2024年5月アーカイブ

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「月光下に石炭を積み込みする乗員(Keelmen Heaving in Coals by Moonlight)」と題されたこの絵は、もともと「イングランドの河川」をテーマにした水彩画のシリーズの一つ「タイン河畔のシールズ」に基づいたものだが、これを発注したのは「ヴェネツィア」を発注した実業家である。その実業家は、かつては栄華をほこり、今では色あせつつあるヴェネツィアの港と、いまや勃興しつつあるイングランドの港とを対比させたいという意向をもっていたと言われる。

モチーフのタイン川は、ニューキャッスルを流れる川で、広い河口は産業用の港としてにぎわっていた。この絵は、その港に停泊した船のうえで、乗員が石炭を積み込む作業を描いている。ミソは、夜間でも月光をたよりに船積み作業が行われているということで、イギリスの工業力を象徴するような風景と受けとられる。

画面のほぼなかばに、白く輝く月があり、それが放つ光が、港を含めて河口一帯を明るく照らしている。その光の処理の仕方は、後の印象派を想起させる。イギリスの絵画史上、光をこのように表現できたのは、ターナーが初めてである。

(1835年 カンバスに油彩 90×122㎝ ワシントン国立絵画館)


ドストエフスキーには賭博癖があった。「罪と罰」と並行して書いた「賭博者」という小説は、自身の賭博経験を生かしているといわれる。その小説の中の主人公アレクセイには、ドストエフスキーの面影を指摘できる。「未成年」にも、賭博のシーンが出てくる。アルカージーの道楽としてである。その道楽をアルカージーはセリョージャ公爵に仕込まれたのであるが、いったんそれを始めると、その魅力にのめりこんでしまう。アルカージーにとって賭博は、遊びであると同時に手っ取り早く金を得る手段でもある。賭博を金を得る手段と考えるようになっては、なかなかやめられないであろう。

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セリーヌ・シアマの2014年の映画「ガールフッド(Bande de filles)」は、フランスで暮らすアフリカ人少女の青春を描いた作品。移民としての彼女の環境は非常に厳しいと思うが、彼女のフランス社会とのかかわりはほとんど触れられず、もっぱら黒人との間のかかわりが描かれる。彼女は中学校の卒業を迎えても高校へ入ることもできず、かといって働く気にもなれない。そこで、黒人少女たちの不良グループと付き合いはじめる。そのうち自信が出てきて、恋人もできる、といったような内容の映画だ。

イスラエルによるガザのジェノサイドに関連して、ニクァラガがドイツをICCに提訴した。提訴理由は、ドイツ政府がジェノサイド条約に基づくジェノサイド防止義務を怠っているというものである、なぜニクァラガが、イスラエルの最大の支援国であるアメリカではなく、ドイツを提訴したのか。わかりにくい部分があるが、ドイツもアメリカにおとらずイスラエルを支持しており、また、現在でも多額の軍事援助を続けているから、ドイツの責任を問うということについては、一定の理解はできる。なにしろドイツは、いっさいイスラエルを批判しないし、というか批判ができないでいる。それはなぜなのか、その謎に迫った小論が雑誌「世界」の最新号(2024年6月号)に掲載されている。橋本伸也著「歴史家論争2.0とドイツの転落」と題した文章である。

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ターナーはヴェニスが気に入って、生涯に三度長期旅行をしている。最初は1819年から翌年にかけて、二度目は1833年、三度目は1840年だった。かれが最初のヴェニス訪問の際にてがけたスケッチや水彩画をもとに、大きな油彩画を制作したのは1833年5月ごろのことであった。それがきっかけで、かれはヴェニスをモチーフにした作品を作りたいと望み、1833年の夏に、ヴェニスに滞在して、スケッチや水彩の下絵を多数ものにした。そして、それらをもとにヴェニスをモチーフにした一連の油彩画を制作した。

ずばり「ヴェニス(Venice - The Dogana and San Giorgio Maggiore)」と題されたこの絵は、二度目のヴェニス滞在から生まれた作品。この作品は、翌1834年のローヤル・アカデミー展に出品された。マンチェスターの織物業者が350ポンドで買い取った。それに気をよくしたターナーは、以後1846年までほぼ毎年、ヴェニスをモチーフにした作品をローヤル・アカデミーに出展し続ける。

ヴェニスの港のにぎやかな光景を描いている。副題に「税関とサン・ジョルジョ大聖堂」とあるとおり、右手前が税関の建物、その奥の塔がサン・ジョルジョ大聖堂である。船を含めて手前側のモチーフは明確な線で描かれているが、中景から遠景にかけては、曖昧な線で描き、光を感じさせるよう工夫している。

(1834年 カンバスに油彩 90×122㎝ アメリカ、ワシントン国立絵画館)




NHKの定例番組「映像の世紀バタフライエフェクト」が、伝説のジャズシンガー、ビリー・・ホリデイの歌った曲「奇妙な果実」を放送したのを見た(5月13日)。小生はビリーの大ファンなので、是非もなく見た次第だが、番組はビリー自身にではなく、この曲のほうに焦点を合わせていた。この曲はユダヤ人が作ったものだが、ビリーが歌って広めさせた。というか、ビリー・ホリデイという歌手をそのままを感じさせる曲なのである。

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2016年のフランス映画「未来よ こんにちは(L'Avenir ミア・ハンセン=ラブ監督)」は、あるフランス人女性の生き方を描いた作品。おそらく現代フランスにおける中流階層の女性の、典型的な生き方なのだと思う。だから、たいしたドラマ性がないにもかかわらず、多くの共感を呼んだのであろう。

いわゆる「セキュリティクリアランス」制度に関する法律が4月10日成立した。これは経済安全保障に関する重要情報の取り扱いを国が認めたものに限定するという内容のものである。この法案が有する問題点は、雑誌「世界」の最新号(2024年6月号)に掲載された「『セキュリティクリアランス』制度の何が問題か」という小文(高山佳奈子著)が指摘していた。今回成立した法律は、その指摘通りに非常に問題の多いものと思われる。

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J.M.W.ターナー(J.M.W.Turner 1775-1851)は、イギリスの風景画家の最高峰の作家であるとともに、イギリスの美術史上もっとも偉大な画家といってよい。その名声はイギリスにとどまらず、世界中になりひびいている。ターナーはイギリスが初めて生んだ、真に世界的な巨匠といえるのではないか。かれは自分の作品を死後総て国家に寄贈したので、いまでもほぼ完全なかたちで国有財産となっている。

ターナーは生涯を通じて風絵画を描き続けた。その点は、同時代のライバル,コンスタブルが、生活の必要上肖像画を多く手掛けたのとは異なっている。風景画では生活はできないのだが、かれはなんとか生活の工面をたてながら、風景画を描き続けた。しかも、コンスタブルが故郷サフォークをはじめ、イギリス国内の風景にこだわったのに対して、ターナーは積極的に海外に出かけ、イタリアなどの外国の風景も描いた。

ターナーの画風は、幾度も変換した。その変換は五回とも七回ともいわれている。キャリアの始めごろには写実的な風景画を描いたが、1819年のイタリア旅行以後は、形にこだわらず、光あふれる色彩感を重んじるようになった。晩年の作品は、後の印象派を思わせるような、光を重視した画風である。批評家のなかには、ドゥル-ズのように、抽象画と評するものもいる。

「国会議事堂の炎上(The Burning of the Houses of Lords and Commons, 16 October 1834)」と題されるこの絵は、1834年10月16日における国会議事堂の炎上をモチーフにしたものである。ターナーは、この火災に大きなショックをうけたとみえ、幾枚もスケッチし、数点の油彩画や水彩画を残した。

この作品は、火炎のすさまじい勢いを、あざやかな色彩と光によって表現している。光や色彩を重んじる画風は、以後晩年におけるターナーの基本的な画風となった。





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2016年のフランス映画「セザンヌと過ごした時間(Cézanne et moi)」は、エミール・ゾラとポール・セザンヌの奇妙な友情を描いた作品。奇妙というのは、ゾラの視点からのことで、セザンヌはゾラに対して普通に振舞っていると思っている。ところがゾラにはそう思えない、という意味だ。

正法眼蔵第三十八は「葛藤」の巻。葛藤という言葉は、現代日本語では心の揺れを意味するが、道元はそうした意味では使っていない。文字どおり、からまりあった葛や藤の蔓という意味で使っている。仏教の伝授をその言葉で意味するのである。そう使うのではあるが、蔦や藤の蔓が絡まりあった様子を、否定的に捉えるものが、道元の時代にもあった。道元はそうした捉え方を否定して、葛藤という言葉を肯定的な意味合いで捉えようとしたのである。

ハンナ・アーレントの著作「全体主義の起源」三部作については、小生は若い頃ペンギンブックスの合本版を買い求めたところだ。そのうち第一巻の「反ユダヤ主義 Antisemitism」は、購入後すぐに読んだが、残りの部分は棚ざらしのままにしておいた。その残りの部分のうち、第三巻の「全体主義 Totalitarianism」を今回読んだ。第二巻の「帝国主義Imperialism」についてはいまさらという気持ちがあったのに対して、全体主義については、まだ時事的な問題意識にのぼるという判断があったからだ。何が時事的なのかというと、いまイスラエル国家が世界に突き付けている問題が、アーレントがこの書物の中で展開している全体主義批判に相通じるものがあるからだ。アーレント自身は、ナチスとボリシェビキを批判するつもりであり、当時できたばかりのイスラエル国家を批判する意図はまったくもたなかったのだが、彼女の死後、イスラエル国家はますます好戦的・反人道的な姿勢を強めており、その姿勢が、小生にはナチスに通じるものを感じさせるのである。そんなわけで、アーレントがもし生きていたら、いまのイスラエル国家をどのように考えるか、ということが小生の関心を搔き立てた次第である。

ユーモアは、ナンセンス及びパラドックスとならび、意味の脱臼の第三の形態である。意味の脱臼とは、シニフィアンとシニフィエとの間にずれがあることをさす。ナンセンスは、シニフィアンが複数のシニフィエと結びつき、それらの結びつきが互いに否定しあうことをいい、パラドックスはシニフィアンが二つのシニフィエと結びつき、それらがいずれも成り立つことをいう。一方ユーモアは、抽象的でかつ観念的な意味を、具象的で唯物的(身体的)な意味に置き換えることをいう。その例としてドゥルーズは次のようなものをあげている。「プラトンは人間のシニフィエを<羽のない二足動物>であるとしたが、これに対してキュニコス派のディオゲネスは羽をむしったおんどりを投げ返すことによって答える」。つまり、プラトンが人間のシニフィエを抽象的なイメージのシニフィアンと結びつけるのに対して、ディオゲナスは具象的なシニフィアンと結びつけるわけである。その結びつきは、プラトンのような観念論者にとっては笑うべきものであるので、それをディオゲネスは逆手にとって、ユーモアというのである。

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コンスタブルは、ソールズベリー大聖堂をモチーフにした作品をいくつか制作している。「牧草地から見たソールズベリー聖堂(Salisbury Cathedral from the Meadows)」と題されたこの作品は、妻メアリーの死の三年後に制作したものである。ソールズベリー大聖堂は、彼らにとって思い出の深いものであった。

小説「未成年」には、ドストエフスキーのロシア主義的心情と外国人への嫌悪感が盛り込まれている。外国人のうちでもユダヤ人は特に醜悪な描かれ方をしている。そこでこの小説は、ドストエフスキーの反ユダヤ主義がもっとも露骨に表れているものとして受け止められてきた。また、ロシア主義については、単にロシア人の民族的特殊性を誇大に言い募るというよりは、ロシア人のコスモポリタン的な面を強調し、それをもとにロシア人の国際的な優秀性を誇示するというやり方をしている。ロシア人ほどコスモポリタンな民族はいない。そのロシア人こそが世界の手本となる資格があるというわけである。

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2011年のフランス映画「最強の二人(Intouchables エリック・トレダノ オリヴィエ・ナカシュ監督)」は、金持の肢体不自由者とその介護人との人間的な触れ合いを描いた作品。介護人がマッチョな黒人男性というところが売り物だ。フランスはアフリカの旧植民地から多数の移民を受け入れているので、この映画に出てくるような黒人も珍しい存在ではないのだろう。

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ハドリー城は、エセックス州のテームズ川の河口にある城塞である。13世紀に、重要な防衛拠点として作られた。しかし、19世紀には廃墟と化していた。コンスタブルはその廃墟のスケッチを1814年におこなっていた。そのスケッチをもとに油彩画を仕上げるために、油彩による下準備を行い、そのうえで本作を完成させた。1829年のアカデミー展に出品された。

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2013年の香港映画「グランド・マスター(一代宗師 王家衛監督)」は、カンフー・アクション映画。カンフーといえば、ブルース・リーが有名になって以来、特殊な中国武術という印象が強いが、どうも中国武術の総称のようである。リーのカンフーは、そのうちの詠春拳という流派に属するらしい。この映画も、詠春拳の使い手が主人公である。

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デダムは、コンスタブルが少年時代に通った学校のある町だ。「デダムの谷(The Vale of Dedham)」と題されたこの絵は、その町を見下ろす構図で描かれている。谷とはいっても、この地方はかなり平坦な地形なので、周囲より多少低いくらいで、ほとんど同じ平面といってよい。

この構図をコンスタブルは、少年時代に通った道からとったのだと思う。なつかしさを感じながら描いたであろう。その道はトアー川に沿っていた。この絵の中にも、トアー川は描かれている。川はおそらくデダムの谷に流れ入るのであろう。

多くの批評家が、クロード・ローランの影響を指摘している。クロード・ローランも、平坦な地形を舞台にして、樹木と空を大きく描いた。この絵では、空は厚い雲に覆われている。それでも光は地上に注いでいる。その光をコンスタブルは、白い顔料で表現している。なお、この作品は、1929年のアカデミー展に出品された。

(1828年 カンバスに油彩 144.5×122㎝ エディンバラ、スコットランド国立博物館)

岩波の読書誌「図書」(2024年5月号)が、「路上より」と題する柳広司の小文を掲載している。これは、イスラエルによるガザのジェノサイドをやめさせようと、自分のできる範囲で必死に頑張っている様子を書いたものだ。柳は、このジェノサイドを、かつての沖縄の人々が被った苦悩と比較している。あの時には、沖縄本島に上陸した米軍に追われ、島の南端の摩文仁の丘から海に追い落とされた人々が多数いた。沖縄では、住民の四分の一が殺された。ガザのジェノサイドはそれを思い起こさせる、というのだ。

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2018年の中国映画「薬の神じゃない(我不是藥神 文牧野監督)」は、中国における薬事行政を痛烈に皮肉ったコメディ映画である。白血病の治療薬が法外な価格なので、金のない人々が苦しんでいる。ところがそれのジェネリック製品がインドで十分の一以下の価格で手に入る。インドでは合法的に売られているので、簡単に買えるはずなのだが、中国では認定されてないので、輸入することができない。そこで、ある患者に知恵をつけられた男が、ジェネリック薬品を密輸してそれなりの利益を上げる。

正法眼蔵第三十七は「春秋」の巻。正法眼蔵の各巻は、基本的には、冒頭で巻の題名の趣旨を説明するのであるが、この巻については、春秋という題名の趣旨への言及はない。この巻は寒暑についての、洞山の言葉を中心に展開する。だから「寒暑」と名付けてもしかるべきところ、なぜ「春秋」にしたのか。道元の意図を知ることはむつかしい。題名ばかりではない、書かれていることの内容もなかなかむつかしい。

ジル・ドゥルーズの書物「意味の論理学」は、パラドックスについての議論から始まっている。とはいっても、パラドックスという言葉の意味がすでにわかっていることを前提として議論を始めているので、パラドックスという言葉の意味が十分わかっていないと、何が議論されているのか見当がつかないであろう。ひとつだけ、この言葉の意味にかかわりのありそうな言及はある。「良識{良い方向}は、あらゆる事物において、決定できる一つの意味{方向}があることの確認であるが、パラドックスは、同時に二つの意味{方向}を確認することである」というものだ。この文章は、パラドックスという言葉を、良識及び意味との関係で表現している。パラドックスをとりあえず良識と対比させ、良識が一つの意味方向を持つのに対して、パラドックスは二つの意味方向を持つといっているわけだ。

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「コーンフィールド(Corn field)」と題されたこの絵は、サフォークでのスケッチにもとづいてロンドンで1826年に制作された。その年のアカデミー展に出品されたほか、翌年にはパリの展示会でも公開された。評判は悪くなかったが、買い手はつかなかった。


ドストエフスキーは、小説の中で不幸な女を描くのが好きであった。「虐げられた人々」の中のネリーとか、「地下生活者の手記」の中のリーザは、かれがもっとも力を込めて描いた不幸な女である。「罪と罰」の中のソーニャもそうした女の一人である。「未成年」にも不幸な女が出てくる。オーリャである。彼女は不幸であるとともに気位の高い女であって、その気位の高さが彼女を死に駆り立てる。彼女は、世間からさんざん愚弄されたことで、生きることに絶望し自ら首を吊って死ぬのであるが、それはぎりぎりの自尊心のためだったのである。

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2021年の中国映画「1950鋼の第七中隊(長津湖 監督は陳凱歌ほか二名)」は、朝鮮戦争を中国の視点から描いた作品。仁川上陸作戦とともに、朝鮮戦争の帰趨を決した重要な戦い「長津湖の戦い」がテーマ。この戦いは、アメリカによる朝鮮半島制圧に危機感をもった中国側が参戦し、その直後に行われた。この戦いがきっかけで、アメリカは南部に後退、南北朝鮮は38度線を境に分断が本格化する。

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「水門(The Lock)」と題されたこの絵は、トアー川をモチーフにした大作六点シリーズの第五作。シリーズの中で唯一縦長の画面である。1825年のアカデミー展に出品され、大きな評判を得て、すぐさまに売れた。気をよくしたコンスタブルは、まったく同じ画面のものを他に二つ制作している。また、白黒画面のものの制作も許している。

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2018年の香港映画「オペレーション・レッドシー(红海行动 ダンテ・ラム監督)」は、荒唐無稽な戦争アクション映画である。中国海軍が中東地域での紛争に介入し、中国人の人質を救出するために勇ましく戦うといった内容。これは実際にあったことを下敷きにしたとアナウンスされるのであるが、どうも眉唾である。おそらくイエメンの2015年の内戦を想定しているのだと思うが、その内戦の過程で中国軍が現地の過激派勢力と戦い多くの死傷者を出したというようなことは、日本では報道されていないので、知る由もないうえに、中国軍の戦いぶりが本格的な戦争そのものであり、そのような戦争を中国軍が戦ったというのが、にわかには信じられないのである。それは別としてこの映画は、中国軍の能力を誇示するプロパガンダ映画といってよい。中国海軍が全面的に協力したのもうなずける。

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先日NHKの能楽番組で、狂言「文蔵」を放送したのを見た。これは大名狂言の一つで、シテの長々とした語りが売り物の曲である。そのシテを人間国宝の山本東次郎が演じていた。

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