2024年4月アーカイブ

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ソールズベリー大聖堂は、イギリスで最も古い教会の一つである。その司教ジョン・フィシャーと、コンスタブルは非常に懇意にしていた。「ソールズベリー大聖堂(司教の庭から Salisbury Cathedral from the Bishop's Grounds)」と題されたこの絵は、フィッシャーの依頼を受けて制作されたものである。

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能「忠度」は、一の谷で戦死した平家の武将忠度の和歌へのこだわりと、壮絶な戦死をテーマにした作品。申楽談義には、「通盛、忠度、義経三番、修羅がかりにはよき能なり。このうち忠度上花か」とあるので、世阿弥にとって自信作だったのだろう。またの名を「薩摩守」ともいう。そこから「ただ乗り」を薩摩守というダジャレが生まれた。

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2007年の中国映画「戦場のレクイエム(集結號 馮小剛監督)」は、国共内戦の一こまを描いた作品。併せて朝鮮戦争の一こまにも触れている。戦後国共両勢力は、覇権をめぐって壮絶な戦いを繰り返すが、そのうち華北を舞台に展開された淮海戦役の一こまがテーマである。この戦いは共産党の人民解放軍が勝利し、1950年の中共政権樹立へとつながる重要なものである。その戦いに参戦した一中隊の運命と、その中隊長谷子地の意地を描く。中隊は谷を除き全滅するのだが、正規な記録がないことや遺体が見つからないことを理由に、全員行方不明扱いされる。戦死者には勲章や年金が贈られるが、行方不明は恥だとされる。そこで生き残った谷は、全員が戦死したことを自分が証明し、かれらの名誉を回復したいと願う。その願いは最終的にかなえられ、全員英雄としてたたえられる、というような内容である。

正法眼蔵第三十六は「阿羅漢」の巻。阿羅漢とは小乗の聖者のことをいう。大乗では伝統的に小乗を軽視し、その小乗の聖者である阿羅漢も、大乗の菩薩と比較して下に見るというのが普通であるが、道元はそうは見ない。阿羅漢も仏教の修行者としてそれなりに評価している。もっとも阿羅漢を以て、修行者の究極的な姿とは見ない。だが道元は、仏になったからといってそれに安住することをいましめ、仏の先の境地(仏向上事)を目指せといっているくらいだから、阿羅漢もその境地に安住していては堕落する、一層先の境地を目指すべきだと言いたいのだろうと思う。

深川清掃事務所に入所して一年後に、管理係長が人事異動で転出した。小生はこの係長を親父のように頼りにしていたので不安だったが、転出先は本局であり、一応栄転という形だったので、表向きは祝福してみせた。後日本局で会うことがあったが、非常に忙しそうにしていた。書類をもって廊下を走り回っている。緊急案件のために部長の決裁を求めているという。やがて部長の姿があらわれると、係長は犬のようにすりよっていった。部長が傲慢そうな表情を浮かべながら、書類を一瞥して決済の花押を印した。当時は花押で決済する習慣が残っていたのである。この部長にかぎらず、いわゆるお偉方には傲慢な人間が多かった。

ドゥルーズはルイス・キャロルをナンセンスの名手として推奨する。「意味の論理学」には、「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の中からさまざまなタイプのナンセンスが引用され、それらの論理的・文学的意義についての考察がなされている。ドゥルーズがナンセンスを重視するのは、ナンセンスが意味を生産することに着目するからだ。その新たな意味を生産する名手として、ルイス・キャロルに勝るものはいないとドゥルーズは考えるのである。

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「乾草車(The Hay Wain)」と題されたこの絵は、六フィートの大作シリーズの第三作。コンスタブルの最高傑作と目されている作品である。1821年のローヤル・アカデミー展で非常な反響を呼んだが、買い手はつかなかった。数年後に、他の小サイズの作品と合わせて、バイヤーに買われた。この作品は、フランスにおいても話題となった。この絵を見たジョリコーは非常に興奮していたとドラクロアが語っているし、また、作家のノディエは、フランスの画家も身近な自然を描くべきだと言った。

小説「未成年」の出だし近いところで、アルカージーはクラフトと会う目的でデルガチョフの家に出かけていく。クラフトが彼のためにあずかっている書類を受け取るためである。そこには、何人かの青年たちが集まっていて、何やら議論していた。その議論にアルカージーも加わることになる。青年のなかにはクラフトのほかワーシンとか教師と綽名された者などがいて、それぞれ勝手なことを言っていた。その議論が、当時のロシアの青年世代をとらえていた自由思想を踏まえたものなのだ。自由思想を抱いた青年たちは、「悪霊」にも登場するが、この小説の中の青年たちは、「悪霊」の青年たちに比べ、いまひとつ迫力を感じさせない。アルカージーなどは、思想らしいものを持っていないのだが、そのアルカージーと比べてもたいした違いはないのである。

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2019年のハンガリー映画「この世界に残されて バルナバーシュ・トート監督」は、ハンガリーにおけるホロコーストを生き延びたものの心の傷をテーマにした作品。ホロコーストをテーマにしたハンガリー映画としては、「サウルの息子」が有名だ。「サウルの息子」は、強制収容所におけるユダヤ人の苦悩を直接的なタッチで描いていたが、こちらは、戦後まで生き残ったものの心の傷に焦点を当てている。とはいっても、その傷は遠回しに表現されるばかりで、ずばりと示されるわけではない。

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「ストラットフォード・ミル(Stratford Mill)」と題されたこの絵は、トアー川の大作シリーズ第二作。「白馬」の成功に気をよくしたコンスタブルは、かねて計画していたウオータールー・ブリッジ架橋記念作品を放棄してこの作品の制作に取り掛かった。完成後ローヤル・アカデミー展に出品して大きな成功を収めた。また買ってくれるものもいたが、コンスタブルを満足させる額ではなかったそうだ。

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2015年のデンマーク映画「ヒトラーの忘れもの(UnderSandet マーチン・サンフリート監督)」は、ナチスが大戦中に設置した地雷の撤去をテーマにした作品。その撤去作業を、デンマーク当局は国内に取り残されていたドイツ兵にやらせる。映画に出てくるドイツ兵は、みな子供の兵士である。その子供たちに、デンマーク軍の下士官が地雷撤去の作業を強制する。デンマーク人にはナチスへの敵愾心があり、その敵愾心がそれらの少年兵士に向けられる。したがって彼らの課された作業には懲罰的な意味がある。国際法上は、捕虜の人権は守られることになっているが、実際には踏みにじられる。国際法よりも国家的な憎しみのほうが優先されるのである。

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「白馬(The White Horse)」と題するこの絵は、コンスタブルの画家としてのキャリアの転換点を画した作品。これはこの絵を王立展示会に出品して高い評価を受け、しかも高額で売ることができた。この作品のおかげで、かれはローヤル・アカデミーの会員に推挙され、また画家としての名声も上がり、高額での注文を受けるようになった。

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アレクサンドル・ソクーロフの2002年の映画「エルミタージュ幻想(Русский ковчег)」は、エルミタージュ博物館を舞台にした幻想的な作品。90分ほどの長さだが、全編がワンカットで作られており、映画史上はじめての試みだとして、大いに話題になった。ワンカットといっても、シーンはかわる。カメラの動きにあわせて、様々な人が登場する仕掛けになっている。その登場人物というのが、最初は現代のロシア人だが、そのうち昔のロシア人が出てきて、時間を超越した騒ぎになる。そこが幻想的だという所以である。

正法眼蔵第三十五は「神通」の巻。神通は神通力ともいわれ、超自然的なことを行う能力というような意味で受け取られることが多いが、道元はそれを、仏教者にとっての日常茶飯事だという。この巻は「かくのごとくなる神通は、佛家の茶飯なり、諸佛いまに懈倦せざるなり」という言葉で始まっている。その意味は、これから取り上げる神通とは、仏教者にとっては日常茶飯事なのであり、仏たちが懈怠なく行ってきたものだということである。

ナンセンスは、日本語では無意味と訳されるように、意味と深いかかわりをもっている。そんなわけで、意味について考察する「意味の論理学」にとっては、もっとも重要な意義を持つ概念である。そこで、ナンセンスという言葉の厳密な定義が問題となる。普通それは無意味なこと、つまり意味の不在と受け取られている。ところがドゥルーズは、ナンセンスは意味の不在なのではなく、逆に意味の過剰なのだと言う。どういうことか。ある言葉の意味は、かならず他の言葉によって説明される。たとえば、岩とは大きな石のことであるとか、石とは小さな岩であるといった具合である。それに対してナンセンスとは、言葉の意味がほかの言葉によってではなく、それ自体によって説明されるような事態をさしている、とドゥルーズは言う。「石は石である」とか、「岩は岩である」といった具合に。これを他の言葉であらわすと自己言及という。自己言及という言葉をドゥルーズは使っていないが、要するにそういうことだ。

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ジョン・コンスタブル(John Constable 1776-1837)は19世紀前半におけるイギリス美術を、ターナーとともに代表する画家である。二人とも風景画を得意とした。コンスタブルのほうが、イギリスの風景画の伝統を体現しているといってよい。かれの絵のおかげで、イギリスの風景画の美術的価値が、海外にも知られるようになった。

マカール・イヴァーノヴィチ・ゴルゴルーキーは、ロシア人の信仰のあり方の一つの典型を示している。ドストエフスキーはこの小説の中で、マカール・イヴァーノヴィチにたいして大きな役割は果たさせていないが、しかし彼のちょっとした言葉の端々から、ロシアの民衆の信仰心が伝わってくるように書いている。マカールは、農奴の出身であり、したがってロシアの最下層の民衆を代表する人間である。その最下層のロシア人にとってキリスト教信仰とはどんな意味を持つのか。そのことを考えさせるようにドストエフスキーは書いているのである。

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2017年のアメリカ映画「スリー・ビルボード(Three Billboards Outside Ebbing, Missouri マーティン・マクドナー監督)」は、痛烈な警察批判をテーマとした作品。アメリカ人は警察に懐疑的で、トラブルを警察に頼らず自分で解決しようとする傾向が強い。さすがに殺人事件などは、警察に頼らざるを得ないが、警察はまともに仕事をせず、黒人への暴力行使など、ろくでもないことにうつつを抜かしている。そういった警察不信が露骨に表現された映画である。

イスラエルによる自国大使館への不法な攻撃にイランが反撃したことをめぐり、欧米諸国はこぞってイランを非難した。それにあわせたのだろう、日本の某外務大臣もイランを非難した。これについては典型的なダブルスタンダードだとの批判がある。イスラエルの国際法を無視した不法な攻撃には目をつぶり、イランだけを一方的に避難しているからだ。紛争の原因を作ったものの責任は棚上げして、反撃したものの責任ばかり云々するのは筋の通らない話だ。

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「ナポリの壁(A wall in Naples)」と題されたこの小品も、ナポリの街景シリーズの一つ。これは、背景をほとんど描かず、もっぱら建物の壁を詳細に描きとったものだ。ジョーンズのナポリ街景シリーズの作品群は、ぶっきらぼうな印象のものが多いが、この作品はとりわけそうである。

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2015年のアメリカ映画「スポットライト(Spotlight トム・マッカーシー監督)」は、カトリック教会における聖職者の性的虐待問題をテーマにした作品。アメリカでは、カトリック教会における性的虐待がしばしば問題となっていたが、大々的に取り上げられることはなかった。2002年に、ボストンの新聞ボストン・グローブが、綿密な調査にもとづいて、この問題を報道すると、全米的な規模で事態解明と責任追及が行われ、バチカンの教皇が謝罪に追い込まれたのは周知のことだ。この映画は、ボストン・グローブの専門部隊「スポットライト」による問題追及の過程を描く。

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トーマス・ジョーンズは、1780年から1783年にかけてナポリに滞在した。かれはナポリの街が気に入り、その都市景観を多く描いた。建物をモチーフにした作品に傑作が多い。「ナポリの建物(Buildings in Naples)」と題されたこの絵は、かれのナポリ街景シリーズの代表作品である。

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1994年のアメリカ映画「フォレスト・ガンプ(Forrest Gump ロバート・ゼメキス監督)」は、アメリカ現代史の批判をテーマにした作品。その批判を、知能程度の低い人間の視点から浮かび上がるように作っている。批判されているアメリカは、1950年代の差別と分断が横行するアメリカであり、1960年代の戦争好きのアメリカであり、1970年代以降の金権礼賛的なアメリカである。知能程度の低い主人公には、社会を客観的に批判する能力はなく、現状を受け入れるのがせきのやまである。だが、その受け入れを迫るアメリカ社会があまりにも理不尽に見えるので、おのずから批判の様相を呈するのである。

正法眼蔵第三十四は「仏教」の巻。仏教という言葉を道元は、ここでは三乗十二分教という形をとった具体的な教義の体系という意味で使っている。それを巻の冒頭で次のように表現している。「諸佛の道現成、これ佛教なり」。諸々の仏の言葉が実現したもの、それが仏教だというのである。諸々の言葉が実現したものは、三乗十二分教というかたちで表されている。だから仏道を学ばんとするものは、三乗十二分教を学ばなければならぬ。

小生が大学卒業後の就職先に選んだのは東京都庁だ。自分のホームページのプロフィール欄には、「東京に事務所を置く一地方団体」と記してある。都庁を選んだ理由は二つある。どちらも大したことではないが、一つ目は、大学で仲良くしていた友人から、都庁の採用試験を一緒に受けようと誘われたことだ。その友人は結局都庁には入らず、大手新聞社に努めた。当時は役所の給与は低く、大手企業のほうがはるかに高い収入を得られたので、かれの選択は正しかったのだろう。もう一つの理由は、家族への気兼ねだ。小生は四人兄弟の長男坊なので、ゆくゆくは親と同居して、面倒を見なければならないと考えていた。それには遠方への転勤がないところでなければならない。都庁という職場は、転勤は無論あるが、だいたいが二十三区内に収まると聞いていたので、自宅から十分通える範囲内である。そんなわけで都庁を選んだ次第だった。

西洋のデカルト以降の近代哲学は、哲学の端緒というか出発点のようなものを想定し、そこから議論を展開するという方法をとってきた。デカルトの場合、それは「我思う」という意識の働きであり、その意識の働きが我の実在性を証明すると考えた。カントの場合、原初的な感覚が端緒であり、その感覚を知性が料理することで知覚となり、さらには概念にまで高まると考えた。フッサールの場合、意識の相関者として与えられた現象を端緒とし、その現象を虚心に分析することから概念的な知が生まれると考えた。ベルグソンは意識の直接与件としての知覚を端緒とし、それを分析することで人間の世界観を基礎づけた。そのような哲学的な端緒をドゥルーズは「できごと」に求めた。ドゥルーズの哲学は「できごと」を端緒にして展開するのである。

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トーマス・ジョーンズは、1776年にイタリアに渡り、1783年までそこに滞在した。イタリア滞在中に最初に制作したのが、この「アルバノ湖(Lake Albano)」と題する絵である。アルバノ湖は、ローマの南の郊外にある湖で、ローマの建設者ロムルスとレムスが生まれた地と信じられていた。ジョーンズはこの湖の景色にすっかり感動し、40日もかけてこの絵を完成させた。

セリョージャ公爵はヴェルシーロフ親子と深い因縁がある。ヴェルシーロフとは第三者の遺産相続権をめぐって争ったほか、個人的な怨恨もある。アルカージーとはともに放蕩の限りをつくした。またリーザとは肉体関係を持ち、妊娠させてもいる。ヴェルシーロフ親子はこの小説のカギとなる人物像なので、そのいずれとも深い因縁があるセリョージャ公爵は、奥行きのある複雑な人物像であってもよいのだが、どうも薄っぺらな印象をぬぐえない。それは、一人称で個人的な体験を語るというこの小説の構成上の制約かもしれないが、それにしても中途半端な人物だという印象がぬぐえないのである。

岩波の雑誌「世界」の最新号(2024年5月号)が、「ガザ攻撃はシオニズムに一貫した民族浄化政策である」と題する小論(早尾貴紀著)を掲載している。この攻撃を西側諸国の主要な論調は、ハマスのテロへの反撃であり、イスラエル国家の自衛権の発動だとしながら、ちょっとやりすぎかもしれない、というふうに論じている。それに対してこの小論は、イスラエル国家によるパレスチナへの暴力支配の歴史に言及し、ハマスの攻撃はテロなどではなく、イスラエル国家の暴力支配に対する抵抗だと位置づける。そのうえで、イスラエルによるパレスチナ人への大量虐殺すなわちジェノサイドを強く批判する。

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フランシス・フォード・コッポラの1974年の映画「カンバセーション・盗聴(The Conversation)」は、盗聴のプロの生き方と挫折を描いた作品。アメリカには盗聴のプロがいて、結構仕事もあるらしい。なにしろ現職の大統領が、政敵に盗聴を仕掛けるような国柄だ。盗聴は日常的なビジネスになっているということが、この映画からは伝わってくる。

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船橋海老川の桜並木は、船橋界隈ではもっとも人気のある花見名所だ。JRの線路から北方面に3キロにわたる桜並木がある。かつては千本桜と呼ばれたそうで、いまでも500本ほどの桜の並木が展開している。曇天が続いた後、気持ちのよい青空が広がったのをさいわいに、小生は海老川まで花見に赴いた次第。



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「ワイ川の眺め(View on the River Wye)」と題されたこの絵は、ジョーンズの故郷ウェールズの風景を描いたもの。モチーフのワイ川はウェールズの東部、イングランドとの境近くを流れる川である。この絵の構図は、モンマスの北側からの眺めという。

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石井裕也の2019年の映画「町田くんの世界」は、石井の作品の中ではかなりユニークなものである。この映画の中の主人公の少年も、やはり生き方が下手なのではあるが、ほかの映画の中の人物たちとは違って、生き方が下手なためにひどい目にあっているわけではない。逆に周囲の誰からも愛されるのである。もっともかれは誰彼なく愛してしまうので、自分だけを愛してほしいと願う者にはストレスを与える。かれは特定の人だけを独占的に愛することができないのだ。

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昨年(2023)の三月に死んだ作曲家坂本龍一の最後の日々を記録したNHKスペシャル番組「LastDays 坂本龍一最後の日々」を見た。2020年の一月に肝臓に3センチ大の癌がみつかり、医師から余命半年といわれながらも、2023年三月に死ぬまで、死と向き合いながら、最後には自分の人生に納得して死んでいった坂本の最後の日々が、圧倒的な存在感をもって迫ってくる作品だった。

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「吟遊詩人(The Bard)」と題されたこの絵は、ウェールズの歴史をモチーフにしていることから歴史画に分類されるが、背景にウェールズの風景が描かれていることから、風景画として受け取ることができる。この絵のモチーフとなったのは、トーマス・グレイの伝説的な物語で、エドワード一世によるウェールズの吟遊詩人虐殺を語ったものだ。

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石井裕也の2011年の映画「ハラがコレなんで」は、貧しい人間たちの助け合いというか連帯をコメディタッチで描いた作品。石井裕也は、いわゆる負け組と称されるような人々のみじめな生き方を描くのが得意だが、この映画は、貧しいながらもみじめ一点張りではなく、それなりに自分に誇りを持ち、貧しいもの同士で助け合うことの大事さを強調したもの。いわば貧者の連帯がモチーフである。

正法眼蔵第三十三は「道得」の巻。この巻を理解するためには「道得」という言葉の意味を分かっていなければならない。「道」は「言う」を意味する。だから「道得」は「言うことができる」という意味である。何を言うかといえば、真理をである。真理を言うことができる、それが「道得」である。これを名詞形にすると、真理を言うこと、真理の表現ということになる。

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今年は、三月に入って寒い日が続いたおかげで桜の開花が遅かった。東京都心部では三月二十九日にやっと開花し、満開になったのは四月四日だった。小生の住む千葉県船橋は、それよりもっと遅れ、開花は四月に入ってから、満開は四月七日だった。その満開の桜を見に、この日四月七日に、弁当を持参して近所の桜の名所長津川公園に赴いた。

ジル・ドゥルーズの書物「意味の論理学」は、タイトル通り意味を論理学的に解明する試みである。そこで意味という言葉と論理学との関連が問題になる。論理学とは、伝統的な意味では、思考の法則とか推論の形式にかんする学問である。思考や推論は通常存在するものについてなされるので、論理学は存在についての判断を取り扱うものだと言われる。存在についての判断が論理学の対象といえるわけである。アリストテレスはそのように論理学を定義しており、それが西洋の論理学の考え方であった。そうした意味合いの論理学と意味との関係について論じるのがこの書物の目的なのであろうか。

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トーマス・ジョーンズは、ゲインズバラの次の世代の画家で、コンスタブルやターナーへとイギリスの風景画の伝統をつないだ人である。1770年代のなかばから1780年代にかけて活躍した。イギリス風景画のパイオニアの一人リチャード・ウィルソンの指導を受け、1771年にはイギリス芸術家協会の会員に選ばれた。

小説「未成年」のメーン・プロットは、カテリーナ・ニコラーエヴナとアンナ・アンドレーエヴナという二人の女性の確執である。カテリーナ・ニコラーエヴナはソコーリスキー老侯爵の娘であり、アンナ・アンドレーエヴナはヴェルシーロフの娘であり、かつ老侯爵との結婚を願っている。それだけのことなら大した問題にはならないはずだが、そこに複雑な事情がからむ。カテリーナは、父の老侯爵がアンナと結婚することによって、遺産の大部分をアンナに相続させるのではないかと恐れる。実はそれ以前から、父親を信用せずに、財産の管理を自分がやるつもりでいた。そのために父親を禁治産者にするための相談をある人物としていたほどである。それにかかわる文書が、どういうわけかアルカージーの手に入る。その文書をめぐって小説は展開するのだ。

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三宅唄の2022年の映画「ケイコ目を澄ませて」は、耳の聞こえない女性プロボクサーの生き方を描いた作品。元プロボクサー小笠原恵子の自伝「負けないで!」を映画化したものだ。彼女は、東京下町(荒川区)の小さなジムを拠点にして、プロとしてのみがきをかけ、試合に勝つことを目標に生きている。試合に勝つことは簡単ではない。耳が聞こえないというのは、かなりなハンディである。それでもこの女性は、自分のハンディに立ち向かい、勝つことにこだわる。

NHKスペシャル番組「未解決事件」シリーズのFile10「下山事件」を見た。前後二編で構成され、前半はドラマ仕立て、後半はドキュメンタリー仕立てになっている。前半がよくできていた。森山未来演じる検事の布施健が、事件の真相を追い、ついに真犯人を突き止める経緯を描く。真相は、アメリカの占領当局が、国鉄への見せしめとして行ったというものだ。当時日本はアメリカの統治下にあり、アメリカを刑事犯として裁くことはできなかった。しかし、1952年に独立を回復した以後も、日本の検察はアメリカに対して遠慮しつづけた。そのことは検察に後ろめたさを感じさせる要因となり、検察はその意趣晴らしのために後日ロッキード事件を裁いた、というような構成になっている。ロッキード事件を総指揮したのは、下山事件を担当した布施だったので、意趣晴らしというのは非常に説得力のある見方だ。

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「マーケットカート The Market Cart」と題されたこの絵は、田園地帯をゆく馬車を描いている。その馬車が通る道は、今日ゲインズボロー小道と呼ばれるもので、サフォーク地方にあるそうだ。おそらくこの地方が生んだ偉大な画家ゲインズバラの名にちなんだのであろう。

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石井裕也の2011年の映画「あぜ道のダンディ」は、金がないのに見栄っ張りな中年男の涙ぐましい生き方を描いた作品。妻に死なれ、男手で二人の子供を育ててきたはいいが、子供とのコミュニケーションがうまくとれないことに悩む。唯一幼馴染の友人を相手にうさばらしをするのが生きがいになっている。二人の子供は年子らしく、浪人中の長男と高校三年生の長女が同時に大学入学をめざしている。父親は金の自信がないのだが、金はあるから心配するなと子供らに見栄をはる。

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令和5年6月博多座の歌舞伎公演から、尾上菊之助が左官長兵衛を演じた「人情噺文七元結」と中村鴈治郎と片岡愛之介共演した「太刀盗人」を、NHKが放送したのを見た。

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ゲインズバラには「ハーベスト・ワゴン」と題する絵が二つある。一つは1767年に制作され、現在はバーミンガムのバーバー美術館が所蔵している。もう一つは1784年に制作され、現在はトロントのオンタリオ美術館が所蔵している。どちらも、ほぼ同じような構図である。この二つを見比べると、後者のほうが完成度が高い。色彩が明るくしかも多彩である。

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三宅唄の2018年の映画「きみの鳥はうたえる」は、若い男女の奇妙な三角関係を通じて、現代日本社会における若者の生きざまを描いた作品。本屋に働く男女がまず結びつく。男にはルームシェアする友人がいて、その友人も女に関心を示す。そのうち女は友人とできてしまう。その女は以前、勤め先の本屋の店長ともできていたので、その尻の軽さが際立って見える、といった内容の映画である。

正法眼蔵第三十二は「伝衣」の巻。伝衣とは仏衣の伝承という意味だが、同時に仏法の正伝を意味する。仏衣が仏法の象徴として捉えられているのである。その仏衣は、ひとつには釈迦牟尼以来代々の仏祖の間で直接伝えられてきたものと考えられる一方で、普通の庶民が着るべきものとも思念される。前者は国の宝といわれ、後者は修行者を導く働きを持つと考えられる。

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