古典を読む

万葉集巻九秋の相聞の部には、一人の尼を中心にして、面白い歌のやりとりが収められている。発端は、この尼に或る者が歌を二首贈り、相聞の気持を表わした。それに対して尼のほうでは、礼儀作法に従って歌を返そうとしたが、自分で一首の歌を完成させることができず、上の句だけを作って、下の句を大伴家持につけてくれるようにねだった。そこで家持が下の句をつけてやったはいいが、これがなんとも意味をはかりかねるしろものだというので、古来万葉学者たちを悩ませてきた。だが、二人で一首を作ったというのが、連歌の始まりだとして、歴史的な意義が大きいとされるものだ。

万葉集巻八は、四季の歌を集めており、季節ごとに雑歌と相聞とに分類されている。相聞の部は、いうまでもなく男女の恋をテーマにしたもので、いつくかの男女の間に交わされた歌が主に収められている。ここではその中から、男女の恋のやりとりをめぐる洒落た歌を鑑賞してみたい。

湯原王は志貴皇子の子、天智天皇の孫である。その人が一人の女性(娘子という)と交わした一連の歌が万葉集巻四に収められている。その女性が誰なのか、詳しいことはわかっていない。わかっているのは、妻を持つ身の湯原王が、若い女性に言い寄り、それを女性が心憎からず思っていたらしいことだ。この二人の交わした歌の数々を読むと、万葉時代の男女のあり方の一端が見えてくる気がする。

笠金村は聖武朝時代の宮廷歌人として貴人の挽歌を詠む一方、地方に出張した際に土地の伝説を題材にした歌を作ったりして、けっこう幅広く活躍した。万葉集には彼の歌が、あわせて四十五首収められている。その中で、架空の娘の立場に立って、天皇の行幸に従って旅する恋人への思いを述べた歌がある。

石川郎女、笠女郎、紀女郎、そして大伴坂上郎女といった具合に、万葉集には自分の恋心を高らかにうたった女性たちの歌が多く収録されている。それらについては、別稿でそれぞれ鑑賞したところなので、ここではややマイナーな存在の女性たちの歌を取り上げたい。阿倍女郎と高田女王だ。

万葉の時代には異母兄妹間の恋はタブーではなかった。当時の子どもは母親のもとで育てられたので、母親が違えば互いに会うこともなく、他人同士だったという事情も働いただろうが、天皇家からして異母兄弟婚が盛んだったので、世間でもタブー視されなかったと思われる。ただ、同母兄妹間の恋はさすがに強く忌避されていた。天智天皇と間人皇女とは同母兄妹間で恋をしあった例として有名だ。天智天皇の即位が異常に遅れたのは、このことが影響したのだと推測されている。

万葉集巻二は、相聞と挽歌からなっている。相聞の部は、さまざまな男女の間に交された恋の歌を収めているが、まず眼を引くのは鏡王女をめぐる相聞歌である。鏡王女は、額田王の姉で、藤原鎌足の妻となり、不比等を生んだ女性だ。妹の額田王同様に、歌の才能に恵まれていた。その彼女がまだ若い頃、鎌足の妻になる前に、天智天皇から思いを寄せられていたらしい。巻二にはそんな思いを感じさせる歌が収められている。

万葉集には恋の歌が多い。それは、万葉の時代の人々が恋多き人だったことの反映のようなものである。つまり日本人は、大昔から恋心が豊かな人種だったわけである。なぜ万葉人はそんなに恋にこだわったのか。一つには、万葉人が本質的に色好みだったという事情もあろう。しかしそれ以上に重要なのは、万葉時代の男女のあり方である。万葉時代の婚姻形態は、妻訪婚といって、男が女の家に赴いて、一夜を一緒に過ごすという形が基本であった。これは、もっと昔の古代社会における家族関係の基本が女系家族だったことの名残と思われる。いづれにしても万葉の時代の男女は、いまの時代の男女のように、一軒の家で共同生活を営んでいたわけではなかったのである。そんなわけであるから、男女関係を強固なものに維持する為に、絶え間のないコミュニケーションが必要となった。歌はこのコミュニケーションのメディアとして発達したのである。

万葉集には、梅の花を詠った歌が百十九首あるが、そのうち三分の一ほどが冬梅を詠ったものである。その冬梅は、白い花を咲かすので、雪が積もったさまに似ていた。そこで冬梅の歌は、雪と一緒に詠われることが多かった。次は、大伴旅人のものと思われる歌二首。
  残りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも(849)
  雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも(850)
一首目は、残雪と共に咲いている梅の花は、雪が消えたあとまで咲き残っていて欲しいという趣旨で、二首目は、梅の花が雪の色を凌いで咲き誇っている、その花の盛りを一緒に見る人がいればよいのに、という趣旨である。どちらも、雪と梅とをライバル同士に見立てている。

万葉集には、雪を詠んだ歌が百五十首以上もある。それらが、冬の季節感を詠んだ歌の大部分を占める。日本人は、雪について、かなりきめ細かい感性を持って接していたといえるが、そのことは雪を表現する言葉の多様さにも現われている。淡雪、沫雪、深雪、初雪、白雪、はだれ雪、などといった言葉がそれである。

万葉集の中で、冬を詠った歌といえば、圧倒的に雪を詠んだものが多い。それとあわせて、冬のうちに咲く梅を詠んだものがある。梅は、いまでは初春の風物として受け取られているが、旧暦では、今の正月にあたる時節はまだ冬なので、その頃に咲く梅が冬の風物として受け取られた。万葉の時代の梅は、白梅だったことから、それが咲くさまが、枝に積もった雪と似ていた。そこで、万葉の歌では、梅と雪とを関連付けて詠った歌が多い。

新古今集以来、雨といえば五月雨がまずイメージされ、したがって夏の季節感と強く結びついて今日に至っているが、万葉集には五月雨を詠った歌がひとつもない。梅雨らしきものを詠った歌はあるが、そういう場合には、「卯の花を腐す長雨」という具合に、否定的なイメージを持たされたものだ。万葉人が好んで、しかも肯定的なイメージで、詠ったものは、春の雨である春雨と、秋の雨である時雨や村雨である。秋の雨は、葉を色づかせるものとして詠われる場合が多い。

中秋の名月という言葉があるとおり、秋の月見の風習が我々現代人にはあるが、万葉時代にはまだ月見の風習はなかった。月見の風習が中国から日本に伝わったのは、平安時代に入ってからのことだ。それゆえ、万葉集には、中秋の名月をことさらに詠ったものはないし、月が専ら秋と結びつくということもなかった。万葉集には月を詠んだ歌が多いが、それらは、季節を問わず、また満月に限られていない。そんなわけだから、ここでは、特に秋の季節感との結びつきにこだわらず、月を詠んだ歌を鑑賞したい。

秋風は、秋の到来を秘かにつげるものとして、非常に季節感を感じさせるものなので、このサイトでも、秋の歌の総論で秋風を話題にしたところだ。秋風はその他に、色々な情緒と結びついている。もっとも著しいのは、秋風の寒さが、人を待つ身の切なさと結びついたものだ。次の歌は、その典型的なものだ。
  今よりは秋風寒く吹きなむをいかにかひとり長き夜を寝む(462)
これからは、秋風がいよいよ寒く吹く季節になるが、そんな秋の長い夜を、一人で過ごすのはつらいことだ、というような趣旨だ。これは、大伴家持が、妾を失ったときに、その悲しみを詠ったものとされる。妾を失った悲しみを、一人寝の寂しさで表わすとは、いかにも家持らしい。

万葉集巻八秋雑歌に収められた一連の七夕の歌は、柿本人麿歌集所載のものに続いて、作者未詳のものが並ぶ、そのいくつかを紹介する。まず、次の歌。
  天の川霧立ちわたり彦星の楫の音聞こゆ夜の更けゆけば(2044)
天の川には霧が立ち込め、その中から彦星の楫をこぐ音が聞こえる、夜が更けたからだ、というもの。七月七日の夜が更けて、いよいよ彦星が織姫星にあうために、楫をこいで天の川を渡るのだ、という予感のようなものを詠ったもの。非常に素直でよい歌だ。

万葉集には、七夕を詠んだ歌が百三十首以上収められている。当時の日本人に、七夕が親しまれていたことをうかがわせるが、実は七夕は、日本固有の行事ではなく、中国から伝わってきたものだ。それが日本にいち早く定着した背景には、日本の婚姻制度の特徴が働いていた。日本の古代における婚姻制度は、妻問婚といって、男が女の家に通うという形態をとっていた。そうした婚姻制度があるところに、一年に一度男女が天の川で出会うという中国の伝説が入ってきたために、この伝説が日本固有の妻問婚を想起させて、いちはやく普及したのだと考えられる。

日本人ほど虫の鳴き声に敏感な民族はいないだろうと言われている。微妙な声を聞き分けて、その鳴き声の主である虫の種類も細かく分類し、それぞれ相応しい名を与えている。松虫、鈴虫、鍬形虫といった具合に。ところが万葉の時代には、虫は一喝して「こほろぎ」と呼ばれた。いまでも「こおろぎ」という名の虫はいるが、それに限らず、キリギリスも松虫も鈴虫もみな一様にこほろぎと呼ばれた。ということは、万葉の時代の日本人は、現代人ほど虫の声に敏感ではなかったということか。実際に万葉集には、秋の虫を詠った歌が十首にも満たない数があるばかりなので、あるいはそうかもしれない。

雁は、鴨の仲間と同じく秋にやってきて一冬を過ごす。それゆえ秋を告げる鳥として詠われることが多い。雁は飛びながらも妻を呼ぶ声をあげることから、鹿同様に妻問いのイメージと結びついている。雁の別名を「かりがね」というが、これは雁の鳴き声という意味である。その泣き声が雁全体を現すようになったわけで、換喩の代表的な事例といってよい。

鹿は、秋が繁殖期にあたり、その時期には交尾する相手を求めて鳴く声が聞こえてくる。そんなことから、恋が好きな万葉の人々も親しみを感じたのだろう。万葉集には鹿を詠んだ歌が六十八首収められているが、その殆どは、相手を求めて鳴く鹿を詠んだものだ。鹿を詠んだ歌の代表と言えば、次の歌がまず思い浮かぶ。
   夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも(1511)
夕方になるといつも鳴く小倉山の鹿が今夜は鳴かない、寝てしまったのだろうか、という趣旨。おそらく鹿が妻を得て一緒に寝てしまったのだろうという思いだろうと解釈される。これは舒明天皇御製歌となっているが、巻九には「夕されば小倉の山に臥す鹿の今夜は鳴かず寐ねにけらしも」(1511)という歌が雄略天皇御製歌として載っている。語句がほとんど同じだが、おそらく舒明天皇御製歌が本歌で、雄略天皇御製歌とされるものは、後世の模倣だろうという意味のことを、斎藤茂吉は言っている。茂吉はこの歌を万葉集中最高峰の一つだと評価している。

我々現代人にとってもみじといえば、赤く色づく紅葉が思い浮かぶが、万葉時代の日本人は、黄色く色づく黄葉のほうを愛でた。万葉集にはもみじを詠った歌が百首以上収められているが、それらがもみじという言葉を使うときには、ほぼ例外なく黄葉と表記されている。万葉人が何故、ことさら黄葉を愛でたのか、その理由はよくわからない。万葉時代にも、かえでやはぜの木など、紅葉するものもあったはずだ。その赤い紅葉よりも黄色い黄葉をことさら愛でたについては、民俗学的な背景があるのかもしれない。

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