかの東洋思想例えばイスラーム神秘主義の思想は理解しづらかろう。と言って、仏教とイスラーム神秘主義に通底するようなタームは、なかなか見つけづらい。そこを西洋哲学のタームを用いて説明すれば、なんとなくわかりやすい気がするものだ。井筒が東洋思想の解説者として世界的な名声を博しているのは、こういう事情が働いているからだと思う。

井筒俊彦は、西洋哲学の伝統的なタームを用いて東洋思想を読解することに生涯を費やした。かれが読解作業の俎上に載せた東洋思想は、イスラームからインド仏教、中国の道教や易経にまで及ぶ。儒教については宋学で代表させているようだが、その宋学は易経のバリエーションのようなものとして位置付けられている。こうした多彩な東洋思想を、ある一つの統一的な観点から読解するのが井筒のやり方で、かれは自分のそうした作業の大部分を英語で発表した。かれの英語の能力は、まるで母国語を操るように高度なものだったらしい。そのおかげもあって、かれの著作は世界スケールで広く読まれたそうだ。それは、英語の能力の賜物でもあるのだろうが、基本的には、かれの説明の仕方が、上述したように、西洋哲学の伝統的なタームを用いていて、西洋人に理解しやすかったためだと思う。

井筒俊彦は、講演集「イスラーム文化」において、イスラーム文化を特徴づけるものとして三つのものをあげた。主流派としてのスンニー派、反主流派としてのシーア派、そして異端思想としてのスーフィズムである。そのうち、スンニー派とシーア派の基本的な特徴について、「イスラーム文化」では触れていたわけだが、スーフィズムについては、その名をあげるだけで詳しい言及はしなかった。そのスーフィズムについてもっぱら紹介したのが、この「イスラーム哲学の原像」である。

井筒俊彦という人を、筆者はこの年(古希)になるまで知らなかったが、たいへん迂闊なことだったと思っている。イスラーム文化に造詣が深いほか、インド仏教や中国思想にも通じており、それらを土台にして、東洋思想として共通する要素を探求した人らしい。その業績については、追々読み進んで行こうと思っているが、とりあえず「イスラーム文化」と題した著作(岩波文庫)を取り上げたいと思う。

井筒俊彦は、日本人としてはスケールの大きな思想家だ。活躍の舞台が日本に限定されておらず、それこそ世界を股にかけた活躍ぶりを見せたというだけではない。思索の対象が全人類をカバーするほど広範囲だ。こういうタイプの思想家は、井筒以前には日本にはいなかった。国際的な名声という点では、鈴木大拙などは先駆者といえるが、大拙の場合には、ほとんど禅の領域に特化し、禅が国際的な関心を高めるのに乗った形で名声を高めたというような具合である。ところが井筒の場合には、彼の達成した学問が国際的な関心を高めることにつながったという点で、自ら名声を呼び寄せた。じつにユニークでかつスケールの大きな思想家だといえる。その井筒を小生は、最近になって読み始めたのだが、なにせ古希を過ぎて頭が固くなってきている頃合いなので、どれほど正確に井筒の主張が理解できているか心もとないが、井筒は噛んで含めるような、わかりやすい文章を書くので、小生のように頭の悪い老人でも、なんとかついていけた。

最後に日本人の死生観について触れたい。日本人の死生観は、古代日本人の抱いていた死生観に、仏教、道教、修験道などの死生観が加わって、やや複雑な様相を呈しているが、その基本は、霊魂崇拝である。日本人本来の考えによれば、人間は肉体と霊魂が結びついてできている。その霊魂は、肉体から遊離しやすいもので、実際しょっちゅう遊離している。遊離した霊魂は各地を旅するわけだが、その旅先で見聞きしたことを、のちに肉体と一緒になって意識を取り戻した時に、周囲のものに語って聞かせたという話はあちこちに残されている。霊魂が遊離すると人間は気絶した状態に陥るのだが、霊魂が戻って来ると、意識がもどる。だから人々は、霊魂が戻って来るのを期待して、人が死んだとしても、すぐにはそれを受け入れない。ある程度の期間が過ぎても意識が戻らないと、それは霊魂が飛び去ったのだと観念して、初めてその人の死を受け入れたのである。そんなわけで、古代日本人の死についての観念は、死を瞬間的な出来事としてとらえるのではなく、緩慢に進行するプロセスと捉えたものだった。

死の問題は宗教の領域と深いかかわりがある。宗教というものは、大きく二つの領域からなっている。一つは、自分が生きている世界がどのように生じ、何処へ向かっていくのかについての見方、いわば世界観ともいうべきことからなる領域だ。もう一つは、自分自身の存在についての疑問にかかわる領域、いわば死生観ともいうべきことからなる領域だ。死の問題は、死生観の中核をなす。

死と苦痛は暴力と深いかかわりがある。この三者が最も深く結びつくのは戦争においてである。戦争は暴力そのものの爆発といえる。戦争においては正義や理性がないがしろにされるとレヴィナスはいったが、まさに戦争こそは暴力の爆発として、人間性を踏みにじるのだ。正義とか理性といったものはその人間性を土台にしている。それが根こそぎにされるわけだから、正義とか理性などというものは、暴力の前では無力なのだ。

大江健三郎の短編小説に「死に先立つ苦痛について」と題する作品がある。人間は死を恐れるが、死それ自体は体験できるわけではない。体験できるのは死に先立つ苦痛であって、その苦痛があまりにも激しいものであるために、死それ自体も激しい苦痛を伴うものだと思い込むのだ。しかし、死と苦痛とはやはり別物であり、我々は死そのものを恐れる必要はない。小説のなかの登場人物は、このように考えて、苦痛を最低限に抑えながら、死を迎えようとするのである。

死について2

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ハイデガーは、人間が有限な存在であることに着目した。有限な存在とは、死すべき存在であるということだ。人間には誕生があり、死がある。始まりと終わりとで区切られた存在、それが人間なのである。そこから時間の観念が生じる。時間というものは、有限な存在について初めて意義をもつ観念なのである。もしも人間が、誕生する以前から存在し、死を超えて存在し続けるとしたら、つまり永遠に存在し続け、誕生することもなければ、死ぬこともないとしたら、時間という観念は生じないだろう。時間の観念は、ある一定の限定された存在のあり方から生じて来るのであって、限定されていない存在のあり方からは生じようがないのだ。もし私が、永遠に死なないとわかっていたら、時間を気にする根拠はどこにもない。時間というものは、人間が自分自身に向けた気遣いのようなものなのである。

死について1

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人間にとって何が切実かといえば、死より切実なことはないであろう。ところがこのことについて、西洋哲学の伝統においては、まともに論じられたことがなかった。宗教においても、あまりかわらない。一見して宗教は、死の問題と真正面から取り込んだというふうに思われがちだが、宗教が死を取り上げるのは、死そのものというより、死をめぐる周縁的な領域のことに過ぎなかったのではないか。たとえば、魂は死後の世界でどう生きるかとか、キリストの死後の復活とかいったものである。死をそのものとして、いわば死の内部から、これに取り組んで来たとは言えない。

今日のヨーロッパ人の文化は、ギリシャ文化とキリスト教文化を二大源流にしていると言ってよい。この二つの文化はかなり異なったものだ。ギリシャ文化を担ったギリシャ人は、人種的にはガリア人に近いと言われているから、ガリア人が属しているヨーロッパ人種に共通した文化を体現していたと思われる。それに対してキリスト教文化のほうは、ユダヤ人の中から生まれてきたもので、ユダヤ文化と共通する部分が多い。ということは、今日のヨーロッパ人の文化は、ヨーロッパ固有の文化にユダヤ起源のキリスト教文化が重なることによって形成されたと言える。この二つの文化のうち、キリスト教文化のほうが圧倒的な影響力を持ったので、いわばヨーロッパ人がキリスト教文化に染まることで、今日のヨーロッパ文化を形成したと言える。

根拠の問題は因果的な思考につきものだ。根拠についての問いは、ある事柄がなぜそうであるのかについて問うことだが、その何故とは、結果についてその原因を問うことと同義だからだ。それゆえ因果的思考を追求した西洋哲学にあっては、根拠の問題は中核的な問題だったのだ。因果関係についての問いは、論理的な問いとして論理学の問題となる。したがって根拠律は論理学の重大な要素となる。論理学上の問題としての根拠をめぐる議論は、一つの法則として結実し、根拠律という概念を生み出すのである。

超越は、無や無限と並んで、西洋哲学における重要な概念であるが、日本人にはいまひとつピンとこないものがある。その理由は、この概念がキリスト教の神と深いかかわりがあるからだろう。キリスト教の神は、我々の生きている世界を、無から創造したということになっている。ということは、キリスト教の神は、世界の外部にあって、その世界を無から作ったということである。この世界の創造者として神は、いまでもこの世界から超越した存在である。超越というのは、この世界の外部にあって、この世界に属するものとは異なった次元にあるという意味なのである。だから我々は、直接神に接することができない。神に接することができるためには、我々自身がこの世界を超越しなければならない。パスカルはじめ超越を語る人々は、みな神を思いながらこの言葉を語っていたのである。

無限は、無と並んで、哲学上の由緒ある概念として長らく思索の対象となって来た。無限をどうとらえるかは、有限な存在としての人間にとっては、ある意味生き方の根拠にかかわることである。有限な存在として、有限な命を生き、有限な生涯を終えるというだけならば、人間が生きていることにいかほどの意義があるだろうか。それゆえ人間は、どこかで無限につながっていたいと思うように出来ているようである。無限とかかわりがあると思えれば、自分の命にもなにがしかの永続する意味がある、そう思えるようである。

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