古典を読む

維盛入水:平家物語巻第十

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平惟盛は、平家の嫡流として一門を代表すべき立場だったが、戦は苦手で戦場には立たなかった。一の谷で平家が大敗したことを聞くと、屋島を脱出して、三人の従者(重景、石童丸、武里)とともに高野山へ向かった。高野山には、かつての家臣で今は僧形となった滝口入道がいた。入道の導きで高野山に参拝し、出家をすると、入道を伴って熊野へ向かった。

千手:平家物語巻第十

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平重衡は生け捕りにされたが、それは彼の命と引き換えに三種の神器をとりもどそうという配慮からだった。後白河法皇はその旨を記した院宣を平家の一門に届けさせるが、一門では会議を開いた結果申し出を拒絶することとした。

知章最期:平家物語巻第九

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平知盛は生田の森の大将軍として、平家軍の正面を守り、最後まで踏みとどまっていたが、やがて味方は四散、息子の知章、侍の監物頼方と、合せて三騎だけになってしまった。そこで、平家の助け舟を求めて汀のほうへ向かったが、そこへ追っ手の集団が背後から迫ってきた。

敦盛最期:平家物語巻第九

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(平家物語絵巻から 敦盛最期)

忠度の最後と並んでひとしお哀れさを催させるのが敦盛の最後である。まだ数え年十七歳の敦盛が、海上を馬に乗って味方の船に向かう途中に、熊谷直実に呼びかけられて岸へと引き返し、直実によって首を掻き切られる。切ったほうの直実は、深い無常観に打たれて出家し、敦盛の菩提を弔うことに自分の半生を捧げたという話だが、これが日本人の心の琴線に触れたと見え、平家物語の中でも最も愛されるところとなった。能(敦盛、生田敦盛)や幸若舞(敦盛)に取り上げられたほか、浄瑠璃や歌舞伎(一谷嫩軍記)にもなった

忠度最期:平家物語巻第九

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一の谷の戦いでは、平家一門の多くが死んだり生け捕りにされたりした。その中で、死に様がとりわけ人々の涙を誘ったものとして、平家物語はいくつかの挿話を挟んでいる。「忠度最期」もその一つである。

坂落:平家物語巻第九

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(平家物語絵巻から 坂落)

一旦都落ちした平家は、九州で体勢を立て直し、讃岐の八島に進出して挽回を期していたが、その後、旧都福原付近の一の谷に城砦を築いて、源氏との戦いに挑んだ。その戦いの先頭に立ったのは能登の守教経で、六度にわたって源氏の軍を打ち破った。

木曾最期:平家物語巻第九

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(平家物語絵巻から 木曾最期)

宇治川の戦いの後、義経の軍勢は京へ入る。それを義仲が賀茂の河原に迎え撃とうとしたが、勢いのある義経の軍に義仲の軍はまたもや敗走、義仲はついに主従七騎となって戦場を離脱、とりあえず瀬田のほうへと落ち延びて行く。その七騎の中には、女ながらいくさ上手と言われた巴御前も含まれていた。

宇治川先陣:平家物語巻第九

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義仲の所業に怒った頼朝は、ついに義仲討伐のために、頼家、義経を大将とする数万の大軍を京に送った。あたかも平家追討のために西国へ出発しようとしていた義仲は、宇治川の瀬田の橋で迎撃する体制を整えた。橋の桁板をはずし、川底に杭を打って、容易に河をわたることが出来ないようにした上で、前進する敵を弓矢で迎え撃とうとする作戦である。

法住寺合戦:平家物語巻第八

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(平家物語絵巻から 法住寺合戦)

義仲の横暴さに手を焼いていた後白河法皇は、壱岐判官知康を遣わして諌めたが、義仲は知康を侮辱して追い返した。そこで知康から義仲討伐を直訴された法皇は、ついに義仲討伐に踏み切った。しかし、法皇側に参じたのは、僧兵や無頼漢たちという有様だった。

猫間:平家物語巻第八

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関東から帰京した康貞が、法王に関東の様子を報告したところ、法皇はじめ公家たちは、頼朝の堂々たる風格に感心する一方、それに対比して木曽義仲の無骨振りが笑いの種になるのであった。そこで、義仲の無骨ぶりの例がいくつか紹介される。

征夷将軍院宣:平家物語巻第八

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(平家物語から 征夷将軍院宣)

関東に覇権を確立した頼朝に征夷将軍に任命するとの院宣が下される。本来なら頼朝が京都へ院宣を賜りに赴くのが筋だが、頼朝は鎌倉に居ながらにして、朝廷から遣わされた使者の手から院宣を頂戴した。使者は中原泰定である。頼朝は鶴が丘八幡宮で泰定を迎える。泰定は頼朝の威儀に圧倒され、臣下の申し出までする始末。平家物語「征夷将軍院宣」は、そんな頼朝の威風堂々たるさまを語る。

経正都落:平家物語巻第七

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(平家物語絵巻から 経正都落)

都落する平家の一門の中で、忠度とならんで風流を感じさせるものは経盛の長男経正である。忠度が和歌の道を志したのに対して、経正は音楽の名手だった。経正は幼少の頃から、仁和寺の御室(後白河法皇の皇子守覚法親王)に親しく愛されていた。そこで、都落ちするにあたり、仁和寺に立ち寄って御室に別れの挨拶をする傍ら、青山という琵琶の名器を託した。

忠度都落:平家物語巻第七

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木曽義仲に全面的に敗退した平家は、義仲が京都に迫るのを前に大混乱に陥り、宗盛を筆頭に、安徳天皇を擁して都落ちすることとなった。当面落ち行く先は西国である。平家は、人質代わりに後白河法皇も連れてゆこうとしたが、法皇はその動きを事前に察知し、鞍馬寺に逃れた。平家は京都を去るに当たって、一門や家来たちの宿所のほか京白河辺の民家数万戸にも火をかけ焼き払った。

実盛:平家物語巻第七

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倶利伽羅峠で敗走した平家は、体勢を立て直して、加賀の篠原で再び義仲軍と対戦する。しかし平家は、四万の軍を動員したにかかわらず、一方的に破れ、敗戦後鎧を着けていたものはわずか四・五騎という惨憺たる有様だった。そんな平家軍のなかに只一人、異彩を放った武将がいた。斎藤別当実盛である。実盛は七十歳を超える老人であったにもかかわらず、白髪を染めて、若い者に混じって戦った。その勇猛な戦いぶりを、平家物語は同情を込めて語っている。

倶利迦羅落:平家物語巻第七

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(平家物語絵巻から 倶利迦羅落)

義経以前に源氏側の戦上手として登場した義仲の、最初の桧舞台となるのが倶利迦羅峠の戦いである。平家が義仲追討のために遣わした七万の大軍と、越中・加賀の国境倶利迦羅峠であいまみゆる事態となった義仲は、数の不利を知略で補って、みごと平家軍を撃退する。

祇園女御:平家物語巻第六

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清盛の死にからめて、清盛をめぐる逸話がいくつか披露される。清盛の出生にまつわる巷説もそのひとつだ。「祇園女御」の章で語られるその巷説とは、清盛が忠盛の子ではなく、白河院の子だったと言うものだ。清盛があれほど順調に出世できたのは、清盛が天子の種だとすれば、おかしなことではない。そう言いながら、清盛の出生の秘密を、さも本当のことのように語るのである。

入道死去:平家物語巻第六

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(平家物語絵巻から 入道死去)

平家物語巻第六「入道死去」の章は、清盛の壮絶な最後を劇的な調子で語る。清盛は、宗盛を総大将とする平家軍が東国に向けて出陣する直前に、にわかに熱病にかかり、床に就いた。熱は尋常ならず、四五間以内に近づいただけで耐え難い暑さを感じ、水風呂に入れればたちまち沸騰する有様。もはや助かるまいと思われた。それを知った都の人々は、「それみたことか」とささやきあったが、それは清盛がいかに人徳に欠けていたかを物語る風景であった。

廻文:平家物語巻第六

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頼朝の挙兵に続いて、木曽義仲の動向が語られる。義仲は、頼朝とは従弟の関係にあり、父親の義賢が兄の悪源太義平に殺された後、木曽の山中で豪族に育てられていた。頼朝の挙兵を聞き及んで、自分も信濃から呼応し、平家を滅ぼした上で、頼朝とともに二人将軍になりたいという夢を持つに至る。

小督:平家物語巻第六

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(平家物語絵巻から 小督)

「小督」の章は、能の人気曲にもなっており、また黒田節の一節にも取り入れられているとおり、人々にとりわけ親しまれてきた部分だ。これだけでも独立した物語になるのであるが、平家物語の流れのなかでは、高倉天皇をめぐる一連の逸話の一つとして語られる。また、清盛の横暴を示す一例としての意義もある。

富士川:平家物語巻第五

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(平家物語絵巻より 富士川)

頼朝の挙兵に対して、平家は、惟盛を総司令官、忠度を副司令官とする追討軍を向けることとした。惟盛の出陣姿はあでやかに美しく、一方忠度は愛人と別れの歌を読み交した。このように表現することで、平家方の武将が、公家にかぶれて武士らしさを失っていることを揶揄しているのだろう。

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