古典を読む

冬の景物といえばやはり雪ということになる。古今集の冬の部は大部分が雪の歌である。山家集の冬の部には八十七首中二十数首雪を歌った歌が収められている。雪は隠遁生活に慣れていた西行にとっては、隠遁の趣を更に深めるものでもあり、良きにつけ悪しきにつけ、深い感慨をもたらすものだった。

山家集の冬の部には八十七首の歌が収められており、夏の部の八十首より多い。古今集では、冬の部はわずか二十九首で夏の部の三十四首より少なく、また万葉集では冬の歌は非常に少ないことに比べると、西行は比較的冬に感じることがあったといえなくもない。

もみじは秋におきる現象であるから、和歌の伝統においても秋と深く結びつけて歌われてきた。今日もみじといえば、楓の紅葉を代表として葉が赤く色づく紅葉が思い浮かぶが、万葉集の時代には、葉が黄色く色づく黄葉のほうが注目されたようだ。万葉集の歌の大部分は、この「黄葉」を歌っており、万葉仮名にも「もみじ」に「黄葉」という漢字を当てている。たとえば次の歌、
  秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも(万0208)
これは万葉仮名では、「秋山之黄葉乎茂迷流妹乎将求山道不知母」であり、もみじの部分に「黄葉」の字があてられている。

日本の詩歌の歴史において月が秋と深く結びつくのは平安時代後半以降のことだ。中国での観月の風習、これは旧暦八月の十五日に行われたが、その風習が平安時代の半ばに入ってきたことが、秋と月を結びつけるきっかけになった。日本人は九月の十三夜にも観月をするようになったので、月と秋の結びつきがいよいよ強まったわけである。

秋にゆかりのある鳥獣といえば雁と鹿があげられる。万葉の時代以来この二つは好んで歌われてきたし、山家集の秋の部にも鳥獣の代表として取り上げられている。面白いことにこの二つとも、姿よりも声に関心が向けられている。初雁の声は秋の到来を知らせるものとして、鹿の声は配偶者を求める求愛の徴として捉えられている。

古代の日本人は、秋の花の中でも萩の花をとりわけ愛したようで、万葉集には萩の花を歌った歌が百四十二首もある。花を歌った歌の中では最も多い。萩は草花ということもあり、梢に高く咲く梅や桜の花に比べて地味ではあるが、草の茎に沿って小さな花が密集するので、遠目にも目立つ。そんなことから秋の花の代表として、歌にも多く歌われたのだろう。

秋風と並んで秋の到来を感じさせるものに秋の虫がある。蝉の声がだんだん弱まってついに聞こえなくなる頃、それに代わって虫の声が聞こえ出す。それが秋の風の吹き始める頃にあたるので、あたかも秋風に乗って秋虫の声が聞こえてきたかの感じを抱かせる。

山家集の四季部の歌の中でも秋の部の歌は最も多く二百三十七首を数える。古今集も同じであって、四季の部あわせて三百四十二首のうち秋の歌が百四十五首をしめる。その古今集の秋の部の冒頭は、藤原敏行の有名な歌である。
  秋きぬとめにはさやかにみえねども風のをとにぞおどろかれぬる(古169)

山家集の夏の部は、ほととぎすについで五月雨を歌った歌が多い。この部だけを対象にざっと数えただけで二十四首ある。五月雨は夏のうっとうしさを代表するようなものなので、かららずしも情緒豊かなものではないが、捉え方によっては歌にもなると、少なくとも西行は考えたのであろう。

古今集の夏の部の歌は九割方ほととぎすを歌った歌が占めている。これは、ほととぎすが夏を代表するものとして人々に受け入れられていたことをあらわすと言えないでもないが、逆に、夏にはほととぎすくらいしか思い浮かばない、つまり夏にはあまり風情を感じない、ということを物語るとも受け取れる。

四季のうちでも夏は、長雨や耐え難い暑気のためにとかく敬遠され、歌に歌われることも少なかった。古今集では、秋の歌二百三十七首、春の歌百七十三首に対して夏の歌は八十首で、もっとも数が少ない。山家集でも、夏の歌は三十四首で、冬の歌の二十九首とともに数が少ない。日本人はやはり、春と秋を愛し、その時期に多くの歌を読んできたのである。

梅の花は万葉集でも萩の花と並んでもっとも多く歌われた花である。万葉集でただ花とあれば、それは梅の花をさすほどに人気のある花だった。ところが中世以降になると、花といえば桜をさすようになり、梅は花の王座を桜に譲る。これは日本人の美意識が変化した結果だと受け取るべきなのか。興味深いことではある。

世阿弥の能の傑作に「西行桜」がある。西行の次の歌、
  花見にとむれつつ人の来るのみぞあたらさくらの咎にはありける(山87)
この歌をモチーフにして変則の複式夢幻能に仕立てたものだ。変則というのは、普通複式夢幻能ではシテが前後両段に姿を変えて現れるのに、この能ではシテは桜の樹精となって後段にしか現れないからである。ともあれこの作品に世阿弥は大分自信があったようで、「後の世かかる能書くものやあるまじき」(申楽談義)と語っているほどだ。

  願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月の頃(山77)
これは西行の歌の中でもっとも有名なものの一つだ。生涯桜を愛した西行が、生涯の終わりにも桜を眺めながら死んでゆきたい、と歌ったものだと解釈されるのが普通で、西行の純粋な美意識がこもったものだと受け取られてきた。この歌に、単なる美意識を超えて、西行の浄土信仰が込められていると解釈したのは吉本隆明である(西行論)。

桜は咲くとすぐに散ってしまうものであるから、桜の花の散るさまを歌った歌は多い。万葉集から次の二首をあげてみよう。
  阿保山の桜の花は今日もかも散り乱るらん見る人なしに(1867)
  春雨はいたくなふりそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも(1870)
一首目は、阿保山の桜が見る人もなく散ってしまうのは惜しい、という気持を歌ったものであり、二首目は、桜が見る人もなく散るのは惜しいからあまり強く降らないでくれと春雨に呼びかけている。どちらも桜の花が人知れず散ってしまうのが惜しいという感情を歌ったもので、歌としては非常に素直なものだ。

桜といえば真っ先に吉野の名が出るほどに、吉野は桜の名所として知られる。吉野に桜が植えられたのは平安時代からだというので、西行の時代にはその最初のブームが訪れたものと思われる。その吉野の桜を西行はこよなく愛し、夥しい数の歌を読んでは、その感慨を吐露している。感慨の内容は、桜の視覚的な美しさを歌ったものよりも、それが見るものの心に訴えるものを表現したというものが多い。

花と言えば桜、というほどに、日本人にとって桜は特別な花である。だが神代の昔からそうだったかと言えば、必ずしもそうとは言えないようである。万葉集には多くの花が歌われているが、そのうち最も多いのは秋に咲く萩で百四十二首、その次は梅で百十九首が歌われている。これに対して桜は四十六首である。数が少ないだけではない、万葉集で単に花と言えば、梅をさすのが殆どである。ということは、万葉の時代までは、梅が最も日本人に愛された花であり、桜はそうでもなかったということになる。

西行自選の歌集「山家集」の構成は、春以下四季それぞれの部に始まり、恋の部、雑の部と続く。これは基本的には古今集の構成に従ったもので、古今集で賀、離別、羇旅、物名、哀傷、雑とあるものを雑の部としてまとめたものである。歌を四季以下こういう分類基準で構成するのはいわゆる八大集をはじめすべての勅撰和歌集に共通したものであり、歌というものについての日本人の向き合い方が反映されているといってよい。西行もまた、日本人のそうした姿勢に従ったということであろう。

 左内いよいよ興に乘じて、靈の議論きはめて炒なり、舊しき疑念も今夜に消じつくしぬ。試みにふたゝび問はん。今豊臣の戚風四海を靡し、五畿七道漸しづかなるに似たれども、亡國の義士彼此に潜み竄れ、或は大國の主に身を托せて世の変をうかゞひ、かねて志を遂げんと策る。民も又戰國の民なれば、耒を釈てて矛に易え、農事をことゝせず、士たるもの枕を高くして眠るべからず。今の躰にては長く不朽の政にもあらじ。誰か一統して民をやすきに居しめんや。又誰にか合し給はんや。

 翁いふ。君が問ひ玉ふは徃古より論じ尽さゞることわりなり。かの佛の御法を聞けば、富と貧しきは前生の脩否<よきあしき>によるとや。此はあらましなる教へぞかし。前生にありしときおのれをよく脩め、慈悲の心專らに、他人にもなさけふかく接はりし人の、その善報によりて、今此生に富貴の家にうまれきたり、おのがたからをたのみて他人にいきほひをふるひ、あらぬ狂言をいひのゝじり、あさましき夷こゝろをも見するは、前生の善心かくまでなりくだる事はいかなるむくひのなせるにや。佛菩薩は名聞利要を嫌み給ふとこそ聞つる物を、など貧福の事に係づらひ給ふべき。

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