古典を読む

梅を詠む:万葉集を読む

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梢に高く咲く花のうちで万葉の人々がもっとも愛したのは梅だったようだ。というのも、万葉集には梅を歌った歌が百二十首も載せられており、これは花を歌った歌としては萩についで多い。桜を歌った歌は四十首ばかりだから、それと比べても、いかに梅が愛されていたか推測される。何故万葉の人がかくも梅を愛したか。民俗史的な関心を引くところだが、考えられるのは、梅が春の訪れを真っ先に知らせる花だということ、そして梅の花から漂い来る香が、万葉の人々に訴えたのだろうということだ。日本人は古代から、香に敏感な民族だ。

春の歌:万葉集を読む

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万葉集巻八の冒頭は、春の雑歌として「志貴皇子の懽びの歌」として次の歌を載せている。
  石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも(1418)
志貴皇子については、このサイトの別の部分で言及したので詳しくはふれない。天智天皇の皇子で、天武系の血脈がとだえたあと、志貴皇子の子つまり天智天皇の孫(光仁天皇)が即位し、それ以降天智系が皇統を継ぐようになった。

四季の歌:万葉集を読む

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万葉集巻八は、春雑歌、春相聞という具合に、春夏秋冬の季節ごとに雑歌と相聞歌とに分けて配列されている。この季節ごとの分類は巻十にも採用されている。両者の違いは、巻八が作者のわかっている歌を制作年代順に並べているのに対して、巻十のほうは、作者未詳のものを、テーマ別に並べていることだ。そのテーマというのは、春雑歌の場合には、鳥を詠む、霞を詠む、という具合に季節の景物に即したものであり、春相聞歌のほうは、鳥に寄する、霞に寄する、という具合に、季節の風物にことよせて恋を詠ったものである。

芭蕉と西行

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西行が出家後初めての陸奥への旅について、能因法師を強く意識していたように、それから五百年後に芭蕉が行った陸奥への旅について、芭蕉が西行を強く意識していたことはよく言われることである。芭蕉がこの旅をした元禄二年(1689)が、西行の五百年忌にあたっていたことからも、そのことは伺える。もっとも、「奥の細道」の中には、直接西行に言及した記事は殆ど無い。西行と同じ道を芭蕉も又たどったことから、芭蕉が西行を強く意識していたことを推測するのみである。ただ一つ、西行の歌を引用した箇所がある。それは加賀と越前との境にある汐越の松を舟で尋ねたときのことで、その歌は
  終夜嵐に波をはこばせて月をたれたる汐越の松
という歌だが、これは芭蕉の間違いで、西行ではなく蓮如の作だと言う。

明恵と慈円:西行を読む

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西行は、自分の手では歌論らしきものを残していないが、彼と触れ合いのあった人々が、その一端に触れているものはある。たとえば、伊勢神社の神官で、西行の歌の弟子となった荒木田満良が蓮阿という名で紹介しているものなどである。ここでは、西行の晩年の歌境に触れているものとして、明恵と慈円を紹介しよう。

法華経:西行を読む

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「山家集」には、法華経を読んでの感想を詠んだ歌が十数首収められている。このほか「聞書集」には、「法華経廿八品」と題して、法華経二十八品のそれぞれすべてに対応する歌が収められている。これらはみな西行の若い頃に詠んだものと考えられる。待賢門院の落飾を祝うために、若い西行が法華経の書写を有力者に求めたことが藤原頼長の日記「台記」にあるし、また西行が出家して最初に修行のためにこもった鞍馬寺が、延暦寺の末寺として法華経を講じていたらしいことなどから、若い頃の西行が法華経に強い関心を持っていたことは十分に考えられる。法華経を詠んだ以上の一連の歌は、そうした境地から生み出されたのであろう。

地獄絵:西行を読む

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「聞書集」には、「地獄絵を見て」と題する歌以下、地獄絵を見た感想を詠んだものが二十七首載っている。「聞書集」は西行最晩年の歌集と考えられるところから、これら一連の歌も、「たはぶれ歌」同様西行最晩年の作と考えられる。「地獄絵」というのは、浄土信仰の普及に伴って、極楽浄土の素晴らしさを強調するための反面教師のようなものとして、描かれたもののようで、その背後には源信の「往生要集」の影響を見ることが出来る。西行は往生要集を読んでいただろうから、そこでの記述にあらわれた地獄の様子を思い描きながら、地獄絵を見たと思われる。

たはぶれ歌:西行を読む

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「聞書集」に、「嵯峨に住みけるに、戯れ歌とて人々よみけるを」という詞書を添えて十三首の歌が載せられている。子どもの遊びを詠ったもので、年老いた西行の子どもに寄せる視線が新鮮に感じられるものだ。今日の我々にもストレートに訴えかけるものがある。寂聴尼は、西行が二度目の陸奥への旅から帰り、最後の住処としての弘川寺に移るまでのある時期に嵯峨に住んだと推測しているが、西行最晩年の作に違いないと思われる。

雨月:西行伝説

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前回紹介した「江口」や、その前の「西行桜」のほかに、能には西行をフィーチャーした作品が結構多くある。それほど西行は、物語の世界と馴染むところがあると、日本人がとらえていたことの一つのあらわれだろうと思う。「雨月」も、西行の旅の僧としての漂泊性を強調した作品で、その点では「江口」と似ているところがあるが、こちらは作者が金春善竹ということもあって、観阿弥の「江口」とは、やはり異なった雰囲気をかもし出している。善竹はひたすら幽玄に拘った人で、その点ではリアルな現実を重視した観阿弥とはちがう。その違いが、「江口」と「雨月」の作風の違いにも反映している。「江口」のほうは西行と遊女との機知に富んだ歌のやりとりを強調しているのに対して、「雨月」のほうは、住吉大明神を登場させたりして、かなり幽玄の趣に拘っている。

江口の君:西行伝説

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能に「江口」と題する一曲がある。観阿弥の作である。西行法師と江口の里の遊女のやりとりをテーマにしたものだ。諸国一見の僧が天王寺へ参る途中江口の里を通りがかり、土地のものに江口の君の旧跡を訪ねる。昔そこを西行法師が通りがかった際に、遊女に一夜の宿りを求めて断られた。そこで「世の中をいとふまでこそかたからめ仮のやどりを惜しむ君かな」と歌を詠んだことなど思い起こし、それを口ずさんだところ、いづくからともなく一人の女が現れ、それは断ったのではなく、出家の身をはばかって遠慮したのだといい、自分こそはその江口の遊女の幽霊なのだといって消える。その話を聞いた僧が、よもすがら読経していると、江口の君が遊女たちとともに舟に乗って現れ、自分らの身の上をひとしきり語った後で、その姿は普賢菩薩となり、舟が白象となって、西の空へ消えてゆくというものである。

笑われる西行:西行伝説

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西行には、たてだてしさや奇怪でいかがわしい側面と並んで、人から笑われるようなおどけた一面もあった、と高橋英夫は指摘する。高橋は、柳田国男を引用しながら、日本全国に西行をめぐる伝説が流布し、それらの多くで西行が地元の人に笑われたり、自分の高慢振りを批判されて閉口する話が出てくると言う。それらの話を引用しながら、西行がこのように多くの土地の伝説に出てくるようになったのは、西行が放浪の旅の人だったこととかかわりがあるとほのめかしている。

西行の反魂術:西行伝説

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高橋英夫は、西行の武士としてのたてだてしさを指摘した後、西行の得体の知れない奇怪さにも触れ、その一例として、撰集抄の一節を紹介している。第十五話「西行於高野奥造人事」である。

文覚と西行:西行伝説

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西行は、武士として生まれ、若くして出家したこと、出家後仏道のみでなく神道や修験道にも深くかかわったこと、東は陸奥西は九州にいたるまで日本中を歩き回ったこと、多くの恋の歌に見られるように多感なところがあったことなど、さまざまなことが作用して多くの伝説が生まれた。ここではそうした伝説のいくつかをとりあげて、西行の意外な面について見ておこう。

入寂:西行を読む

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文治六年(1190)二月十六日、西行は入寂した。その前後の様子を記したものとしては、藤原俊成の「俊成家集」がある。
「円位聖が歌どもを、伊勢内宮の歌合とて判受け侍りし後、また同じ外宮の歌合とて、思ふ心あり、新少将に必ず判して、と申しければ、印付けて侍りけるほどに、その年去文治五年河内の弘川といふ寺にて、わずらふ事ありと聞きて、急ぎつかはしたりければ、限りなく喜びつかはして後、少しよろしくなりて、年の終の頃、京に上りたり、と申ししほどに、二月十六日になむ隠れ侍りける。かの上人桜の歌を多くよみける中に、
  願はくは花の下にて春死なむその如月の望月の頃
かくよみたりしを、をかしく見給へしほどに、つひに如月十六日望月終り遂げけること、いとあはれにありがたく覚えて、物に書きつけ侍る
  願ひ置きし花の下にて終りけり蓮の上もたがはざるらむ

宮河歌合:西行を読む

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西行が藤原定家に「宮河歌合」の判を乞うたのは、「御裳濯川歌合」の判を俊成に乞うとのとほぼ同じ時期のことと思われる。俊成は西行より年上で、自分の寿命を考慮したか、すぐに判を加えて送り返してきたが、定家のほうは二年以上たってやっと送ってきた。遅れた理由を定家は、歌合三十六番の判に添えたあとがきのようなものの中で、次のように書いている。

御裳濯川歌合:西行を読む

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最晩年の西行は、二つの自歌合集を作った。「御裳濯川歌合」と「宮河歌合」である。「御裳濯川歌合」は、文治三年(1187)に藤原俊成の加判を得て完成した。「宮河歌合」はそれより二年後の文治五年に藤原定家の加判を得て完成した。どちらも同じ頃に加判を依頼したらしいが、俊成はすぐさま返してくれたのに対して、定家のほうはなにかの事情で手間取ったらしい。文治五年といえば、西行の死の前年だが、西行は定家の加判を大いに喜んだと伝えられている。

頼朝との邂逅:西行を読む

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二度目の陸奥への旅の途中、西行は鎌倉で頼朝と会った。西行自身はこのときのことを何も書き残していないが、吾妻鏡はその折の様子を比較的詳しく記録している。

文治二年(1186)、西行は伊勢を出て、二度目の陸奥への旅をした。旅の目的は、治承四年に平氏が奈良の諸寺を焼き討ちしたときに焼かれた東大寺の再建のために、砂金の勧進をすることだった。東大寺の重源上人が伊勢神宮へ参拝に赴いたとき、奥州平泉の藤原氏と縁のある西行に、砂金の勧請を依頼したのであった。これに西行は応えた。その時西行はすでに六十九歳になっていた。当時としては大変な高齢である。無事にたどりつけるかどうかもわからない。西行にとっては大きな決断だったと思われる。

源平争乱:西行を読む

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西行が高野山を下りて伊勢へ移った治承四年(1180)は、全国的な動乱の始まりを予感させた。六月には以仁王が兵士打倒に立ち上がって宇治平等院で敗死、八月には頼朝が伊豆で挙兵、九月には義仲が木曽で挙兵、十一月には宇治川で平氏が敗退といった具合で、戦乱が一挙に広がる一方、つむじ風や飢饉が人々を襲った。世の中がひっくり返りそうな予感が、西行を含め人々の心をとらえたのである。そんな予感に駆られるように、西行は高野山を去った。奈良では東大寺を初め大寺院が平氏によって焼かれる事態も起っており、高野山も決して無事にはすまないかも知れぬ、そうした不安が西行を駆り立てた、ということもあるだろう。

伊勢への移住:西行を読む

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治承四年(1180)、晩年の西行は高野山を引き払って伊勢へ移住した。動機はくわしくわかっていないが、恐らく源平争乱が本格化したことが背景にあると思われる。その年の夏には頼朝が挙兵し、戦雲が都にせまる気配を見せ始めていた。清盛と親しかったらしい西行は、別に平家に肩入れするでもなく、騒乱に巻き込まれることを恐れたのではないか。

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