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2018年の香港映画「オペレーション・レッドシー(红海行动 ダンテ・ラム監督)」は、荒唐無稽な戦争アクション映画である。中国海軍が中東地域での紛争に介入し、中国人の人質を救出するために勇ましく戦うといった内容。これは実際にあったことを下敷きにしたとアナウンスされるのであるが、どうも眉唾である。おそらくイエメンの2015年の内戦を想定しているのだと思うが、その内戦の過程で中国軍が現地の過激派勢力と戦い多くの死傷者を出したというようなことは、日本では報道されていないので、知る由もないうえに、中国軍の戦いぶりが本格的な戦争そのものであり、そのような戦争を中国軍が戦ったというのが、にわかには信じられないのである。それは別としてこの映画は、中国軍の能力を誇示するプロパガンダ映画といってよい。中国海軍が全面的に協力したのもうなずける。

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先日NHKの能楽番組で、狂言「文蔵」を放送したのを見た。これは大名狂言の一つで、シテの長々とした語りが売り物の曲である。そのシテを人間国宝の山本東次郎が演じていた。

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ソールズベリー大聖堂は、イギリスで最も古い教会の一つである。その司教ジョン・フィシャーと、コンスタブルは非常に懇意にしていた。「ソールズベリー大聖堂(司教の庭から Salisbury Cathedral from the Bishop's Grounds)」と題されたこの絵は、フィッシャーの依頼を受けて制作されたものである。

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能「忠度」は、一の谷で戦死した平家の武将忠度の和歌へのこだわりと、壮絶な戦死をテーマにした作品。申楽談義には、「通盛、忠度、義経三番、修羅がかりにはよき能なり。このうち忠度上花か」とあるので、世阿弥にとって自信作だったのだろう。またの名を「薩摩守」ともいう。そこから「ただ乗り」を薩摩守というダジャレが生まれた。

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2007年の中国映画「戦場のレクイエム(集結號 馮小剛監督)」は、国共内戦の一こまを描いた作品。併せて朝鮮戦争の一こまにも触れている。戦後国共両勢力は、覇権をめぐって壮絶な戦いを繰り返すが、そのうち華北を舞台に展開された淮海戦役の一こまがテーマである。この戦いは共産党の人民解放軍が勝利し、1950年の中共政権樹立へとつながる重要なものである。その戦いに参戦した一中隊の運命と、その中隊長谷子地の意地を描く。中隊は谷を除き全滅するのだが、正規な記録がないことや遺体が見つからないことを理由に、全員行方不明扱いされる。戦死者には勲章や年金が贈られるが、行方不明は恥だとされる。そこで生き残った谷は、全員が戦死したことを自分が証明し、かれらの名誉を回復したいと願う。その願いは最終的にかなえられ、全員英雄としてたたえられる、というような内容である。

正法眼蔵第三十六は「阿羅漢」の巻。阿羅漢とは小乗の聖者のことをいう。大乗では伝統的に小乗を軽視し、その小乗の聖者である阿羅漢も、大乗の菩薩と比較して下に見るというのが普通であるが、道元はそうは見ない。阿羅漢も仏教の修行者としてそれなりに評価している。もっとも阿羅漢を以て、修行者の究極的な姿とは見ない。だが道元は、仏になったからといってそれに安住することをいましめ、仏の先の境地(仏向上事)を目指せといっているくらいだから、阿羅漢もその境地に安住していては堕落する、一層先の境地を目指すべきだと言いたいのだろうと思う。

深川清掃事務所に入所して一年後に、管理係長が人事異動で転出した。小生はこの係長を親父のように頼りにしていたので不安だったが、転出先は本局であり、一応栄転という形だったので、表向きは祝福してみせた。後日本局で会うことがあったが、非常に忙しそうにしていた。書類をもって廊下を走り回っている。緊急案件のために部長の決裁を求めているという。やがて部長の姿があらわれると、係長は犬のようにすりよっていった。部長が傲慢そうな表情を浮かべながら、書類を一瞥して決済の花押を印した。当時は花押で決済する習慣が残っていたのである。この部長にかぎらず、いわゆるお偉方には傲慢な人間が多かった。

ドゥルーズはルイス・キャロルをナンセンスの名手として推奨する。「意味の論理学」には、「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の中からさまざまなタイプのナンセンスが引用され、それらの論理的・文学的意義についての考察がなされている。ドゥルーズがナンセンスを重視するのは、ナンセンスが意味を生産することに着目するからだ。その新たな意味を生産する名手として、ルイス・キャロルに勝るものはいないとドゥルーズは考えるのである。

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「乾草車(The Hay Wain)」と題されたこの絵は、六フィートの大作シリーズの第三作。コンスタブルの最高傑作と目されている作品である。1821年のローヤル・アカデミー展で非常な反響を呼んだが、買い手はつかなかった。数年後に、他の小サイズの作品と合わせて、バイヤーに買われた。この作品は、フランスにおいても話題となった。この絵を見たジョリコーは非常に興奮していたとドラクロアが語っているし、また、作家のノディエは、フランスの画家も身近な自然を描くべきだと言った。

小説「未成年」の出だし近いところで、アルカージーはクラフトと会う目的でデルガチョフの家に出かけていく。クラフトが彼のためにあずかっている書類を受け取るためである。そこには、何人かの青年たちが集まっていて、何やら議論していた。その議論にアルカージーも加わることになる。青年のなかにはクラフトのほかワーシンとか教師と綽名された者などがいて、それぞれ勝手なことを言っていた。その議論が、当時のロシアの青年世代をとらえていた自由思想を踏まえたものなのだ。自由思想を抱いた青年たちは、「悪霊」にも登場するが、この小説の中の青年たちは、「悪霊」の青年たちに比べ、いまひとつ迫力を感じさせない。アルカージーなどは、思想らしいものを持っていないのだが、そのアルカージーと比べてもたいした違いはないのである。

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2019年のハンガリー映画「この世界に残されて バルナバーシュ・トート監督」は、ハンガリーにおけるホロコーストを生き延びたものの心の傷をテーマにした作品。ホロコーストをテーマにしたハンガリー映画としては、「サウルの息子」が有名だ。「サウルの息子」は、強制収容所におけるユダヤ人の苦悩を直接的なタッチで描いていたが、こちらは、戦後まで生き残ったものの心の傷に焦点を当てている。とはいっても、その傷は遠回しに表現されるばかりで、ずばりと示されるわけではない。

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「ストラットフォード・ミル(Stratford Mill)」と題されたこの絵は、トアー川の大作シリーズ第二作。「白馬」の成功に気をよくしたコンスタブルは、かねて計画していたウオータールー・ブリッジ架橋記念作品を放棄してこの作品の制作に取り掛かった。完成後ローヤル・アカデミー展に出品して大きな成功を収めた。また買ってくれるものもいたが、コンスタブルを満足させる額ではなかったそうだ。

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2015年のデンマーク映画「ヒトラーの忘れもの(UnderSandet マーチン・サンフリート監督)」は、ナチスが大戦中に設置した地雷の撤去をテーマにした作品。その撤去作業を、デンマーク当局は国内に取り残されていたドイツ兵にやらせる。映画に出てくるドイツ兵は、みな子供の兵士である。その子供たちに、デンマーク軍の下士官が地雷撤去の作業を強制する。デンマーク人にはナチスへの敵愾心があり、その敵愾心がそれらの少年兵士に向けられる。したがって彼らの課された作業には懲罰的な意味がある。国際法上は、捕虜の人権は守られることになっているが、実際には踏みにじられる。国際法よりも国家的な憎しみのほうが優先されるのである。

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「白馬(The White Horse)」と題するこの絵は、コンスタブルの画家としてのキャリアの転換点を画した作品。これはこの絵を王立展示会に出品して高い評価を受け、しかも高額で売ることができた。この作品のおかげで、かれはローヤル・アカデミーの会員に推挙され、また画家としての名声も上がり、高額での注文を受けるようになった。

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アレクサンドル・ソクーロフの2002年の映画「エルミタージュ幻想(Русский ковчег)」は、エルミタージュ博物館を舞台にした幻想的な作品。90分ほどの長さだが、全編がワンカットで作られており、映画史上はじめての試みだとして、大いに話題になった。ワンカットといっても、シーンはかわる。カメラの動きにあわせて、様々な人が登場する仕掛けになっている。その登場人物というのが、最初は現代のロシア人だが、そのうち昔のロシア人が出てきて、時間を超越した騒ぎになる。そこが幻想的だという所以である。

正法眼蔵第三十五は「神通」の巻。神通は神通力ともいわれ、超自然的なことを行う能力というような意味で受け取られることが多いが、道元はそれを、仏教者にとっての日常茶飯事だという。この巻は「かくのごとくなる神通は、佛家の茶飯なり、諸佛いまに懈倦せざるなり」という言葉で始まっている。その意味は、これから取り上げる神通とは、仏教者にとっては日常茶飯事なのであり、仏たちが懈怠なく行ってきたものだということである。

ナンセンスは、日本語では無意味と訳されるように、意味と深いかかわりをもっている。そんなわけで、意味について考察する「意味の論理学」にとっては、もっとも重要な意義を持つ概念である。そこで、ナンセンスという言葉の厳密な定義が問題となる。普通それは無意味なこと、つまり意味の不在と受け取られている。ところがドゥルーズは、ナンセンスは意味の不在なのではなく、逆に意味の過剰なのだと言う。どういうことか。ある言葉の意味は、かならず他の言葉によって説明される。たとえば、岩とは大きな石のことであるとか、石とは小さな岩であるといった具合である。それに対してナンセンスとは、言葉の意味がほかの言葉によってではなく、それ自体によって説明されるような事態をさしている、とドゥルーズは言う。「石は石である」とか、「岩は岩である」といった具合に。これを他の言葉であらわすと自己言及という。自己言及という言葉をドゥルーズは使っていないが、要するにそういうことだ。

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ジョン・コンスタブル(John Constable 1776-1837)は19世紀前半におけるイギリス美術を、ターナーとともに代表する画家である。二人とも風景画を得意とした。コンスタブルのほうが、イギリスの風景画の伝統を体現しているといってよい。かれの絵のおかげで、イギリスの風景画の美術的価値が、海外にも知られるようになった。

マカール・イヴァーノヴィチ・ゴルゴルーキーは、ロシア人の信仰のあり方の一つの典型を示している。ドストエフスキーはこの小説の中で、マカール・イヴァーノヴィチにたいして大きな役割は果たさせていないが、しかし彼のちょっとした言葉の端々から、ロシアの民衆の信仰心が伝わってくるように書いている。マカールは、農奴の出身であり、したがってロシアの最下層の民衆を代表する人間である。その最下層のロシア人にとってキリスト教信仰とはどんな意味を持つのか。そのことを考えさせるようにドストエフスキーは書いているのである。

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2017年のアメリカ映画「スリー・ビルボード(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri マーティン・マクドナー監督)」は、痛烈な警察批判をテーマとした作品。アメリカ人は警察に懐疑的で、トラブルを警察に頼らず自分で解決しようとする傾向が強い。さすがに殺人事件などは、警察に頼らざるを得ないが、警察はまともに仕事をせず、黒人への暴力行使など、ろくでもないことにうつつを抜かしている。そういった警察不信が露骨に表現された映画である。

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