日本史覚書

「司馬史観」の名で知られている作家司馬遼太郎の日本近代をめぐる歴史観は、圧倒的な数の日本人に深い影響を与えてきた。小生は戦後まもなく生まれたいわゆる団塊の世代に属するものだが、学生時代の仲間たちと会うと、司馬史観がよく話題になる。メンバーの誰もが司馬史観に疑問をもっていない。司馬にやや距離を置いている小生などが司馬を批判しようものなら、ほかの連中から総攻撃を食らいそうな勢いだから、あえて司馬の悪口は言わないようにしている。ことほどさように、司馬は多くの日本人を呪縛しているといえる。

吉田裕著「日本人の戦争観」(岩波現代文庫)は、アジア太平洋戦争(吉田は十五年戦争という)についての、戦後の日本人の見方を分析したものである。その見方を大雑把にいうと、20世紀から21世紀への世紀の変わり目にかけて、大きな変化があるという。この時代になると、戦争を知らない世代が多数派になり、戦争を感覚的に忌避する人々の割合が少なくなったという事情を背景に、いわゆる歴史修正主義が大きなうねりとなってきた。それまでの日本人は、あの戦争を正面から肯定したり賛美したりしたことは、基本的にはなかった、ところが、あの戦争はアジア解放のための戦争だと言いつのったり、日本がアジア諸国に与えたさまざまな損害について否定したり、日本にとって都合のいい再解釈がなされるようになった。これは、根拠のないことではない、というのが吉田の見立てのようだ。日本人の間には、あの戦争を忌避する一方、日本の責任を認めたくないという思いもあったが、それを表立って言ったことはなかった。国際社会を慮ってのことだ。ところが、世紀の変わり目にいたって、そういう配慮を不要とする意見が強くなった。それが歴史修正主義の台頭をもたらしたというわけである。

小林英夫の著作「日本軍政下のアジア」(岩波新書)は、アジア太平洋戦争中における日本の占領地政策をテーマにしたものである。「軍政」という言葉が使われている通り、占領地に対する統治政策は現地日本軍による直接統治あるいはそれに近い形をとった。統治の範囲はきわめて広範囲にわたるが、この著作がカバーしているのは、「『大東亜共栄圏』と軍票」という副題にあるとおり、軍票を核にした経済政策が中心である。宗教・文化・教育の分野で遂行されたいわゆる「皇民化」政策は取り上げられていない。

吉田裕はもともと近代日本の軍事史を専攻していたそうだ。軍事史の視点から日本の近代史を読み解くというものだろう。この「日本の軍隊」と題した本(岩波新書)は、そんな吉田の会心作と言ってよいのではないか。というのも、日本の近代史を軍事的な視点から描き出した本は意外と少ないからだ。この本はそんな状況に一石を投じたものと言ってよい。

吉田裕は、日本近現代史とくに軍事史が専攻だそうだ。軍事史といえば、これまでは旧軍関係者や自衛隊関係者の専売特許だった。それには資料の制約ということもあった。その資料が近年豊富に公開されるようになって、吉田のような純粋な研究者にも事実の詳細な把握が可能になってきた。そういう学問上の背景をもとにして、軍事史研究の立場から、アジア・太平洋戦に日本が負けた理由を明らかにしたのが「日本軍兵士」(中公新書)である。これは日本軍兵士が置かれていた物理的・精神的条件を前提にすれば、日本が負けたのは必然的なことだったことを実証した著作である。

2021年は中国共産党結党100周年とあって、盛大な式典が催され、共産党総書記習近平が一時間を越える長い演説を行った。その演説は、中国の発展をたたえ、その発展を支えた共産党を賛美するものだった。演説の最後を習近平は「偉大な共産党万歳」と結び、中国の強大化に強い自信を見せた。

日中両国は、海によって隔てられているとはいえ、隣国同士としての長い関係を持ってきた。もっとも国家間の公式な関係は意外と少ない。日本が国家として積極的に中国と付き合ったのは、聖徳太子の時代から平安時代の前期100年ほどまでのほぼ300年のことで、菅原道真のときに遣唐使の派遣が停止されてからは、日本が国家として公式に中国の政府に接近することはほとんどなかった。足利義満が日本国王を名乗って中国の王朝にコンタクトしたのは、例外的なことである。徳川時代には、両国間の民間貿易は黙認というかたちで許されたが、幕府が正式に外交の窓口を開くことはなかった。

2010年に中国は日本を抜いて世界第二の経済大国になった。そのことは中国人のプライドを高めた。中国は長い間西洋諸国によって抑圧され、二流国の扱いを受けてきたが、いまはかつての世界大国としての面目を取り戻しつつある、そのような意識が多くの中国人を捉えた。その意識に支えられたナショナリズムは、日本との間に、ややもすれば敵対的な関係を作り出した。2010年9月に起きた中国漁船の尖閣諸島周辺海域における海上保安庁巡視船への衝突事件は、そうした対立を激化させるものだった。

鄧小平のあとをついだ形で中国の指導者になった江沢民は、日本に対して強い批判意識をもっていた。その批判意識が日本国民の前に強く示されたのは、1998年に国賓として日本を訪問したときだった。かれを主賓に迎えた宮中晩餐会の様子はテレビ放映されたのであるが、その場でかれは、子どもに説教するような調子で日本人への説教を繰り返したのであった。それを見た日本人は、これまで何度も謝罪してきたにもかかわらず、宮中晩餐会のような厳かな場で、なおも謝罪を要求する中国指導者に辟易させられたものである。

1989年6月の天安門事件は、中国の改革開放政策の影響と、ソ連・東欧における民主化の動きとが相乗的に作用して起きたものだった。後に鄧小平がこの事件を回想して次のように言っているとおりだ。「この風波は国際的な大気候(和平演変、社会主義体制の平和的転覆)と国内的な小気候(ブルジョワ民主化)によってもたらされ・・・党と社会主義を転覆させ、完全に西側に隷属したブルジョワ共和国を実現しようとしたものであり、遅かれ早かれやって来るものだった」(天児慧「中華人民共和国史」から引用)

中国が改革解放に向けて舵を切り替えるのは、1978年12月の中国共産党第十一期三中全会がきっかけだったと言われる。たしかにこの会議で鄧小平のイニシャティヴが確立され、改革解放への方向が基本的に定まったとはいえるが、すぐにその政策が実行されたわけではなかった。共産党の指導部には華国鋒が大きな勢力を誇っており、華国鋒自身は毛沢東の忠実な後継者として、社会主義建設への強固な意志を持っていた。ところが社会主義建設路線と経済開放とはとかく愛想が悪い。本当に経済の開放を進めるには、社会主義への頑固なこだわりを捨てねばならない。そんなことから、改革開放路線派にとって華国鋒は当面の障害になった。改革開放路線が本格的に始動するのは、鄧小平が華国鋒の追い落としに成功して以後のことである。

池田勇人のあとをついだ佐藤栄作は、実兄の岸信介同様親台湾派で、大陸との関係改善には熱心でなかった。格上の同盟国アメリカも、台湾との関係を重視し、大陸の政権を敵視していると考えていた。ところがそのアメリカが、日本の頭越しに中国との関係改善に乗り出した。1971年7月にアメリカの国務長官キッシンジャーが中国を公式訪問し、米中間の国交正常化に向けた協議をしたのである。それを踏まえ、翌72年の早い時期にニクソン大統領が中国を公式訪問し、米中関係の正常化を実現する予定だとアナウンスされた。

岸信介のあとを継いだ池田勇人は、岸に劣らず強権的なところがあったが、岸が世論から浮かび上がり、政権を失わざるをえなかった姿を見て、一転柔軟姿勢に切り替えた。「低姿勢」と「寛容と忍耐」をキャッチフレーズにして、国民にとって親しみやすい宰相のイメージ作りに腐心した。政策的には、国民の大きな関心事であった経済復興に力を入れた。「所得倍増計画」はその中核的なものである。その池田のもとで、日本は高度経済成長と呼ばれる時代に突き進んでいくのである。

アメリカはじめ連合国と日本との間の戦争を終了させ、日本の独立を回復させるための講和条約の締結を目的として1951年にサンフランシスコで会議が催された。その結果1951年9月に講和条約が締結され、翌52年4月に発効した。それによって日本は主権を取り戻した。しかしこの条約には、連合国の重要なメンバーだったソ連と中国は加わらなかった。冷戦が深刻化していたし、その爆発形態としての朝鮮戦争が進行中だったからだ。

日本の敗戦によって、朝鮮は統一国家として独立するはずだったが、そうは行かなかったのは冷戦の影響である。冷戦が表面化するのは戦後しばらくたってからだが、終戦頃にはすでに米ソ対立のきざしはあった。その対立のために、朝鮮は南北に分断される方向に進んだ。ドイツが東西に分裂する方向に進んだのと同じプロセスをたどったわけだ。

日本の敗戦によって、台湾は中国に返還され、朝鮮は独立し、日本の傀儡国家満州国は消滅した。まず台湾について、中国への返還プロセスを見ておこう。朝鮮や満州国と異なり、台湾においては、日本による統治はすぐさま崩壊したわけではなく、しばらくの間、台湾総督府もそのまま存続していた。統治権が中国に正式に返還されるのは1945年10月のことである。10月17日に蒋介石が派遣した国民政府の役人200名が、国民政府軍約1万2000人とともに、アメリカの艦船に乗って台湾に上陸し、同月25日に日本の降伏式典が行われた。それ以後台湾は、蒋介石の国民政府の統治下に入る。なお、10月25日は今でも、「光復節」として記念日になっている。

日本がポツダム宣言を受け入れて無条件降伏したという情報は8月10日に中国に伝わり、臨時首都重慶の町は喜びにあふれた。8年間に及ぶ過酷な戦争がやっと終わったのだ。それも中国の勝利という形で。日本の天皇があの玉音放送を日本国民に向けて行った8月15日には、蒋介石が中国国民に向かって勝利宣言のラヂオ放送を行った。この勝利は、欧米の連合国に日本が敗れた結果であって、中国が武力で日本を破ったわけではなかったのだが、中国ではとにかく、どんな理屈でもよいから、日本に勝利したという言説が支配したのである。

日中戦争が泥沼化する一方で、日本は別の戦争を始めた。対米英開戦である。1941年12月8日、日本海軍がハワイの真珠湾を攻撃、ほぼ平行して、東南アジアにおける英艦隊を攻撃するとともに、マレーシアからシンガポールを経てインドネシアに至る広大な地域を占領した。これによってアメリカ、イギリスが日本に宣戦布告し、世界中が連合国と枢軸国に分かれて相戦う事態となった。これを歴史学では第二次世界大戦と呼んでいるが、日本ではアジア太平洋戦争とか、あるいは(一部で)大東亜戦争などと呼ぶことが多い。

日中戦争の初期に起きた南京事件は、南京大虐殺とも呼ばれるように、日本軍による中国人軍民に対する大規模な虐殺事件として、日中戦争史を暗く塗る事件であった。しかしその全容はいまだ明らかになっていない。事件の経緯も不明確な部分があるし、死傷者の数も明確になっていない。中国側を代表すべき国民党政権が、事件の詳細を調査できる態勢ではなかったし、日本側においては、調査の意図そのものがなかった。それどころか、日本軍は南京事件について国民に知られることを嫌い、徹底した報道管制をしたために、国民は日本が南京を占領したことは知らされたが、そこで何が起きたのかについては全く知らなかった。日本国民が南京事件について知らされたのは東京裁判を通じてである。東京裁判の中で突然南京事件が裁かれたので、国民は俄には信じられなかった。その頃の日本国民は、戦争に対する被害者意識は抱いていても、対戦国の中国に対して、自分の国が言語に絶する不法行為を働いたとは、なかなか信じることができなかった。そういう気分は、いまだに影響力を及ぼしている。そういう気分がまだあるからこそ、南京事件など起こらなかったという言説が、一定の効果を持つのだと思う。

日中戦争は始まるべくして始まったと言ってもよい。日本は朝鮮半島を植民地化し、更に満州を支配下に置き、華北地方までもぎ取ろうとする勢いを見せていた。当時の日本の支配者たちに、どれほど中国を侵略する明確な意図があったか、断定的なことは言えない。歴史上の出来事から推測する限り、日本の中国政策には、かなり偶然的な側面が指摘できる。だが、大局的に見れば、日本に中国支配の野望があったことは間違いない。日本人には、秀吉以来、中国大陸を支配したいという野望があり、それを維新の元勲たちも共有していた。その野望を昭和の為政者が受け継いでいたことは不思議なことではない。

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