日本文学覚書

桐野夏生には、実在の人物や現実に起きた事件に取材した一連の作品がある。「デンジャラス」もその一つだ。谷崎潤一郎とかれを取り巻く女性たちをテーマにしている。谷崎は多感な男で、数多くの女性とかかわったが、この小説が描いているのは、「細雪」に出てくる女性たちとのかかわりだ。「細雪」四姉妹のうち、三女の「雪子」に相当する女性の視点から描いている。その小説では、彼女は「重子」という名で登場するが、これは彼女の本名である。その他の人物も多くは本名で登場している。

「夜の谷を行く」は、連合赤軍事件に取材した作品。とはいえ、事件を同時的な視点から追うのではなく、事件後39年たった時点から懐古的に語られる。語るのは下級兵士の位置づけで、リンチにあうことなく、何とか脱走に成功した女性である。実話に取材した桐野の小説には、実名で登場する人物が多いのだが、この作品の中の女性主人公西田啓子は桐野の創作らしい。小生はこの事件の内容をほとんど知らないので、主人公以外の人物を含めて、登場人物の現実的な背景は知る由もない。だから、基本的には実際の事件を棚上げして、純粋な創作として読んだ。

「奴隷小説」は、タイトルどおり奴隷的境遇に置かれた人間たちをモチーフにした連作短編小説集である。七つの小話からなっている。小話相互には関連性はない。時代もバラバラだが、一応日本人の身に起きたことを描いているようである。奴隷的な境遇は、過去においてはいざ知らず、現代日本においては、表向きは存在しないことになっているから、これらの小話のほとんどは、荒唐無稽な想像力の産物として受け取るべきかもしれない。だが、その割にリアリティを感じさせ、もしかしたらこれは現実に起きているのではないかと思わせることころに、桐野の筆の冴えがある。

桐野夏生は、実在の人物や事件に取材した小説を得意としている。もっとも実話をそのまま再現したわけではなく、桐野流に脚色しなおしたものがほとんどのようだ。ようだ、というのは、桐野の作品を多数読んだわけではないからで、「東京島」や「女神記」などの作品を読んだ印象とか、批評家による作品論などを通じて得た意見である。

桐野夏生の小説「女神記」は、古事記のイザナキ、イザナミ神話を取り入れた作品だ。古事記では二柱の夫婦神が黄泉比良坂を距てて向かい合い、イザナミがイザナキに向って、あなたの国の人間を毎日千人殺してやるといったのに対して、イザナキは、では毎日千五百の産屋を建ててみせると答えたのだったが、この小説はその後日譚という形をとっている。イザナミは予言どおり、黄泉の国の女王として毎日千人の人間に死の呪いをかけつづけ、イザナキは放浪の身になって、毎日多くの女たちに子を授けているのである。

桐野夏生の小説「東京島」は、戦後実際に起きた無人島集団生活事件をもとにしたということだ。もっとも小説の中では、そのことには触れられていない。あくまでも、ある集団が無人島に孤立して生活するとどういうことになるか、というような、いわば抽象的な問題設定から描かれている。そういう意味では、サバイバル小説と言ってよい。サバイバル小説の古典としては、有名な「ロビンソン・クルーソー」の話がある。クルーソーは個人のサバイバルをテーマにしていたが、この小説では、集団のサバイバルがテーマだ。その集団は、当然出身国の文化を背負っているので、かれらのサバイバルには文化的な色彩がまとわりついている。だから勢い、文化批判的な内容に傾きがちである。

桐野夏生の小説は、複数の視点を絡ませながら、物語を立体的に展開するという特徴がある。いまでも小説の普通の書き方は、ある一定の(つまり語り手を含めた一人物の)視点から描くというものだが、桐野の場合には、登場人物の幾人かにそれぞれ別途に語らせ、その間に微妙な差異を持ち込みながら、全体としてつじつまのあうような物語にまとめあげる。このような複数の視点を小説に持ち込んだのは、とりあえずはフォークナーだったわけだが、それ以前ドストエフスキーが試みていた。ドストエフスキーの小説の手法は、さまざまな登場人物に勝手なことを言わせるというもので、それをバフチンはポリフォニーと呼んだ。桐野の小説、とくに「グロテスク」には、そのフォリフォニーの要素が強い。ポリフォニーによって構成された小説あるいは小説のポリフォニックな構成と言ってもよい。

桐野夏生には、実在した人物や実際に起きた事件をヒントにして作品を構成する傾向がある。「グロテスク」は、1997年に起きた「東電OL殺人事件」をヒントにしたようだ。だが、桐野自身は、「この作品はフィクションであり、実在する個人、団体とはいっさい関係ありません」と断っている。そのへんは、実在した作家林芙美子を本名のまま登場させた「ナニカアル」とは異なった扱い方になっている。じっさいこの事件は、いまだ解決しておらず、したがって容疑者として逮捕されたネパール人は冤罪だということになっている。そんな事件であるから、それをあたかも事実であったように書くことは、いくら桐野でもできなかっただろう。にもかかわらず、この事件を小説のヒントとして使ったのはどういうわけか。おそらく桐野はこの事件に、人間の業のようなものを感じたのではないか。桐野がこの小説で描いているのは、人間の業なのである。


「柔らかな頬」は、桐野夏生に直木賞をもたらした作品である。桐野自身は、これに先立って発表した「OUT」で受賞することを期待していたらしいが、それがかなわなかったのは、反社会的・反道徳的なところが忌避されたからだろうと推測している。たしかに平凡な主婦たちが殺人を犯し、あまつさえ死体をバラバラに解体するというのはショッキングだし、しかもその死体解剖をビジネスとするに至っては、いくら想像の世界のことではあっても、やりすぎだと思われるのも無理はない。

小説「OUT」のクライマックスは、主人公の雅子が宿敵佐竹と壮絶な戦いを繰り広げ、勝ち残るところを描く。勝ち残ったことで彼女を待っていたのは、しかし、深刻な喪失感だった。猛獣に追われる小動物のように、必死になって逃げたあげく、ついにつかまって食われようかというところで、奇跡のような逆転を演じて生き残ったのだから、充実感とは言わないまでも、安堵感くらいは得てしかるべきなのに、かえって喪失感を覚える。それはなぜなのか。そこがこの小説のミステリアスなところだ。

桐野夏生は、高樹のぶ子と並んで、現代日本の作家としてはもっとも多くの読者をもっているそうだ。高樹は女性の官能を描くのが得意で、小生も若い頃に一時期のめりこんだことがある。桐野の作品を読んだことはなかったが、こちらは女流ハードボイルドとも呼ぶべき派手な作風だという評判である。

桐野夏生は、現代日本の作家としては、もっとも多くの読者を持つ人気作家だそうだ。かつての松本清張を、今の日本でしかも女性という形で再現したというようなイメージだ。清張はハードボイルドなタッチで、社会的な視線を強く感じさせるミステリー作品を数多く書いた。桐野の場合も、やはりハードボイルドなイメージが強く、しかも社会的な視点もある。その社会的な視線は、単に社会の一隅での矛盾に向けられるのではなく、トータルとしての日本社会に向けられる。だから桐野の作品は実に迫力がある。桐野の作品に出てくる主人公たちは、単身で日本全体を相手に戦っているという壮絶なイメージに彩られている。世界の文学史上においても、そうした壮絶さは稀有なのではないか。

小川洋子は、多和田葉子とほぼ同じ世代で、ともにノーベル賞の候補者に擬せられていることもあって、色々と比較される。基本的に言うと、この二人には、どちらも女性であるということを除けば、ほとんど似たところはない。多和田は大学を卒業するとすぐにドイツに渡り、そこでいわゆるエクソフォニーの生活を送ってきた。エクソフォニーというのは、母国の外に出ている状態をさす言葉で、要するに故郷喪失者のことを言う。故郷喪失者というと聞こえが悪いので、無国籍者あるいはコスモポリタンと言い換えてもよい。21世紀になって、グローバル化が普遍化し、人々が国境を無視して動き回るようになると、国籍を感じさせない人々が多くなった。そうした人々の感性を文学に反映させたのが多和田葉子という作家である。

「妄想気分」は、小川洋子の何冊目かのエッセー集である。同時代の日本人作家としてよく比較される多和田洋子が、ごくわずかなエッセー集しか出していないのに対して、小川は結構な数のエッセー集を出している。その全部に目を通したわけではないので、彼女のエッセー集の傾向をわかっているわけではないが、この「妄想気分」は、自分の創作態度とか自作への言及が多く、また自分自身を回想する文章も多かったりして、いわば自分を語る本という体裁である。

「心と響き合う読書案内」は、小川洋子がFMラジオで話した読書案内を一冊にまとめたものである。40篇の小説を、それぞれ四季に沿った形で分類・配列している。それらを読むと、彼女の本を選ぶ基準とか、読み方がよく伝わってくる。

タイトルにある「小箱」とは、死んだ子どもたちの思い出が詰まった箱のことである。ただ思い出だけではない、死んだ子どもたちはそこで生き続けているのだ。無論、死んでしまっているわけだから、現実の生命を生きているわけではない。かれらが生きているのは、かれらの親であったり、親族であったり、かれらと深いかかわりをもった人々の心の中である。この小説は、そんな、死んだものと生きているものとの、心のつながりをテーマにした作品なのである。

小川洋子の小説「ことり」は、文字通り小鳥に魅せられた男の生涯を描いた話だ。小川には、何かに魅せられた人間をモチーフにした一連の作品がある。「博士の愛した数式」は、数字特に整数に魅せられた人たちの話だし、「ミーナの行進」は、マッチ箱に見せられた少女の話だし、「猫を抱いて象と泳ぐ」は、チェスに魅せられた少年の話だった。そうした、何かに魅せられた人間には独特の輝きがあると、小川は考えているようだ。これらの小説には、劇的な要素はほとんどない。ただ単に、主人公たちの至極単調な生き方を淡々と描いているに過ぎない。そんな生き方に果たしてどれほどの意義があるのかと思えるほどだ。しかし、人間は意義のために生きているのではない。人間が生きているのは、自分がたまたまこの世界に生を受けたからだ。生を受けたからには、それを精一杯生き抜くことが人間として大事なことではないか。どうもそんな、ある種諦観のような、それも非常に静かな諦観のようなものが、小川のこれら一連の小説からは伝わってくるのである。

「猫を抱いて象と泳ぐ」は、チェスに見せられた少年の物語である。小川洋子は小説の中にフェティッシュな対象を持ち込むのが好きだと見え、代表作といわれる「博士の愛した数式」は数字がそのフェティシュの役割を果たしていた。小川はフェティッシュを持ち込むについては、徹底的なこだわりを見せており、対象についての深い理解を示している。「博士の愛した数式」を書くについては、数学者の藤原正彦から整数の性質についてのレッスンを受けているほどだ。この「猫を抱いて象と泳ぐ」を書くに当たっては、チェスのルールに関する知識はもとより、広くチェスにまつわる逸話なども徹底的に読んだようだ。

「ミーナの行進」は、ある女性が自分の少女時代を回想するという設定の小説だ。設定自体はありふれたものだが、小川洋子らしい素直で暖かい文章で書かれており、じつに心を洗われるような気持にさせられる。老年の男性である小生でさえ、心温まる気分を味わったのであるから、女性にとっては、自分自身の少女時代が思い出されて、ノスタルジックな気分を搔きたてられるのではないか。

小川洋子は、多和田葉子と並んで、現代に活躍する日本人作家を代表する人だというので、どんな作風なのだろうかとまず思って手に取った本が「博士の愛した数式」だった。読んでの印象はそれなりにさわやかなものだった。筋書きに特異な点はないし、文章にも癖がない。現代文学にありがちな、焦燥感を以て読者を駆り立てるような切迫も感じさせない。それでいて味わいがある。要するに、よくできた小説なのだ。おそらく紫式部以来のこの国の女流文学の伝統を踏まえているのだろうと思う。日本伝来の女流文学には、読者を喜ばせようという志向が強いが、この小説にもそうした工夫は感じられる。

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