日本史覚書

原敬と浜口雄幸は、ともに大正デモクラシーを代表する政治家ということになっている。二人とも大正デモクラシーの落し児としての政党政治の体現者であり、政党の力をバックに政権を握った。その為すところの目的は、薩長藩閥勢力から民衆の手へと、権力を取り戻すことだった。その結果ふたりとも右翼に憎まれて暗殺された。そこから、ふたりとも命を張って日本の民主主義の発展に尽くしたという神話が出来上がったわけだろう。
大正デモクラシーの指導理念となったのが民本主義であり、その提唱者である吉野作造が良きにつけ悪しきにつけ、一時期の日本の思想界を代表したということは、大方の歴史的了解事項となっている。民本主義はその名の如く、民主主義であろうとして民主主義に徹しきれない面があることから、中途半端な政治思想であるとして、その歴史的な制約が批判される一方、当時の日本にあって、国民の政治参加をそれなりに追及したものとして、一定の評価を与える議論もある。
今日「大正デモクラシー」といえば、政党政治が実現し社会運動が展開した時期とする見方が支配的である。高校の日本史教科書にもそのように記述されている。しかし子細に検討すれば、時期や内容、あるいは歴史的な評価に至るまで、論者によってまちまちであり、統一した理解が成立しているとは言い難い、と歴史学者の成田龍一氏はいう。(「大正デモクラシー」岩波新書)
日清戦争がもたらした結果のうち最も重大なものは日本による台湾の植民地化だろう。しかし台湾の領有はそもそもの戦争目的には含まれていなかった。目的はあくまでも、朝鮮を清国の影響から切り離すことだった。それが一転して台湾割譲という事態に至ったのは、期待以上にうまくいった戦局の進展を踏まえ、一気に台湾をもぎ取ってしまうチャンスが訪れたからである。
日清戦争は明治27年(1894)8月1日に発せられた「清国ニ対スル宣戦ノ詔勅」を宣戦布告として、そこから始まったとする説が最も有力だが、異論もある。異論の主な理由は二つ。ひとつは7月25日の豊島沖海戦から日清間の戦争が実質的に始まっていたこと、もうひとつは、「詔勅」は日本国民に向けられたものであり、清国に対する戦線布告ではないとするものだ。
明治23年11月、明治憲法のもとで最初の帝国議会が招集され、以後、日本の憲政史が議会を舞台として進展していく。初期の憲政史を基本的に特徴づけているのは、薩長藩閥勢力と民党との対立である。
明治22年2月の明治憲法発布にあたり、日本各地で祝賀式が行われたが、その際に儀式を荘厳なものに盛り上げるセレモニーがいくつか導入された。日の丸の掲揚、君が代の斉唱、御真影への拝礼、そして万歳である。(牧原憲夫「民権と憲法」)
牧原憲夫「民権と憲法」(岩波書店)は、明治維新後に近代日本の骨格が形成されていく過程で、明治天皇が重要な役割を果たしたと評価している。明治天皇は薩長が自分たちの旗印として、あるいは権力の源泉として利用したという側面が強いが、薩長藩閥勢力のたんなる傀儡ではなかった。時に自分の意思を明確に表示し、国の方向に強い影響を及ぼすこともあった、と見ているわけである。

本書(牧原憲夫「民権と憲法」岩波新書)がカバーしているのは、西南戦争の終了から明治憲法下で日本的立憲体制が確立されるまでの期間である。明治維新を演じた主役たちが退場して、その後に残された脇役たちを中心に、いかにして日本という国家の形を作り上げていくか、その歴史的な課題を巡って、様々な勢力がせめぎ合い、その中から日本的な立憲体制が確立されていく過程をフォローしているわけである。

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