「新世帯(あらじょたいと読む)」は、徳田秋声が自然主義的作風を模索した作品である。かれの作風を確立したとまではいえないが、文章に余計な修飾を加えず、事実を淡々と描くところは、その後の彼の作風の原型をなしたといってよい。小説のテーマも、庶民の平凡な暮らしを、如実に描写するというもので、大袈裟な仕掛けは全くない。また、主人公の視線に沿いながら、時折心理描写を交えつつ、平凡な日常を執拗に描くところなども、いわゆる秋声風を先取りしている。
日本文学覚書
高樹のぶ子といえば、エロチックな官能小説が得意で、女流ポルノ作家の大御所といったイメージが強かったものだが、老年に近づくにしたがって、淡泊な作風に変わっていった。おそらく、女性にとって宿命的な閉経という事態が、彼女の性的な情熱をさましたからだと思われる。女性の中には、鴎外の母親のように、灰になるまで男に抱かれたいと願う色好みもいるが、たいていの女性は性について淡泊になるものらしい。高樹はしかし、それでは女として生きてきた過去がいじめになると思ったのだろう、人生最後の日々を、再び性愛をもてあそぶことによって、光り輝くものにしたいと願ったように思える。「小説伊勢物語業平」は、そんな彼女の性的なエネルギーを傾倒した作品である。この小説を書いたとき、彼女はすでに古希を大きく超えていた。灰になってもおかしくない年齢で、肉を焼く火のかわりに魂を燃え上がらせる火の情熱をもって、この作品を完成したのであろう。
高樹のぶ子の持ち味は何といっても官能的なポルノグラフィーにある。ところがその官能性は年とともに衰えるらしく、高樹の場合にも還暦を過ぎてからは、めっきり淡泊な作風に変わっていった。やはり生理的な変化が影響しているのだろう。女性には男と違って、閉経という人生のくぎり目がある。閉経を過ぎた女性は女性ホルモンの分泌が激減し、性的な興奮を感じることもなくなるという。高樹の場合には、得意の官能的な描写は自身の体験に根ざしているようだから、そうした性的な興奮がなくなると、官能的な想像力が枯渇するのは無理もない。身体の肝心な部分が乾ききっていては、濡れ場の描写にもさしつかえるということだろう。
官能的な作風で好色な読者を魅了してきた高樹のぶ子が、幻想的な作風に一転して読者を惑わせたのが「香夜」である。日常と非日常の区別がなく、現実の出来事が幻想と融和しているところは「幻想的」といえる所以だが、それにとどまらない。人間が動物に化けたり、死んだ者が生きたものを道連れにつれていくところなど、奇妙奇天烈なストーリーを含んでおり、その点では怪奇小説ともいえる。とにかく、多彩な内容を含んでいる。エンタメ作家高樹のぶ子の本領が遺憾なく発揮された作品である。
「透光の樹」は、高樹のぶ子の一連の官能小説の頂点をなすものだ。前に読んだ「蔦燃」に比べると、構成の点でも文体の点でも各段の進歩が認められる。官能的という面でも、一段の進化が見える。その進化は、高樹が人間の性愛を即物的な面に還元したことから生まれてくるようだ。この小説で描かれた男女の性愛には、精神的な要素はほとんどないに等しい。なにしろ小説の主人公である千桐という女性が、「女は思わないで感じちゃうから」と言って、女が性愛をもっぱら下半身のことがらとしてとらえているほどなのだ。そんなわけだから、この小説で描かれた男女の性愛はとことん下半身にかかわることとして割り切られている。そういう意味で、官能小説の旗手といわれる高樹のぶ子は「下半身の作家」ということができよう。
久しぶりに読んだ高樹のぶ子の小説第二冊目「蔦燃」は、まさしく小生の記憶にあった高樹らしさが現れた作品だ。高樹の高樹らしさを小生は、官能的というところに認めているので、前回読んだ出世作の「光抱く友よ」はそれに当てはまらなかったのだが、この「蔦燃はまさしく官能的な小説である。というか、その性愛の描写は、ポルノ小説といってよいほどである。小生は高樹を長い間、日本を代表する女性ポルノ作家と思ってきたのである。
小生は中年の頃に一時期、高樹のぶ子の小説にはまったことがあった。その折には、官能的なところが気に入ったように思う。男の書く官能小説は、どこか作り物という印象が付きまとうが、高樹の小説には、妙な現実感があった。その現実感とは、性の衝動を素直に表現するところから来ているように感じられたものだ。女でなければ表現できない性的な感情、それをストレートに表現するところは、男をたじたじとさせる迫力をもっている。
小生は、中年に差し掛かった頃に、高樹のぶ子を好んで読んだものだったが、それはポルノ小説としてだった。女の筆で描かれたポルノの世界は、男のそれとは全く違った官能性を感じさせる。高樹のポルノは実に生々しい官能性に充ちているのだ。
桐野夏生は、学生時代に谷崎潤一郎に挑戦して挫折したそうだ。理由は色々あったようだが、谷崎の代表作といわれるものが大阪弁を多用していたことに馴染めなかったということのようだ。大阪弁に限らず、谷崎は関西の女に東京の女にはない潤いと色気を感じたと公言している。それが東京女の自分には気に入らなかった。そんな谷崎の小説を若い桐野は、「上方女にこまされた男」の書いたものと受け取って、反発を感じたということらしい。
「白蛇経異端審問」は桐野夏生の最初のエッセー集だ。いまのところ唯一のエッセー集でもある。日記の一部やショートストーリーも収載されているので、純粋なエッセー集というわけではない。折に触れて書き散らした短文を一冊にまとめたというところだろう。だから、全体をしめるようなテーマはない。話題は多岐にわたり、とりとめがないといってもよいが、それがまた魅力と言えないこともない。
ディストピア小説には、大きく分けて二つのタイプがある。一つはオーウェルの有名な小説「1984」に代表されるもので、強大な権力による個人の抑圧が主なテーマだ。この手のディストピア小説は、わかりやすく、また現実の権力と密接に結びついているので、権力が可視的に暴力を伴うようになると、それを批判する意味合いで小説のテーマに取りあげられることが多くなる。
「路上のX」は、桐野夏生の小説世界の集大成といってよい。もっとも桐野には「日没」という作品があって、それが彼女の文学の最高の達成といえるから、集大成とはいっても、暫定的な意味合いがこもっているのは否めない。この作品は、日本社会全体をある種のディストピアと想定しているところがあるので、究極的なディストピアをテーマにした「日没」とは連続性を指摘できる。そういう意味では、「日没」に対しては前駆的な意味合いを持っているのだが、それ以前の作品全体に対しては集大成的な意味合いを持つ。言ってみれば桐野は、この小説を書くことで、それまでの自分の文学的達成に一応の区切りをしるす一方で、「日没」というあらたな文学世界へ踏み出したともいえる。桐野にとっては、色々な意味で、画期的な作品なのではないか。
桐野夏生には、実在の人物や現実に起きた事件に取材した一連の作品がある。「デンジャラス」もその一つだ。谷崎潤一郎とかれを取り巻く女性たちをテーマにしている。谷崎は多感な男で、数多くの女性とかかわったが、この小説が描いているのは、「細雪」に出てくる女性たちとのかかわりだ。「細雪」四姉妹のうち、三女の「雪子」に相当する女性の視点から描いている。その小説では、彼女は「重子」という名で登場するが、これは彼女の本名である。その他の人物も多くは本名で登場している。
「夜の谷を行く」は、連合赤軍事件に取材した作品。とはいえ、事件を同時的な視点から追うのではなく、事件後39年たった時点から懐古的に語られる。語るのは下級兵士の位置づけで、リンチにあうことなく、何とか脱走に成功した女性である。実話に取材した桐野の小説には、実名で登場する人物が多いのだが、この作品の中の女性主人公西田啓子は桐野の創作らしい。小生はこの事件の内容をほとんど知らないので、主人公以外の人物を含めて、登場人物の現実的な背景は知る由もない。だから、基本的には実際の事件を棚上げして、純粋な創作として読んだ。
「奴隷小説」は、タイトルどおり奴隷的境遇に置かれた人間たちをモチーフにした連作短編小説集である。七つの小話からなっている。小話相互には関連性はない。時代もバラバラだが、一応日本人の身に起きたことを描いているようである。奴隷的な境遇は、過去においてはいざ知らず、現代日本においては、表向きは存在しないことになっているから、これらの小話のほとんどは、荒唐無稽な想像力の産物として受け取るべきかもしれない。だが、その割にリアリティを感じさせ、もしかしたらこれは現実に起きているのではないかと思わせることころに、桐野の筆の冴えがある。
桐野夏生は、実在の人物や事件に取材した小説を得意としている。もっとも実話をそのまま再現したわけではなく、桐野流に脚色しなおしたものがほとんどのようだ。ようだ、というのは、桐野の作品を多数読んだわけではないからで、「東京島」や「女神記」などの作品を読んだ印象とか、批評家による作品論などを通じて得た意見である。
桐野夏生の小説「女神記」は、古事記のイザナキ、イザナミ神話を取り入れた作品だ。古事記では二柱の夫婦神が黄泉比良坂を距てて向かい合い、イザナミがイザナキに向って、あなたの国の人間を毎日千人殺してやるといったのに対して、イザナキは、では毎日千五百の産屋を建ててみせると答えたのだったが、この小説はその後日譚という形をとっている。イザナミは予言どおり、黄泉の国の女王として毎日千人の人間に死の呪いをかけつづけ、イザナキは放浪の身になって、毎日多くの女たちに子を授けているのである。
桐野夏生の小説「東京島」は、戦後実際に起きた無人島集団生活事件をもとにしたということだ。もっとも小説の中では、そのことには触れられていない。あくまでも、ある集団が無人島に孤立して生活するとどういうことになるか、というような、いわば抽象的な問題設定から描かれている。そういう意味では、サバイバル小説と言ってよい。サバイバル小説の古典としては、有名な「ロビンソン・クルーソー」の話がある。クルーソーは個人のサバイバルをテーマにしていたが、この小説では、集団のサバイバルがテーマだ。その集団は、当然出身国の文化を背負っているので、かれらのサバイバルには文化的な色彩がまとわりついている。だから勢い、文化批判的な内容に傾きがちである。
桐野夏生の小説は、複数の視点を絡ませながら、物語を立体的に展開するという特徴がある。いまでも小説の普通の書き方は、ある一定の(つまり語り手を含めた一人物の)視点から描くというものだが、桐野の場合には、登場人物の幾人かにそれぞれ別途に語らせ、その間に微妙な差異を持ち込みながら、全体としてつじつまのあうような物語にまとめあげる。このような複数の視点を小説に持ち込んだのは、とりあえずはフォークナーだったわけだが、それ以前ドストエフスキーが試みていた。ドストエフスキーの小説の手法は、さまざまな登場人物に勝手なことを言わせるというもので、それをバフチンはポリフォニーと呼んだ。桐野の小説、とくに「グロテスク」には、そのフォリフォニーの要素が強い。ポリフォニーによって構成された小説あるいは小説のポリフォニックな構成と言ってもよい。
桐野夏生には、実在した人物や実際に起きた事件をヒントにして作品を構成する傾向がある。「グロテスク」は、1997年に起きた「東電OL殺人事件」をヒントにしたようだ。だが、桐野自身は、「この作品はフィクションであり、実在する個人、団体とはいっさい関係ありません」と断っている。そのへんは、実在した作家林芙美子を本名のまま登場させた「ナニカアル」とは異なった扱い方になっている。じっさいこの事件は、いまだ解決しておらず、したがって容疑者として逮捕されたネパール人は冤罪だということになっている。そんな事件であるから、それをあたかも事実であったように書くことは、いくら桐野でもできなかっただろう。にもかかわらず、この事件を小説のヒントとして使ったのはどういうわけか。おそらく桐野はこの事件に、人間の業のようなものを感じたのではないか。桐野がこの小説で描いているのは、人間の業なのである。
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