日本文学覚書

村上春樹「回転木馬のデッドヒート」

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村上春樹には、同じ一つの問題意識に従って一連の短編小説を書き、それを一冊の本にして刊行する傾向がある。「神の子供たちはみな踊る」とか「女のいない男たち」はその典型的なものだが、「回転木馬のデッドヒート」はこうした流れの仕事の嚆矢をなすものだと言えよう。

「蛍、納屋を焼く、その他の短編」に収められた五つの短編の執筆時期は、一番古いのが「納屋を焼く」(1982年11月)、一番新しいのが「三つのドイツ幻想」(1984年3月)である。「羊をめぐる冒険」(1982年10月)を書き終えて、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」(1985年6月)にとりかかる以前の時期だ。村上は、長編と短編を交互に書く癖があったようで、そのサイクルから言えば、「羊」と「世界」の二つの長編の執筆時期に挟まれた中間期に書かれたということになる。

村上春樹「カンガルー日和」

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村上春樹の初期の短編小説集「カンガルー日和」は、一般書店には出回らないある小さな雑誌に連載したものを集めたものだ。村上自身がいっているように、「他人の目を気にせずに、のんびりとした気持で楽しんで」書いたとあって、読むほうも気楽でしかも楽しい気分にさせられる。

村上春樹の初期の短編小説は、これまであまり注目されることがなかったと思うが、それに一定の重要性を認め、村上小説の原像とまで言って評価しているのが加藤典洋である。彼は最近の村上春樹論「村上春樹は、むずかしい」の中で、「中国行きのスロウ・ボート」以下三点の短編小説を取り上げ、それらを短編の「初期三部作」と呼んで、「戦う小説家」としての村上の原像が現れたものと評価している。筆者が村上の初期の短編小説を読んでみようという気になったのは、半分は加藤にそそのかされてのことである。

内田樹「もういちど村上春樹にご用心」

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筆者は、内田樹の書いた本はけっこう多く読んでいるほうだと思うが、そのきっかけとなったのは彼の村上春樹論「村上春樹にご用心」だった。その本の中で内田が、蓮見重彦による村上への罵倒を取り上げて、はじめから読者に読むなというのはえげつないやり方である、読んだ上で自分の言い分が正しいかどうか判断してくれというのがまともなやり方だ、と言っていたのを読んで、なかなか気の利いた批評振りだと思ったものである。

加藤典洋「村上春樹は、むずかしい」

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「村上はいまや文化を論じるうえでの格好の素材、持論展開のうえでの好個の話題提供者だ。そこでの彼の本質は文化象徴であり、また作品の本質は、商品である」。このように加藤典洋は言って、村上春樹の読まれ方について指摘したうえで、それらに自分の読み方を積み重ねるようにして提示する。彼の意図は、「どこに村上の文学的な達成があるのかというような基本的な議論」を提供することにあるらしいが、どうもこの本を読んだ限りでは、加藤は村上を格好の素材として持論を展開してみせたという印象が伝わってくる。もっとも、すぐれた文学というものは様々な読み方に向かって開かれていると村上自身が言っているので、村上は加藤のそうした読み方を否定することはしないだろう。

柳北仙史熱海文藪

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成島柳北は晩年温泉を愛した。主な目的は気晴らしだったようだが、身体の休養あるいは持病の治療も兼ねていたようだ。彼がとくに好んだのは熱海の温泉であり、また箱根の湯であった。寒い時期には熱海に行き、夏には箱根に暑を避けるというのが彼の理想であったようだ。「熱海文藪」は、そうした柳北の温泉三昧の記録である。

成島柳北「航薇日記」

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成島柳北は、明治二年十月中旬から十一月下旬にかけて四十日ほど関西方面に遊んだ。徳川幕府の要職にあって、明治維新の激動を潜り抜けてきた柳北は、徳川慶喜が維新勢力に降参して恭順の意思を示すや、自分の政治的な生命の終わったことを痛感して、一切の公職を辞し、謹慎に近い状態にあった。自分自身を無用の人と称して、世の中に対して斜に構えて暮らしていた。墨堤に構えていた別荘を妻永井氏の姻族戸川成斎にゆずり、浅草の森田町に仮寓して、気楽な生活を装い、世の中の動きを注視していた。そんな折に戸川成斎から、関西に遊ぼうと誘われたのである。成斎は、備中妹尾の実家に用があって赴くので、柳北にも誘いをかけたのであった。かねて関西方面に遊んでみたいと思っていた柳北は、この誘いを渡しに舟とばかり、一緒に行くことにした。「航薇日記」一巻は、その折の日々の記録である。

戦後二五年経ってからフィリピンを訪問した大岡には、自分たち日本人に対するフィリピン人の怨恨はいまだに強いだろうと予感された。一般の日本人も、フィリピン人とは酒を飲んではいけないと、現地の大使館筋から注意されていたらしい。フィリピン人は、戦争の賠償問題が片付いて以来、表面では日本人に好意的な態度をとっていたが、「しかし酒を飲んで、長時間日本人と対面していると、怨恨の中核があばれ出す。不意に表情が変り、とめどなく怨みの言葉が吐き出される。伝聞が自分の経験として語られ、実際自分が被害者であったような気持になって来る。その結果としてとかく刃傷沙汰が起る」

ミンドロ島ふたたび

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昭和33年の1月に、南方で死んだ日本兵の遺骨収集船が始めて出るという話を聞いたとき、大岡昇平は大いに衝撃を受け、自分も是非同船したいと願った。その船がミンドロ島にも寄りそうだという話を聞いてからは、自分も行きたいという気持ちが抑えがたくなって、方々へ手を回しては同船できるように画策したが結局かなわなかった。大岡はその船が芝浦桟橋を出る光景をテレビニュースで見て、埠頭で遺族が泣いている光景に釣られて、自分も涙を流して泣いた。そして次のような詩ともつかない文章をつづって、自分を慰めた。

従軍記者:大岡昇平「レイテ戦記」

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レイテ島には10人の報道記者が渡った。うち9人は、第一師団の輸送船に便乗して、マニラから渡ってきた者たちだった。内訳は、影山三郎(朝日)、久松亦男(毎日)、早川憲治(読売)、野口勇一(同盟)、春日武弥(同盟カメラマン)、潮田三代治(日映カメラマン)、蔡稔(潮田助手、台湾人)、橋本修一(マニラ新聞)、佐々木暉生(同盟無線オペレーター)、残りの1人は同盟セブ支局の斎藤桂助である。

抗日ゲリラ:大岡昇平「レイテ戦記」

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レイテ島の日本兵は、対米戦のほかにフィリピン人のゲリラ部隊とも戦わねばならなかった。第16師団がレイテ島に進駐した昭和19年の春から、早速フィリピン人ゲリラ部隊との戦いが始まり、米軍が上陸して山岳地帯に向け後退した後も、不断にゲリラの攻撃に悩まされた。レイテ島のゲリラ部隊は、カングレオン大佐率いる93師団が中心で、その規模は三個連隊、1500人程度だったと大岡は推測している。一方ゲリラ側は、5000人の兵士を擁し、19年春から同年9月末までの間に、日本軍と307回交戦し、戦士3869、戦傷485、俘虜55の戦果を上げたと自慢している。対して自分側の損害は戦死36、戦傷4、俘虜22と称しているから、これは「笑うべき天文学的誇張である」と大岡も嘲笑している。

遊兵と人肉食:大岡昇平「レイテ戦記」

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レイテ島の日本軍からは多くの遊兵が生まれた。激戦地での戦線から自分の意思で離脱したもの、怪我や病気がもとで友軍の足手まといになり切り捨てられてしまったもの、あるいは所属部隊が全滅状態になって、自分だけあるいは少数の兵が生き残ってしまい行き場を失って放浪するようになったもの、など理由は様々だったと思われる。大岡自身もミンドロ島で遊兵のような状態に陥ったのだが、それは友軍が壊滅状態になって、組織の態をなさなくなったことの結果だった。

レイテ島上日本軍の壊滅を決定的にしたのは、12月7日の米軍のオルモック湾上陸と同15日のミンドロ島上陸である。米軍のオルモック湾上陸によって、レイテ島上の日本軍は拠点を失い、全軍の司令部までが放浪するようになる。また米軍のミンドロ島上陸によって、大本営はレイテ島の放棄を決意するに至る。米軍のフィリピン攻略と日本本土攻撃が俄かに現実味を帯び、レイテ島の防衛どころではなくなったからである。

レイテ島上の地上戦を担ったのは、第14方面軍隷下の第35軍であった。第14方面軍はフィリピン全体を管轄していたが、そのうち第35軍は、ミンダナオとビサヤ諸島を担当した。レイテ決戦が軍の方針となるや、35軍の総力をレイテ島に投入し、足りないところは満州の第一師団や、ルソン島の26師団等で補ったことは先述のとおりである。

第68旅団:大岡昇平「レイテ戦記」

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第68旅団は、満州で養成された特殊部隊で、戦闘能力も高く装備も充実していたと大岡は言っている。この旅団がレイテ島の西北端カモテス海に面したサン・イシドロに上陸したのは12月7日のこと。上陸した旅団兵力を大岡は5000とか4000とか書いているが、エピローグに載せている兵力内訳には6300とある。差し引きの数字はどうなったのか、海没したのか、明記されていない。米軍の空爆にさらされながらの上陸で、人員の揚陸だけで精一杯、武器弾薬は揚陸できず、ほとんど裸の状態での上陸だった。

第30師団及び第102師団は、いずれも第35軍指揮下の部隊として、第30師団はミンダナオ島に、第102師団はセブ、ネグロス、パラワン、パナイ、ボホール島からなるビサヤ諸島に配置されていた。この中から、第30師団から一個連隊(41連隊)が、第102師団から二個大隊がレイテ島に派遣されることとなり、10月26日から同30日にかけて、オルモックに上陸した。その直後には、第一師団がオルモックに上陸している。

第26師団は、満蒙に配置されていた独立混成第11旅団を再編して作られた。独立歩兵第11連隊、同12連隊、同13連隊を中核とし、およそ13,000人の兵力を擁していた。師団長は山県中将、山県有朋の一族である。戦いぶりに臆病なところがあるというので、死地に追いやられたのだろうと大岡は推測している。「大本営は敗北を知った軍人を内地へは帰らせないのであった」というわけである。

レイテ戦は緒戦から、地上・海上で米軍に敗退し、その後の展望には暗澹たる陰がさしていた。大岡は、これ以上の戦いは無謀であって、中止したほうがよかったとする立場に立つが、日本軍はこの無謀な戦いを継続させた。そのために、死ななくてもすんだはずの大勢の兵士たちが死ぬことになった、として大岡は日本の当時の指導者を批判するのであるが、当時の日本の軍部はレイテ決戦をゆるぎない前提として考えていたようなので、そう簡単には引き下がれなかったのだろう。いわば軍部の意地が、レイテ島の悲劇を拡大したのである。

神風特攻:大岡昇平「レイテ戦記」

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神風特攻が始めて実施されたのはレイテ海戦たけなわの1944年10月25日である。栗田艦隊以下の日本海軍を空から援護する目的で行われた。このときの出撃で、関行男中尉が米護送空母「セイントロー」を撃沈するなど、大いに戦果を上げたため、その後日本軍は特攻重視に傾いていったわけである。その特攻の発案者や出撃を命令した連中に、大岡は厳しい目を向けているが、特攻に従事した兵士たちについては、深い尊敬の意を表している。曰く、特攻は「民族の神話として残るにふさわしい自己犠牲と勇気の珍しい例を示したのである」と。

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