日本文学覚書

小説の語り手が、双子の妹に向けた手紙の中で書いたのは、かれが「われわれの土地」と呼ぶ「村=国家=小宇宙」の神話と歴史だったわけだが、何故かれがそれを「神話と歴史」というふうに、二つの言葉を並べて表現したのか。かれとしては、自分が語る物語には、「われわれの土地」の歴史というには収まらないような、神話的な要素が色濃く含まれていると感じたからなのだろう。その神話的な部分には、人間の常識を以ては理解できないようなものがあり、それゆえ神話という言葉を語り手は用いざるを得なかったのだと思う。その神話の部分では、不死身の存在である壊す人と、百年以上生き延びて巨人となった開拓者たちの活躍があった。

「個人的な体験」から「ピンチランナー調書」に至る一連の作品をつうじて、大江健三郎は自分自身の個人的な体験に拘り続けて来た。そのこだわりを一応棚上げして、全く新しい創造に取り掛かったのが「同時代ゲーム」である。この小説は、それまでの大江の殻を突き破って、新鮮さと奇抜さに満ち満ちた、読者をわくわくさせるような、壮大な物語になっている。そうした壮大さは、大江以前の日本の文学にはなかったものだ。大江はこの小説によって、前代未聞の稀有の物語作者として、日本の文学空間を震撼させたといえる。

「ピンチランナー調書」には三人の女性が出て来る。森・父の妻であり森の母である女性と、森・父の女友達桜生野桜子、そして森の女友達作用子だ。このほか小説の語り手でありかつ幻の書き手でもある僕の妻もいるが、これはたいした動きを見せないので、とりあえず除外してよいだろう。ほかの三人の女性を通じて大江は、なにを表現しようとしたか。それがここでのテーマだ。

「ピンチランナー調書」では、脳に重い障害を負う子供を持つ親たちの連帯が語られる。そこがこの小説が、重い障害を持った子どもとその父親との関係をテーマにしながらも、それ以前の作品と大きく異なるところだ。それ以前の作品では、一組の父子があって、その父親が脳に障害を持った子どもを庇護するという関係が語られていた。この作品では、親は子どもを一方的に庇護するという関係ではない。父子の関係は、どちらかと言えば、子ども中心に動いてゆく。というより、子どもが親を導くというような関係が語られる。

「『個人的な体験』から『ピンチランナー調書』まで」と題する小文のなかで大江健三郎は、「ピンチランナー調書」と彼が題した長編小説の、かれにとっての位置づけについて触れている。それを簡単に言うと、自分が個人的に体験したことがら、それはかれの生涯に巨大な影響を与えたことがらであったが、そのことがら、すなわち障害を以て生まれた息子へのこだわりを「個人的な体験」以降表現してきたのであるが、その営みに一つのくぎりをつけたいというものであった。その思いを大江は、「『個人的な体験』ではじめたことはすべて、『ピンチランナー調書』で終えたと僕は考えている」と書いている。

大江健三郎には反権力的な志向が強く見られるが、それは「洪水はわが魂に及び」では、警察への反感という形で現われる。大江が警察を正面から取り上げて手厳しく批判するのはこの作品が初めてだ。警察こそは権力の権化みたいなものなので、その描き方を通じて、大江の反権力的思考の内実がよくわかるのではないか。

大江健三郎の小説は、女性が大きなウェイトを占めている。処女作の「奇妙な仕事」以来、女性たちは主人公の影のようなものとしてかなりな存在感を以て大江の小説世界を彩ってきた。「個人的な体験」以降は、大江の息子たる子どもが大きな役割を占めるようになるが、それでも女性の役割が小さくなるわけではない。女性は大江の小説世界にとってのキーパーソン的な役割を付与され続けるのである。

大江健三郎は「個人的な体験」においてはじめて脳に異常を持って生まれて来た息子を正面から取り上げたが、それは多分にそんな息子と向き合う父親の悩みに寄り添った内容のものだった。ところが「洪水はわが魂に及び」では、息子の視線に寄り添う姿勢を見せている。もっともそんな息子を大江の分身らしい大木勇魚は「白痴」と呼んで、かなり屈折したところを見せてはいるのだが。

「洪水はわが魂に及び」には、アナーキストの夢を描くという面とならんで、核時代の想像力に訴えるという面がある。小説の舞台となるのは核シェルターなのであるし、そこを舞台にアナーキストの夢を膨らませる「自由航海団」の少年たちは、核で地球の大部分が滅んだあとでも、自分たちだけは自らを亡ぼした人間たちの愚かさから逃れて、自由に海をかけめぐることを夢見ている。その少年たちに一体化した主人公の大木勇魚が、白痴の息子じんと核シェルターに隠遁したのは、いつか人類が核の為に亡びた時に、息子が発する「世界の終わりですよ」という言葉を聞きながら、人類の愚かしさに思いをいたすためでもあった。

大江健三郎には、権威に反発するというか、反権力的なところが多分にある。初期の代表作「芽むしり仔撃ち」は、身近な権力である村落共同体の暴力に勇敢に立ち向かう少年を描いたのだし、生涯の代表作と言われる「万延元年のフットボール」は、あらゆる権力から自由なアナーキーな共同体の創造をめざす青年を描いていた。「セヴンティーン」は権力側に一体化した少年の夢想を描いたものだが、これは言ってみれば、権力礼賛を通じての、アンチ権力小説といってもよい。そんな大江が、反権力とアナーキズムへの志向を正面から取り上げたのが1973年の作品「洪水はわが魂に及び」である。

大江は中編小説「月の男」を、「みずから我が涙をぬぐいたまう日」と合わせて一冊の本にしたが、その理由を本全体の序文のような文章のなかで次のように書いている。「僕は、これら二つの中編小説を書きながら、われわれの想像力を縛る枷を、かえって自分の手がかりにひきつけ、可能なかぎり、いちどは自分自身を、頭から足先まで、その枷でかんじがらめに縛りつけようとした。そして、この過去と未来をつらぬく天皇制に根差した多様な枷によって自分を縛ることから出発し、なんとか自由をかちえようとした作家は、それ自身の右側に「みずから我が涙をぬぐいたまう日」の、真闇の水中眼鏡をかけた自称癌患者をおき、左側に「月の男(ムーン・マン)」の改悛して環境保護運動に入った逃亡宇宙飛行士をおいて、自分の想像力を前に進ませるための、一対の滑車としたのである」

中編小説「みずから我が涙をぬぐいたまう日」は、「父よ、あなたはどこへ行くのか」と姉妹小説のような関係にある。「父よ」では、自分の子どもの頃の父親のイメージ、それは社会から孤立して、蔵の中で、理髪用の椅子に腰を埋めて座っている孤高の人間のイメージであるが、そのイメージを踏み台にして、父親の実像を探り当てようとする主人公のこだわりを描いたものだった。この「みずから」も、やはり主人公の父親へのこだわりをテーマにしている。この小説のなかの父親も、社会から孤絶し、自分の家族すらも謝絶して、蔵の中に一人で閉じこもる父親のイメージをもとにして、その父親の実像を探りあてて、それを同時史という形で表現したいという主人公の強いこだわりがテーマである。それらのこだわりは、それぞれに異なった結末を得る。「父よ」においては、父が社会から孤立した理由は俗世的なものだったということだが、この小説では、父親が社会から孤絶したのは、それなりに深刻な理由によることがわかった。もっともその理由を、主人公が納得したわけではなさそうなのだが、彼が父親について抱いていたわだかまりが多少は氷解する体のものではあった。

「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」というタイトルの出典について、大江はこの小説の最後のパートである「父よ、あなたはどこへ行くのか?」のなかで触れている。大江はこの文節を、英国の詩人の戦時の詩の一節と言っているのであるが、その詩人が誰であるかについては言及していない。そこで筆者が独自に調べてみたところ、オーデンの Night falls on China という詩の一節であることがわかった。ちなみに当該部分を抜き出すと次のとおりである。

「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」の第三部は、「オーデンとブレイクの詩を核とする二つの中編」からなっているが、その一つ目は「狩猟で暮らしたわれらの先祖」という題名の不思議な話である。この題名を大江はオーデンの詩「狩猟で暮らした我らの先祖(Hunting Fathers)」からとったと小説の中で明らかにしている。それは、語り手である僕が、流浪する一家とその家長とを、暗闇に燃える焚火のあかりのもとで見た時の印象を語った部分だ。その部分は次のようなものである。

「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」は、「ぼくは詩をあきらめた人間である」という文章から書き始められる。その詩をあきらめたらしい人間、それはこの小説集の編者の位置づけだと思うのだが、その編者らしい人間が、自分自身「詩の如きもの」と称するものを披露し、この小説集はその「詩の如きものを核とする」三つの短編小説と、ブレイクとオーデンの詩を核とする二つの中編小説からなっていると宣言している。宣言と言うのも、この小説は上述の五つの中・短編小説のほかに、「なぜ詩ではなく小説を書くのか、というプロローグと四つの詩の如きもの」と題する短文を収めており、全編の冒頭に置かれたその短文のなかで、この小説集を書いた動機に触れているわけであるが、その触れ方と言うのが、記述と言うより宣言を思わせるものだからだ。

大江健三郎は、「芽むしり仔撃ち」の中で朝鮮人を登場させ、一定の重要な役割を果たさせていたが、この「万延元年のフットボール」では、朝鮮人問題を前景に押し出して、日本人と朝鮮人とのかかわりをかなり突っ込んで描いている。前作での朝鮮人は、日本人によって一方的に抑圧される絶対的に弱い存在だったものが、ここでは日本人とほぼ対等に接するばかりか、場合によっては日本人を支配できるしたたかな存在として描かれている。日本の近代史の中で、朝鮮人がそのようにポジティヴな立場に立ったことはなかったと思われるので、こうした設定は大江が意識的に持ち込んだのだと思う。そうまでして大江が書きたかったことはなにか。

僕と妻とは小説の最初から破綻した夫婦として登場する。彼らが夫婦として破綻しているのは、彼らが互いに相手を無視していることに現われている。彼らが互いに無視しあっているのは、どうも意図的ではなく、互いに相手を思いやる余裕がなくなっているからだ。彼らをそうした状態に陥れた原因に、小説はあからさまには触れていないが、行間からは彼らが自分たちの子を見捨てたことだというふうに伝わって来る。自分の子を見捨てたという心のこだわりが、彼らを自分自身の内部に閉じ込めてしまったわけだ。それを裏書きするように、小説の最後で彼らが互いに和解する気になった時、その和解を後押しするものとして、かつて見捨てた子どもを取り戻し、一緒に育てようという気になったことがあげられる。つまり彼らは自分たちの子どもを見捨てることによって互いに離れてしまい、その子どもを取り戻すことによって、再び結びつく気になれたわけである。

「万延元年のフットボール」は、主人公の僕が自宅の敷地に掘られた穴の中で瞑想するシーンから始まる。そして、四国の山の中の土蔵の地下室でやはり瞑想するシーンで終わる。厳密にはそこで終わるわけではないが、小説のクライマックスとして、一編の物語がそこで事実上閉じられるわけだ。始めの瞑想と終りの瞑想とでは、内容が異なる。それは物語が進行してきたことをあらわしている。主人公は始めの瞑想によって、自分が世界から疎外されていると感じ、終わりの瞑想によって、自分がなんとか世界とつながっていることを感じる。その感じが主人公に救いの感情を与える。そういう意味では、この小説は、主人公に寄り添った視点からは、失った自分を取り戻す話だと言うことができる。


「万延元年のフットボール」は色々な意味で大江健三郎にとって転機となった作品だ。その割にはテーマがいまひとつわかりにくい。あるようでいて、ないようにも見える。大江がわざとそう仕掛けたのかもしれぬが、従来の感覚で読むと、非常にわかりにくいところがあることは否めないようだ。ようだ、と推測形でいうのは、この小説にはわかりやすい読み方を拒むようなところがあって、したがってどんな読み方でも可能だから、読後感として、あるいは批評として、どんなことでも言えるようなところがあるからだ。

大江健三郎の小説は人物設定の巧みさを感じさせる。小説というものは大部分が会話から成り立っているから、その会話の主体たる人物をどう設定し、彼らにどんな会話をさせるかが、小説の善し悪しを決定づける。大江の人物設定は過不足なくしかもタイムリーで、個々の会話を生き生きとして描いているばかりか、小説の進行に緊張感を持たせている。歌舞伎の良し悪しが役者廻しの巧拙に左右されるように、小説の善し悪しは人物設定の良し悪しに左右されるといえ、その点では大江は小説の名手ということができる。あるいは小説における役者廻しの名人と言ってもよい。

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