反哲学的エッセー

弁証法は古い起源をもつ哲学タームだが、本格的に用いられるのはヘーゲル以降であり、それをマルクスが引き継いで、マルクス主義が流行した日本では、専ら論争的な色彩を帯びるようになった。日本のマルクス主義が非常に論争的だったせいである。だが、大流行した割には、その内実はいまひとつ明確ではなかったようだ。弁証法とは何かと聞かれて、まともに説明できるものはいなかったといってよい。弁証法とは、定立、反定立を経て総合にいたるとか、ヘーゲルのタームを使って、アンジッヒ、フュールジッヒ、アン・ウント・フュールジッヒのプロセスを経て、ものごとをトータルに把握することだなどと説明する人が多いが、それによって何がどこまで説明できたか、大いに疑問が残る場合がほとんどだ。

根源的な知について論じた前稿のなかで、正義と根源的な知についての関係について示唆しておいた。正義は人間性が実現された状態だというのがこれまでの小生の考えで、その人間性についての洞察が根源的な知の内実をなしていることからすれば、正義と根源的な知が深いかかわりをもつのは必然だといえる。そこでこの二つがどのようにかかわりあっているのか、そこを掘り下げて考えることで、我々は人間性についての理解を深めることができるのではないか。

近頃ユダヤ系の思想家レヴィナスを読んでいる。色々啓発されるところがあって、なかでも「根源的な知」という言葉に、心を動かされた。「根源的」という言葉は、けっこう多くの思想家が使っているもので、とりあえずはヘーゲルとかマルクスの使い方が思い出される。マルクスなどはこの言葉を、物事をその根源においてとらえるという意味で使っているのだが、たしかにドイツ語では、ラジカルが根源的という意味の言葉であって、その言葉には、根っこという意味が込められている。そういえばマルクスもユダヤ系の思想家であった。ユダヤ系の思想家は、根源という言葉が特に好きなのかもしれない。

過日小生は、「民主主義と正義」と題する小論の中で正義概念の政治的な意義について考察した。その小論のテーマは、民主主義と自由との関係を明らかにすることだった。民主主義と自由とはかならずしも深い結びつきがあるわけではなく、歴史的に言っても、両者の結びつきは必然によってというよりは、偶然によってというほうがあたっているようである。というのも、民主主義は、カール・シュミットもいうとおり、独裁とも結びつきうるからだ。一方自由の擁護を中核とする自由主義は、独裁とは正反対のものであるが、自由の際限のない追及は、格差社会の進行を促し、社会に深い分断を招き入れる傾向をもつ。したがって、自由主義と民主主義とが理想的な結びつきを実現するためには、自由の節度ある行使ということが必要になる。その節度ある行使を実現するためには、自由という概念を、それよりも一次元高度の概念によって制約する必要がある。正義という概念は、その高度の概念、小生はそれを上位概念といったが、自由を限定するための上位概念なのである。

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