古典を読む

「西行物語」は、西行が隠者と出会った話を語っている。この隠者は、九十歳を超えた老人で、武蔵野の人里離れた原野に庵を結び、そこで読経三昧の生き方をしているように見えた。西行がその素性を聞くと、自分はもと郁芳門院に仕えていた侍だったが、女院の死後出家して諸国を修行して歩くうち、ここ武蔵野の野が仏道修行の隠れ家に便ありと聞いて、ここに庵を結んで、以来六十余年の間読誦して過ごした、その数は七万四部だ、と答えた。西行も郁芳門院とは縁があったので、互いに語り合って夜を過ごした、というような話である。

陸奥への旅(二)富士の煙:西行を読む

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清見潟を過ぎると、やがて左手に富士が見えてくる。「西行物語」は、業平の歌「時しらぬ山は富士の嶺いつとてか鹿の子まだらに雪の降るらむ」に言及しながら、富士の威容を叙述する。「遥かに富士の高嶺を見上ぐれば、折知り顔の煙立ちのぼり、山の半ばは雲に隠れ、麓に湖水をたたへ、南には効原あり、前には蒼海漫々として、釣漁の助けに便りあり」

陸奥への旅(一)清見潟:西行を読む

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西行は、生涯に二度陸奥への大きな旅をしているが、最初の旅は、天養元年(1144)数え年二十七の年のことだった。その二年前には、待賢門院の落飾を記念して法華経の書写を有力者に勧めて歩いたことが藤原頼長の日記に見える。それにひと区切りついたことで、修行を更に深める為に、陸奥への大旅行を試みたというふうに映るが、この旅にはもう一つの動機が隠されていたようである。それは能院法師の跡をたどるというものだった。旅の僧として知られる能院法師は、陸奥に大きな旅をして、各地の風景に接しては歌を読んだ。その境地を自分もまた味わって見たい、そうした動機が働いて、陸奥への旅を決意したことは十分にありうる。

二見が浦:西行を読む

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「西行物語」は、西行は伊勢参拝の折に二見が浦に庵を結んだと書いている。二見が浦というのは、五十鈴川が流れこむ付近の海岸であり、伊勢神宮とは近かった。海上に夫婦岩があることで有名である。そこに西行は庵を結んだというのだが、西行がそこに庵を結んだのは、最初の伊勢参拝のときではなく、晩年に近い頃のことだったというのが、今日の通説のようである。

伊勢神宮に参る:西行を読む

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西行はたびたび伊勢神宮に参拝しているが、その最初のものは出家後間もない頃のことだったと思われる。山家集の次の歌が、その折の気持を歌ったものだと考えられる。
「世を遁れて伊勢の方にまかるけるに、鈴鹿山にて
  鈴鹿山憂き世をよそに振り捨てていかになり行くわが身なるらん(山728)

出家後の西行:西行を読む

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「西行物語」は、西山で出家した西行はそのまま西山に滞在し、その後しばらくして伊勢に移ったとしているが、「山家集」などの記述によると、鞍馬山とか東山、嵯峨などを転々としていたようである。西行が出家後も都にとどまったのは、都に愛する女性、すなわち待賢門院がいたからだろう、と瀬戸内寂聴尼は推測している。

西行の出家二:西行を読む

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徳川美術館蔵の「西行物語絵巻」は、出家を決意した西行が、自分に取りすがろうとする幼い女子を縁側から蹴落とす場面から始まる。その部分の詞書は次のとおりである。

西行の出家(一):西行を読む

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西行の若い頃のことはあまりわかっていないが、数え年二十三歳で出家したということは、藤原頼長の日記「台記」に言及がある。以下、その部分(永治二年三月十五日)を引用する。

阿漕:西行を読む

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世阿弥の作と伝えられる能に「阿漕」という作品がある。伊勢の阿漕が浦に伝わる伝説を取り上げたものだ。阿漕とはその地の漁師の名であったが、その男が、伊勢神宮にお膳を供えるために一般の漁が禁止されていた海でたびたび漁をした。それが発覚してお咎めをこうむり、この海に沈められてしまった。それ以来このあたりの海を阿漕が浦と呼ぶようになったという話である。それが何故か、早い時期から西行の伝説と結びついた。阿漕はすこしならばれないと思ってやっていたところ、それが度重なったために発覚してしまったのだが、それと同じように、西行も思い人にたびたび懸想したために片恋がばれてしまった、というふうに伝わるようになったわけである。

西行の同性愛:西行を読む

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西行には、同性愛を疑わせる歌がある。たとえば、 
  こととなく君恋ひわたる橋の上にあらそふ物は月の影のみ(山1157)
この歌には次のような詞書が付されている。「高野の奥の院の橋の上にて、月明かりければ、もろともにながめあかして、その頃西住上人、京へ出でにけり、その夜の月忘れがたくて、又同じ橋の月の頃、西住上人のもとへ言ひつかわしける」

西行の恋(三):西行を読む

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山家集の雑の部には、「恋百十首」と題した一連の歌が収められている。西行は何故、恋の部ではなく雑の部に、このような大量の恋の歌を収めたのか。その手がかりを掴むには、恋の部の歌と雑の部の恋の歌とを丁寧に読み比べるくらいしかないと思うのだが、それにしても両者の間にそんなに明瞭な違いがあるようにも思えない。そんななかで一つ、気になるところがある。それは、男が女を思って歌ったというよりも、女の立場から恋の思いを歌ったと思われるようなものが雑の部の恋の歌には見られるという点だ。たとえば、
  待かねて一人は臥せど敷妙の枕並ぶるあらましぞする(山1284)

西行の恋(二):西行を読む

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山家集の恋の部は、月に寄せて恋を歌った一連の歌のあとに、単に恋と題した歌五十九首を載せている。月は愛する人の隠喩だったからこそ、恋の部の歌の多くを、月を歌ったものが占めたわけだが、恋はなにも月を連想させるだけではない。ほかのものを通じても恋は連想されるわけだし、恋の感情そのものをストレートに歌ってもよい。そんなふうに思わせる歌が、月に続いて収められたわけであろう。ここではその中からいくつかを取り出して鑑賞したい。

西行の恋(一):西行を読む

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西行は生涯に三百首を超える恋の歌を作ったが、それらがどんな人に向けられていたのか、特定の一人の女性か、あるいは時に触れ愛した何人かの女性か、ほとんどわかっていない。有力な説としては、西行が生涯に愛した女性はただ一人、それは待賢門院璋子だとするものがあるが、確証があるわけではない。待賢門院が徳大寺家の出で、徳大寺家に仕えていた西行とは深いつながりがあったはずだ、というのがその主な根拠で、また、待賢門院の子である崇徳院に西行が異常な忠義を尽くしていることを傍証にしているものが多いが、それとても西行と待賢門院との結びつきを愛の観点から説明するには苦しい。第一待賢門院は西行より十七歳も年上だ。十七歳という年の差は、西行の時代には母子のそれに相当する。そんな女性に西行が生涯をかけて恋い慕ったとするには、不自然なところも多い。だが、西行が待賢門院と深くかかわっていたことだけは事実のようだ。

恋の歌:西行を読む

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山家集は四季それぞれの部に続いて恋の部があり、最後にそのほかのものをまとめて雑の部としている。恋の部には百三十四首の歌が収められているが、西行は他にも恋の歌を多く歌っており、その数は三百首以上になる。僧の身である西行がなぜかくも恋にこだわり、しかも恋の歌を異常ともいえるほど数多く読んだのは、いったいどんな事情に駈られてか、後世の注意を引き続けたところである。西行は隠遁者として世の無常を歌ったというイメージが強いが、実際には恋多き煩悩の人でもあったわけである。

雪:西行を読む

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冬の景物といえばやはり雪ということになる。古今集の冬の部は大部分が雪の歌である。山家集の冬の部には八十七首中二十数首雪を歌った歌が収められている。雪は隠遁生活に慣れていた西行にとっては、隠遁の趣を更に深めるものでもあり、良きにつけ悪しきにつけ、深い感慨をもたらすものだった。

冬の歌:山家集を読む

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山家集の冬の部には八十七首の歌が収められており、夏の部の八十首より多い。古今集では、冬の部はわずか二十九首で夏の部の三十四首より少なく、また万葉集では冬の歌は非常に少ないことに比べると、西行は比較的冬に感じることがあったといえなくもない。

もみじ:西行を読む

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もみじは秋におきる現象であるから、和歌の伝統においても秋と深く結びつけて歌われてきた。今日もみじといえば、楓の紅葉を代表として葉が赤く色づく紅葉が思い浮かぶが、万葉集の時代には、葉が黄色く色づく黄葉のほうが注目されたようだ。万葉集の歌の大部分は、この「黄葉」を歌っており、万葉仮名にも「もみじ」に「黄葉」という漢字を当てている。たとえば次の歌、
  秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも(万0208)
これは万葉仮名では、「秋山之黄葉乎茂迷流妹乎将求山道不知母」であり、もみじの部分に「黄葉」の字があてられている。

月:西行を読む

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日本の詩歌の歴史において月が秋と深く結びつくのは平安時代後半以降のことだ。中国での観月の風習、これは旧暦八月の十五日に行われたが、その風習が平安時代の半ばに入ってきたことが、秋と月を結びつけるきっかけになった。日本人は九月の十三夜にも観月をするようになったので、月と秋の結びつきがいよいよ強まったわけである。

鳥獣:西行を読む

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秋にゆかりのある鳥獣といえば雁と鹿があげられる。万葉の時代以来この二つは好んで歌われてきたし、山家集の秋の部にも鳥獣の代表として取り上げられている。面白いことにこの二つとも、姿よりも声に関心が向けられている。初雁の声は秋の到来を知らせるものとして、鹿の声は配偶者を求める求愛の徴として捉えられている。

秋の草花:西行を読む

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古代の日本人は、秋の花の中でも萩の花をとりわけ愛したようで、万葉集には萩の花を歌った歌が百四十二首もある。花を歌った歌の中では最も多い。萩は草花ということもあり、梢に高く咲く梅や桜の花に比べて地味ではあるが、草の茎に沿って小さな花が密集するので、遠目にも目立つ。そんなことから秋の花の代表として、歌にも多く歌われたのだろう。

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