日本文学覚書

レイテ島上の地上戦を担ったのは、第14方面軍隷下の第35軍であった。第14方面軍はフィリピン全体を管轄していたが、そのうち第35軍は、ミンダナオとビサヤ諸島を担当した。レイテ決戦が軍の方針となるや、35軍の総力をレイテ島に投入し、足りないところは満州の第一師団や、ルソン島の26師団等で補ったことは先述のとおりである。

第68旅団:大岡昇平「レイテ戦記」

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第68旅団は、満州で養成された特殊部隊で、戦闘能力も高く装備も充実していたと大岡は言っている。この旅団がレイテ島の西北端カモテス海に面したサン・イシドロに上陸したのは12月7日のこと。上陸した旅団兵力を大岡は5000とか4000とか書いているが、エピローグに載せている兵力内訳には6300とある。差し引きの数字はどうなったのか、海没したのか、明記されていない。米軍の空爆にさらされながらの上陸で、人員の揚陸だけで精一杯、武器弾薬は揚陸できず、ほとんど裸の状態での上陸だった。

第30師団及び第102師団は、いずれも第35軍指揮下の部隊として、第30師団はミンダナオ島に、第102師団はセブ、ネグロス、パラワン、パナイ、ボホール島からなるビサヤ諸島に配置されていた。この中から、第30師団から一個連隊(41連隊)が、第102師団から二個大隊がレイテ島に派遣されることとなり、10月26日から同30日にかけて、オルモックに上陸した。その直後には、第一師団がオルモックに上陸している。

第26師団は、満蒙に配置されていた独立混成第11旅団を再編して作られた。独立歩兵第11連隊、同12連隊、同13連隊を中核とし、およそ13,000人の兵力を擁していた。師団長は山県中将、山県有朋の一族である。戦いぶりに臆病なところがあるというので、死地に追いやられたのだろうと大岡は推測している。「大本営は敗北を知った軍人を内地へは帰らせないのであった」というわけである。

レイテ戦は緒戦から、地上・海上で米軍に敗退し、その後の展望には暗澹たる陰がさしていた。大岡は、これ以上の戦いは無謀であって、中止したほうがよかったとする立場に立つが、日本軍はこの無謀な戦いを継続させた。そのために、死ななくてもすんだはずの大勢の兵士たちが死ぬことになった、として大岡は日本の当時の指導者を批判するのであるが、当時の日本の軍部はレイテ決戦をゆるぎない前提として考えていたようなので、そう簡単には引き下がれなかったのだろう。いわば軍部の意地が、レイテ島の悲劇を拡大したのである。

神風特攻:大岡昇平「レイテ戦記」

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神風特攻が始めて実施されたのはレイテ海戦たけなわの1944年10月25日である。栗田艦隊以下の日本海軍を空から援護する目的で行われた。このときの出撃で、関行男中尉が米護送空母「セイントロー」を撃沈するなど、大いに戦果を上げたため、その後日本軍は特攻重視に傾いていったわけである。その特攻の発案者や出撃を命令した連中に、大岡は厳しい目を向けているが、特攻に従事した兵士たちについては、深い尊敬の意を表している。曰く、特攻は「民族の神話として残るにふさわしい自己犠牲と勇気の珍しい例を示したのである」と。

比島沖海戦:大岡昇平「レイテ戦記」

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「この戦記の対象はレイテ島の地上戦闘であるが、十月二十四日から二十六日まで、レイテ島を中心に行われた、いわゆる比島沖海戦は、その後の地上戦闘の経過に、決定的な影響を与えているので、その概略を省くわけにはいかない」。大岡は、レイテ戦記の第九「海戦」の冒頭をこのように書いて、所謂比島沖海戦の模様を、かなり詳しく書いている。

レイテ島に米軍が上陸したのは昭和19年10月20日である。その時島を防衛していた日本軍は第十六師団の18600人であった。16師団はもともとルソン島の南部を担当していたが、レイテ島に米軍が上陸する可能性が高まったことを受けて、急遽レイテ島に転進したのだった。師団長の牧野四郎中将は、同年3月に着任し、同年9月には師団と共にレイテ島に移った。早速現地を視察した中将は、米軍の上陸は島東部海岸のドラグ付近だろうと予想し、そこに師団の兵力の大部分を配置した。米軍は、中将の予想通り島の東部海岸に上陸したが、まずドラグよりずっと北にあるタクロバンとパロ周辺に上陸してきた。続いてドラグにも上陸した。

大岡昇平「レイテ戦記」

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大岡昇平は、「レイテ戦記」単行本あとがきの中で、この本を書こうと思い立ったのは昭和28年だったと言っている。大岡はその前に、「俘虜記」(昭和24年)と「野火」(昭和27年)を書いている。それらは、大岡自身の俘虜体験及びレイテ島における遊兵(あるいは敗残兵)の生き様を描いたもので、フィリピンにおける戦争を、いわば微視的に描いたものだった。それに対して「レイテ戦記」は、最終的に出来上がったものを見ると、レイテ戦についての包括的なクロニクルになっている。大岡は、自らも体験したフィリピン戦線での、日本兵たちの過酷な体験に巨視的な目をむけ、その体験とその意味とを、包括的・全体的に捉えようとしたのだと考えられる。

宮沢賢治と法華経

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鎌田茂雄「法華経の読む」を手引きにして法華経のことを考えていたら、自然と宮沢賢治のことが思い浮かんだ。賢治は法華経に深く帰依していたことで知られている。その作品の中にも法華経の影響がこだましている。そんな法華経のこだまを、賢司の作品のなかから聞き当ててみると、どんなことになるか。そんなことをふと思ったので、その思ったことをとりあえず文章にしておきたい。もとより単なる思いつきの域を出ない。

大岡昇平「野火」

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大岡昇平の小説「野火」を、筆者は日本文学が生んだ最高傑作のひとつだと考えているが、世の受け止め方は必ずしもそうではないらしい。扱われているテーマが、人肉食いという陰惨な事柄であるためだろう。人肉を食うことは、大岡自身この小説の中で言っている通り、母親を犯すことと並んで、嫌悪の脅迫なしに想像することのできないこと、つまり人間として最もイモラルなことである。そのイモラルな行為を大岡は、異常で常軌を逸したものだと認めつつ、決してありえないことではないというような見地で描いている。どのような個人にあっても、一定の条件が重なれば、人肉を食うという選択が、無論良心の呵責を伴いながらではあるが、なされることに不思議はない。或は人は言うかもしれない。人を食って自分が生き残るよりは、自分自身を死神の手に差し出すほうがましだと。しかし、人間というものは、そんな理屈で割り切れるものではない。人を食うより以外選択の余地がない場合には、人はあっさりとその行為を選んでしまうものなのだ。こんなシニシズムがこの小説には満ち溢れている。それ故この小説は、一種の露悪趣味の小説とも言えるし、その限りにおいて、これに共感できる読者の幅を限定することにもなっている、というわけなのだろう。

敗戦と復員:大岡昇平「俘虜記」

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大岡昇平にとって、日本の敗戦は1945年8月10日であった。この日は、日本政府が、国体の護持が保証されるならポツダム宣言を受け入れてもよいと意思表示した日であって、降伏を決定した日ではないのだが、アメリカ軍は戦地にいる日本兵の士気を弱める意図から、日本が降伏したという情報をばらまいた。大岡ら戦地の俘虜もそうした情報を聞かされたわけだ。その日を境にして、俘虜たちの意識は敗戦モードに入っていった。大岡もその一人であったから、「我々にとって日本降伏の日付は八月十五日ではなく、八月十日であった」と言うわけなのであろう。

戦場の性:大岡昇平「俘虜記」

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戦場における性(セックス)といえば、強姦、慰安婦、男色ということになろうが、大岡昇平の「俘虜記」も、さらりとした筆致であるが、これらの事柄に触れている。これを読むと、大岡がこういう問題について、かなりクールな考えをしていることが透けて見える。

戦友:大岡昇平「俘虜記」

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大岡昇平は「俘虜記」のなかで「戦友」という章を設けて、俘虜になる前に一緒に行動していた兵隊仲間のことを書いている。それを読むと大岡が、戦友の一人ひとりについてはかなり面白くない気持ちを抱いていた一方、日本軍全体の一員としての兵士については、かならずしも悪く思っていなかったという、ある意味矛盾した気持が伝わってくる。

大岡昇平は1945年1月25日にミンドロ島の山中で米兵に拘束されてから、同年11月30日頃復員船に乗り日本へ向けて出発するまでの十ヶ月あまりを米軍の俘虜として暮らした。このうち最初の二ヶ月間はミンドロ島及びレイテ島の野戦病院で戦病者として入院生活をし、後半の約八ヶ月をレイテ島の俘虜収容所で暮らした。その日々のうち、8月15日を境として、それ以前は戦争中における純然たる俘虜の身分に、それ以降は敗戦国の残兵として復員を待つ身分におかれた。大岡が戦後初めて日本の地を踏むのは12月の中旬であるが、「俘虜記」は日本へ向かう船を描写するところで終わっている。

大岡昇平「俘虜記」

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大岡昇平は、1944年7月、35歳の時に補充兵としてフィリピンのミンドロ島に送られ、翌年の1月に米軍の捕虜になった。その後レイテ島の捕虜収容所に入れられ、そこで敗戦を迎えた。日本に復員したのはその年の12月のことである。疎開先の兵庫県に身を寄せて一段落したところで、東京に赴いて師であり友人でもある小林秀雄を訪ね、復員の挨拶をしたところ、小林から従軍記を書くように勧められた。こうした経緯を経て生まれたのが「俘虜記」である。従軍記が俘虜記になったのは、大岡の軍人としての生活よりも捕虜としての生活の方が長かったせいだ。彼にとっての戦地とは大部分が捕虜収容所だったのである。

「明暗」の書かれなかった部分

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漱石の最後の小説「明暗」は、病み上がりの津田が伊豆の温泉に湯治名目で出かけて行って、そこでかつての恋人清子と再会する場面で終っている。この小説は、先稿でも言及したように、主人公の二人の女性との関係を軸に展開していくもので、清子はその二人の女性の一人として、重要な位置づけのキャラクターだ。その重要な人物との関係がどのように展開していくか、読者としては大いに関心をそそられるところだが、その関心が盛り上がったところで、小説はいきなり中断してしまうのだ。いうまでもなく、執筆者の漱石自身が、大病に襲われて死んでしまったからだ。

漱石の女性像:「明暗」のお延

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漱石の小説に出てくる女性たちは、どちらかというと個性のない陽炎のような存在と言うイメージが強い。「虞美人草」の藤尾や「三四郎」の美弥子のような、多少の個性を感じさせる女性もいないではないが、彼女らの個性も、彼女ら自らの強い意思に従って、彼女らの内部から発せられるというよりは、男の視線を通じて浮かび上がってきたような在り方としてである。どちらにしても漱石の描いた女性たちは、男にとっての従属的な存在だというイメージを拭えない。そんな中で、「明暗」のお延だけは独特の光を放っている。彼女は、男との関係で初めて女性であるのではなく、それ自身で自立した女性として描かれている。この女性は、色々な面で複雑な性格を感じさせるのだが、その複雑性は、彼女が自立している事の反映というような具合に描かれているのである。

明暗:漱石を読む

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漱石が男女の間をテーマに小説を書く時には、一人の女と二人の男の物語という体裁をとるのが常道だった。その関係は、「それから」や「門」にあっては姦通と言う形をとり、「こころ」においては友人を出し抜いての女の略奪という形をとったわけだが、いずれにしても、三角関係をテーマとしたものには違いなかった。漱石の遺作となった「明暗」も、男と女の関係を主なテーマとしているが、それ以前とは多少異なった結構になっている。この小説では、一人の男と二人の女との関係がテーマになっているのである。

漱石夫妻と「道草」

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「道草」は漱石の自伝的小説とされていることもあって、そこに描かれた主人公の健三とその細君との関係は、実際の漱石夫妻の姿をかなり反映したものと思われてきた。たしかに、小説の中の「細君」の履歴は、現実の漱石夫人鏡子のそれと殆ど同じである。高級官僚の家に生まれたこと、公教育は小学校だけであとは家庭の中で教育されたこと、その結果世間知らずで我儘な女になったらしいことなどだ。また健三が田舎に赴任している間にこの女性と見合い結婚したとなっていることは、漱石が五高の教師として熊本にいる時に鏡子と見合い結婚したことと重なるし、健三が海外留学するについて実家に妻子を預かってもらったというのも、漱石夫妻の間に実際にあったことだ。

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