古典を読む

経正都落:平家物語巻第七

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(平家物語絵巻から 経正都落)

都落する平家の一門の中で、忠度とならんで風流を感じさせるものは経盛の長男経正である。忠度が和歌の道を志したのに対して、経正は音楽の名手だった。経正は幼少の頃から、仁和寺の御室(後白河法皇の皇子守覚法親王)に親しく愛されていた。そこで、都落ちするにあたり、仁和寺に立ち寄って御室に別れの挨拶をする傍ら、青山という琵琶の名器を託した。

忠度都落:平家物語巻第七

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木曽義仲に全面的に敗退した平家は、義仲が京都に迫るのを前に大混乱に陥り、宗盛を筆頭に、安徳天皇を擁して都落ちすることとなった。当面落ち行く先は西国である。平家は、人質代わりに後白河法皇も連れてゆこうとしたが、法皇はその動きを事前に察知し、鞍馬寺に逃れた。平家は京都を去るに当たって、一門や家来たちの宿所のほか京白河辺の民家数万戸にも火をかけ焼き払った。

実盛:平家物語巻第七

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倶利伽羅峠で敗走した平家は、体勢を立て直して、加賀の篠原で再び義仲軍と対戦する。しかし平家は、四万の軍を動員したにかかわらず、一方的に破れ、敗戦後鎧を着けていたものはわずか四・五騎という惨憺たる有様だった。そんな平家軍のなかに只一人、異彩を放った武将がいた。斎藤別当実盛である。実盛は七十歳を超える老人であったにもかかわらず、白髪を染めて、若い者に混じって戦った。その勇猛な戦いぶりを、平家物語は同情を込めて語っている。

倶利迦羅落:平家物語巻第七

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(平家物語絵巻から 倶利迦羅落)

義経以前に源氏側の戦上手として登場した義仲の、最初の桧舞台となるのが倶利迦羅峠の戦いである。平家が義仲追討のために遣わした七万の大軍と、越中・加賀の国境倶利迦羅峠であいまみゆる事態となった義仲は、数の不利を知略で補って、みごと平家軍を撃退する。

祇園女御:平家物語巻第六

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清盛の死にからめて、清盛をめぐる逸話がいくつか披露される。清盛の出生にまつわる巷説もそのひとつだ。「祇園女御」の章で語られるその巷説とは、清盛が忠盛の子ではなく、白河院の子だったと言うものだ。清盛があれほど順調に出世できたのは、清盛が天子の種だとすれば、おかしなことではない。そう言いながら、清盛の出生の秘密を、さも本当のことのように語るのである。

入道死去:平家物語巻第六

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(平家物語絵巻から 入道死去)

平家物語巻第六「入道死去」の章は、清盛の壮絶な最後を劇的な調子で語る。清盛は、宗盛を総大将とする平家軍が東国に向けて出陣する直前に、にわかに熱病にかかり、床に就いた。熱は尋常ならず、四五間以内に近づいただけで耐え難い暑さを感じ、水風呂に入れればたちまち沸騰する有様。もはや助かるまいと思われた。それを知った都の人々は、「それみたことか」とささやきあったが、それは清盛がいかに人徳に欠けていたかを物語る風景であった。

廻文:平家物語巻第六

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頼朝の挙兵に続いて、木曽義仲の動向が語られる。義仲は、頼朝とは従弟の関係にあり、父親の義賢が兄の悪源太義平に殺された後、木曽の山中で豪族に育てられていた。頼朝の挙兵を聞き及んで、自分も信濃から呼応し、平家を滅ぼした上で、頼朝とともに二人将軍になりたいという夢を持つに至る。

小督:平家物語巻第六

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(平家物語絵巻から 小督)

「小督」の章は、能の人気曲にもなっており、また黒田節の一節にも取り入れられているとおり、人々にとりわけ親しまれてきた部分だ。これだけでも独立した物語になるのであるが、平家物語の流れのなかでは、高倉天皇をめぐる一連の逸話の一つとして語られる。また、清盛の横暴を示す一例としての意義もある。

富士川:平家物語巻第五

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(平家物語絵巻より 富士川)

頼朝の挙兵に対して、平家は、惟盛を総司令官、忠度を副司令官とする追討軍を向けることとした。惟盛の出陣姿はあでやかに美しく、一方忠度は愛人と別れの歌を読み交した。このように表現することで、平家方の武将が、公家にかぶれて武士らしさを失っていることを揶揄しているのだろう。

福原院宣:平家物語巻第五

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伊豆国奈古屋に住み着いた文覚は、蛭が小島の頼朝を足繁く訪れては、平家打倒の説得をした。しかし頼朝がなかなか立ち上がろうとしないので、文覚は一計を労す。頼朝の父義朝の髑髏だというものを取り出して、父親の無念をすすぐ為にも平家打倒の謀反を起こすべきだと迫る。これには流石の頼朝も心を動かされる。

文覚被流:平家物語巻第五

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出家後、文覚は神護寺を再興するため、勧進帳を持って寄進を求め歩いた。そんな折、後白河法皇の御所たる法住寺殿に出かけ、宴会たけなわのところに現れると、大音声を張り上げて勧進帳を読み上げ、寄進を迫った。その声のために、折角の音曲も調子が狂ってしまったほどであった。

文覚荒行:平家物語巻第五

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(文覚上人画像 神護寺蔵)

頼朝が平家打倒に立ちあがったについては、文覚の影響が大であったとされる。文覚は、神護寺の再興を後白河法皇はじめ権力者たちに強訴したかどで伊豆に流されたが、そのときに、同じく流人の境遇で伊豆にいた頼朝と親しくなった。そこで、この二人の間に色々な伝説が生じたが、頼朝が文覚の説得によって平家打倒を決意したというのは、その最たるものである。

朝敵揃:平家物語巻五

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相模の大庭影親が、頼朝が謀反の挙兵をしたこと、舅の北条時宗とともに平家の代官を討ったこと、その後大庭の反撃によって石橋山で敗北、安房へ逃れたことなどを、早馬で知らせてきた。これを聞いた平家の人々の反応は様々だったが、清盛は、池の禅尼の懇願をいれて頼朝の命を救ってやったので、忘恩に憤った。

物怪の沙汰:平家物語巻第五

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(平家物語絵巻より 物怪)

福原に遷都した後、平家の人々の夢見が悪くなり、奇怪なことどもが続いた。なかでも清盛の身辺には、不可解なことが続いて起きた。だがさすがは豪胆な清盛、怪物変化に取り付かれても少しも騒がず、かえって睨み返して退散させるほどである。平家物語巻第五「物怪の沙汰」の章は、そんな清盛の豪胆ぶりについて語る。

月見:平家物語巻第五

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治承四年(1180)の六月、清盛は都を福原(今の神戸市)に移し、安徳天皇、高倉上皇、後白河法皇も福原に移し奉ったが、後白河法皇は引き続き幽閉した。この遷都について都の人々は、京の都は平家の祖先桓武天皇が造営したところで、すばらしい場所であるのに、平家はそこを捨てて荒れ果てさせてしまったと非難した。

鵺:平家物語巻第四

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敗軍の将源三位頼政は、武勇ならびなきは無論、歌道にも優れていた。そんな頼政が、武勇と歌の道とふたつとも発揮した場面を、平家物語は頼政敗死の後に記す。あたかも武将の功績をたたえるかのように。

橋合戦:平家物語巻第四

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(平家物語絵巻から 橋合戦)

高倉の宮及び宮を守る頼政以下の部隊が、奈良へ向かう途中宇治の平等院で休息した。そこへ平家が追っ手をかけて、迫ってくる。宮側は、宇治川にかかった橋の一部を破壊したりして、平家方を向こう岸に釘付けにしようとするが、平家は平家で、なんとかして河を渡って対岸に進出し、一気に宮方の部隊を殲滅しようとする。

競:平家物語巻第四

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(平家物語絵巻から 競)

嫡男重盛の死後諌めるもののいなくなった清盛はますます横暴になり、ついには後白河法皇を幽閉するという暴挙に出た。そんな清盛に対して、公家をはじめさまざまな方面から反発の動きが出てくる。後白河法皇の第二皇子高倉の宮が平家打倒に立ち上がったのは、そうした動きを代表するものだ。

有王:平家物語

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平家物語巻第三「有王」の章は、鬼界が島に一人取り残された俊寛の後日譚である。俊寛がかつて召し使っていた有王という童が、鬼界が島に流された三人のうち二人が許されて戻ってきたのに、我が主人俊寛がいまだ島に取り残されたままだと知り、意を決して会いに行く。会いに行ったとて、展望が開ける見込みもないのだが、会わずにはいられないのである。そこで、俊寛の娘から手紙をことづかり、それを大事に持って鬼界が島に向かう。

足摺:平家物語巻第三

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(平家物語絵巻から 足摺)

成親の子成経及び康頼、俊寛の三人は薩摩の沖の絶島鬼界が島に流される。成経と康頼は、島に熊野権現を勧請して帰京を祈ったが、不信心な俊寛はその祈りに加わらなかった。康頼は熊野権現に祈りを捧げる一方、自分の思いを書き付けた卒塔婆を千本も海に流した。その一本が安芸の厳島神社に流れ着いたのだったが、それには康頼の望郷の思いを込めた切ない歌が書かれていた。

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