y24.1.jpg

夢二は、セノオ楽譜のためにせっせとイラストを描いたが、なかには、自分が作詞を手掛けたものもあった。「宵待草」はその代表的なもので、いまでも夢二の代表曲として親しまれている。初版は1918年に出て、その際は、「待宵草」というタイトルだった。上の絵は、1924年に出版されたものの表紙絵である。

カルペンティエールの小説「失われた足跡」の根本的テーマは、文明と非文明との対比を描くことにあると言ったが、その場合、文明と非文明とは、価値の差とは考えられていない。人間の生き方の相違として捉えられている。ふつう我々文明社会に生きているものは、文明人である自分自身を基準にして、それとは異なる生き方をしているものを、発達の遅れた野蛮人として捉えがちである。じっさいこの小説の主人公も、最初はインディオたちを一段劣った存在として捉えていた。それは、同行者が自分の冒険譚をするとき、「いささかの悪意もなく、ごく自然な調子で、『我々の一行は、三人の<男>と十二人の<インディオ>だった』という言い方をしていた」(牛島信明訳)ことについて、主人公がその奇妙な区別を受け入れていたことにあらわれていた。

m23.1908.bradley.jpg

ミュシャがたびたびアメリカを訪問した目的の一つは、畢生の大作「スラヴ叙事詩」の制作のための資金援助を募ることだった。その提供者として名乗りをあげたのは、大富豪チャールズ・ブラッドリーだった。ミュシャはブラッドリーの資金援助を得ると、故郷のチェコにもどり、1910年から1928年にかけて、20点からなる連作「スラヴ叙事詩」を完成させた。

ray08.middle.jpeg

サタジットレイの1976年の映画「ミドルマン」は、いわゆる「カルカッタ三部作」の三作目。一作目の「対抗者」と同じく、職を求めて必死になるインドの若者を描いている。「対抗者」の主人公は、経済的な理由から大学の医学部を中退し、できたら医学に関係のある職に就きたいと願うが、それがかなわず都落ちして、田舎のさえない職場で我慢する様子を追っていた。それに対して、この映画の中の主人公の若者は、大学は無事卒業できたにかかわらず、意に沿う就職ができない。その挙句に自分でビジネスを立ち上げるというような内容である。

共和制と民主主義を混同してはならない、とカントは主張する。この両者は、とかく政治体制という曖昧な言葉で言及され、したがって同じ原理の上に立つものと誤解されやすいが、じつは異なった原理に基くのである。民主主義は、「最高の国家権力を有している人格の差別」に基く分類によるものである。これを「本来支配の形式」に基く分類という。この分類によれば、支配権を有するものがただ一人の場合(君主制)、互いに結合した複数の人の場合(貴族制)、市民社会を形成しているすべての人の場合(民主制)の三つの支配の形式があるということになる。

堀幸雄は日本の右翼研究の第一人者だそうだ。かれが編纂した「右翼辞典」は、いまでも右翼研究にとっての基礎的な情報源になっている。かれは新聞記者出身で、綿密な取材をもとに右翼の実体をわかりやすく解説してくれる。そのかれが1983年に出版した「戦後の右翼勢力」は、戦後日本の右翼の動向を知るには、もっともすぐれた案内書といえる。

ray07.taikou.jpeg

サタジット・レイの1970年の映画「対抗者」は、医学部を中退して職を探している青年の数日間を描いた作品である。同時代のインド社会の厳しい現実を、写実的に描いている。舞台がカルカッタであり、サタジット・レイは同じような趣向の作品を以後二本つづけ作っていることから、それらをあわせて「カルカッタ三部作」と呼んだりする。

y21.3.jpg

「黒猫」と題するこの絵は、「女十題」シリーズのなかで最も人気の高いもの。女が黒猫を抱いている構図は、「黒船屋」とよく似ている。だが、「黒船屋」が日本の女を描いているのに対して、これは西洋の女を描いている。長崎という土地柄を物語る一作である。

中沢新一の著作「緑の資本論」は、2001年の9.11テロに刺激されて一気に書いた文章を集めたものだ。それらの文章で中沢が言っていることは、「圧倒的な非対称」が暴力を生むということだ。それは、強者の側からは弱者への一方的な攻撃としてあらわれ、弱者の側からは絶望的なテロという形をとる。そういう関係について中沢は、弱者の側に立っているようである。

m22.1905.seibo.jpg

ミュシャは1904年に初めてアメリカに渡り、その後もたびたび訪れた。アメリカは成金国家で、美術品への需要が高く、有利なビジネスが期待できた。そこでミュシャは既存の装飾絵画を売りさばく一方で、注文制作にも応じた。そうした作品には、油彩画やテンペラ画も含まれていた。ミュシャはリトグラフの装飾画家として名を挙げたのだったが、本来的には油彩の大作への意欲を強く持っていた。

菩薩の十地は第八地にいたって従来とはまったく異なった境地に入る。従来の境地は、菩薩の個人としての修行に重きを置いていた。大乗の菩薩であるから、その修行は自己のみならず衆生の救済をも目的とするものであるが、しかし自己自身修行の身であることにはかわりなく、したがって十全なさとりの境地にはまだ達しておらず、ましてや衆生をさとりに導くことはできない。ところが、第八地にある菩薩は、自己自身のさとりを成就すると同時に、衆生をしてさとりを得させる力を持つにいたるのである。

今般のウクライナ戦争では、当初ロシア軍の圧倒的優勢が伝えられ、その勝利は揺るぎないものと思われていた。しかし戦争が始まってすでに三か月たったいま、ロシア軍は圧倒的な勝利を収めるどころか、各地で苦戦を強いられ、一部では劣勢が伝えられている。中には、ロシアの敗北を予想するものまでいる。これは大方の予想に反した意外な事態と受け止められているが、小生はありうることだと思っていた。その理由は、ロシア軍が攻撃的な戦争を得意としていないことにある。二つの面で、ロシア軍は攻撃的な戦争には向いていないのだ。一つはロシア人の国民性に根差している。もう一つはロシア軍の伝統的な作戦思想に根差している。

ray06.wood.jpeg

サタジット・レイの1969年の映画「森の中の昼と夜」は、都会で暮らしている若者たちが、森の中で数日間の休暇を楽しむさまを描いている。若い連中のことだから、はめをはずして騒いだり、女に熱をあげたり、また中にはひどい目にあったりするのもいるが、なんといってもバケーションのうえでのことだから、笑ってすますことができる。そんなインド人青年たちの楽天的な生き方を描いたこの映画は、これといって大袈裟な仕掛けがないだけに、この時代の若いインド人の生き方とか考え方がすなおに伝わってくる映画である。いわば同時代のインドの風俗映画といったところだ。

y21.2.jpg

女十題シリーズは、市井の女たちの何気ない仕草をスナップショット的にとらえたものが多い。これもそうした一点。おそらく夫を送り出したあとの、若妻のひと時を描いたのであろう。タイトルにある光は、明示的に表現されているわけではないが、画面全体の明るい雰囲気から、光がそこにあふれているのを感じさせる。

ラテン・アメリカ文学の顕著な特性としてのマジック・リアリズムを、最初に体現した作家はアストゥリアスとされるが、それを自分の創作方法として意識的に追求したのがアレホ・カルペンティエールである。カルペンティエールは、ラテン・アメリカでは、現実に起きていることが、西欧的な感覚ではマジックのように見えるので、それをそのまま描けばマジック・リアリズムになると考えた。そうしたマジカルな現実をカルペンティエールは「驚異的現実」と呼んでいる。

m21.1902.jpg

「月と星」は、ミュシャの装飾パネル・シリーズの最後の作品(四枚セット)。ほかの一連のシリーズものと同様、モチーフを女性に擬人化している。もっとも、ほかの作品では、女性が前面に浮かび上がるよう配置されているが、このシリーズの女性たちは控えめに描かれている。その分、モチーフの月と星を強調している。

ray05.charulata.jpeg

サタジット・レイの1964年の映画「チャルラータ」は、イギリス統治下のインド社会の一断面を描いた作品。前作の「ビッグ・シティ」が同時代のカルカッタの中流家庭を描いていたのに対して、こちらは植民地時代のカルカッタの上流家庭を描いているという違いがあるが、夫婦を中心としたインドの家族のあり方を描いているという点に共通するものがある。

カントが「永遠平和のために」を書きあげたのは1795年8月、同年4月に締結されたバーゼル平和条約に刺激されてのことだ。バーゼル平和条約とは、フランス革命戦争の一環として行われた普仏戦争の休戦を目的としたもので、これによりラインラントの一部がフランスに割譲された。カントはこの条約が、締結国同士の敵対を解消するものではなく、未来においてそれが再燃する必然性を覚えていたので、偽の平和を一時的に補償するものでしかないと見ていた。そこで、永遠に続く平和を実現するためには、どうしたらよいか、そのことを考えるためのたたき台としてこの論文を書いたというわけである。

「世界史の実験」(岩波新書)は、柄谷行人の柳田国男論の仕上げのようなものである。柄谷は、若いころ日本文学研究の一環として柳田を論じたことがあり、その後、「遊動論」を書いて、柳田の山人論に焦点を絞った論じ方をしていた。山人というのは、日本列島のそもそもの原住民が、新渡来者によって山中に追いやられた人々のことをいうが、その生き方の遊動性が、狩猟・遊牧民族の生き方によく似ていた。狩猟・遊牧民は、柄谷が素朴な交易の担い手として設定するものであり、いわゆる交換様式Aの担い手である。交換様式Aは、原始的共同体を基盤としており、国家を前提とした交換様式B及び資本主義的な交換様式Cを経て、最終的には交換様式Dとして復活するものと展望されていた。交換様式Dというのは、アソシエーションの自由な結びつきとしての「アソシエーションのアソシエーション」とされる。それは、柄谷なりのコミュニズムを意味していた。そういう文脈の中で柄谷は、柳田を柄谷なりに解釈したコミュニズム=アソシエーショニズムの先駆者として位置付けたわけである。

ray04.city.jpeg

サタジット・レイの1963年の映画「ビッグ・シティ」は、インドの大都市に暮らすサラリーマン一家を描いた作品。その頃のインドはまだ発展途上国であり、経済的には貧しく、また人々の意識は古い因習にとらわれていた。そんなインド社会にあって、とりあえず生活のために働く決意をした女性が、自分の家族をはじめ、世間の偏見や因習と戦う様子を描いている。

最近のコメント

アーカイブ