日本史覚書

服部が陸奥宗光を明治を代表する政治家の一人に数えたのは、陸奥自身の業績によるというよりも、原敬及び星亨という、日本の政党政治の礎を築いた人物とのつながりに注目したからであるらしい。陸奥自身の業績については、服部は、官僚としては有能だったが、政治家としては無能だったというようなことを言っている。というのも彼は、明治十一年に内乱罪で有罪判決を受けて入獄しているほど、政治音痴だったからだ。ぬかりのない政治家ならそんな目にはあわなかった、と言いたいようである。原が陸奥と初めてあったのは、陸奥が宮城監獄に入っていた明治十四年のことであった。ここで二人は意気投合したらしく、陸奥が出獄して官界に復帰するや、原は陸奥の贔屓で官界入りしている。

服部之総の「明治の政治家たち」は、原敬を中軸に据えて、何らかの程度で彼につながりのある政治家たちを取り上げている。そのメンバーは、陸奥宗光、星亨、伊藤博文、板垣退助、大隈重信、山縣有朋、桂太郎、西園寺公望といった面々である。陸奥は原の庇護者として原を政治家として鍛えた人間であり、星もやはり陸奥の庇護を受け、原とは兄弟弟子の関係にあった。また、原が活躍の舞台とした政友会を実質的に立ち上げた人物である。伊藤は、長州閥のチャンピオンかつ明治の元勲というイメージが強いが、初代の政友会総裁として政党内閣をつくった人物だ。板垣はその政友会の先祖というべき自由党の党首であったし、大隈はその板垣と対立しながら、政党政治の成熟に一定の役割を果たした。山縣は長州閥の首領としての意識が強く、一貫して政党政治に敵対した。その点では原の最大の政敵であった。桂と西園寺は、政治家としてはやや小粒だが、原の目論んだ政友会と閥族による政権のたらいまわしを担った役者である。

著者はこの本のあとがきの中で、西尾幹二なる学者について厳しい批判を行っている。著者はこの本の中で、ある学者の作成した資料を、その人の了承を得た上で掲載したのであるが、その同じ資料を西尾幹二なる学者が自分の本の中で無断で使用したのは、「常識では考えられない」といって批判しているのである。

我々日本人は、自国の歴史について独特の時代区分の様式を持っている。小学校の高学年になると教えられることだが、古代から近代までの自国の歴史を、奈良時代以降、平安時代、鎌倉時代、室町時代、安土・桃山時代、江戸時代という具合に区分する。これは権力の所在地に従った言い方である。たとえば平安時代には平安京に権力の中心たる宮廷があり、江戸時代には江戸に権力の中心たる幕府があったということを含意している。

NHKスペシャル「沖縄戦全記録」を見た。今年が戦後70周年であり、また先の大戦最後の日米決戦となった沖縄戦からも70周年にあたるというので、特集を組んだのだろう。沖縄戦については、まだ全貌が明らかにされていないと言われるので、こうした特集番組も意義を失っていないと思う。いづれにせよ、NHKとしては久しぶりに報道のプロとしての意気ごみを感じさせた番組と言える。

昭和天皇実録が公表された。全60巻1万2千頁に及ぶ膨大な量なので、読みこなすのは大変なことだ。そこで、昭和天皇について民間の立場から研究してきて、著書も出しているノンフィクション作家の保坂正康氏が、これを読む際の視点のようなものについて、サンデー毎日(10月2日号)に乗せているので(「昭和」という時代)、とりあえずはそれを頼りに、この実録の内容について、多少のイメージを結ぼうとした次第だ。

毎年8.15前後になると、アジア太平洋戦争に取材したテレビ番組が報道されてきたが、69回目の8.15を迎えた今年も、それは変わらなかった。NHKスペシャルでは、今年は「狂気の戦場ペリリュー」と題して、ペリリュー島における日米両軍の死闘について報道していた。

終戦時に朝鮮半島北部(いまの北朝鮮)にいた日本人で、そのまま現地で死んだ人については長い間何らの調査もできないままでいたが、今年初めて遺族の墓参が許され、調査の手がかりがつかめそうになった。そのことに関して先日NHKが報道した内容についてはこのブログでも取り上げたところである。(棄民:自力で脱出した日本人たち)

棄民という言葉がある。祖国によって捨てられた民という意味だ。祖国によって生活の拠り所を奪われた人々を難民と言うのに対して、棄民とは国家政策によって海外に駆り出されたまま、捨てられた人々をいう。第二次世界大戦終了時には、満州や朝鮮半島にいた多くの日本人が祖国による保護を受けられずに、現地で死んだり、ひどい目にあわされたりした。だからこの言葉は、日本の歴史の一齣を現す言葉として、作られたようなものだ。

ドイツと日本は、ともに第二次世界大戦の敗戦国として壊滅的な打撃を蒙りながら奇跡と言われるような復興を成し遂げてきた。その復興の過程には共通する面も多いが、相違する点も多い。ともあれその結果としての、両国の今日の世界における立ち位置を比べてみると、かなりな違いが認められる。その違いとはどんなもので、どんな要因によってそうなったのか。国際政治学者大嶽秀夫氏の著作「二つの戦後・ドイツと日本」は、そんな疑問に答えようとして書かれたものである。
豊下楢彦氏の「集団的自衛権とは何か」(岩波新書)は「安保条約の成立」の続編的な性格をもっているが、氏がこれを書いたのは2007年前半期のことで、その背景には当時の安倍政権(第一次)が主張していた集団的自衛権というものがあった。当時の安倍首相の主張は、「集団的自衛権を行使できない日本は"禁治産者"にも比されるべき国家であり、集団的自衛権を行使できるようになって初めて、日本は日米安保条約において"双務性"を実現し、米国と対等の立場に立つことができる」というものであった。こうした主張の中にひそむ問題点を明らかにし、日本として目指すべき外交のオルタナティブを示すことが、この書物での氏の当面の目的だったというのである。
豊下楢彦氏は、安保条約の成立に昭和天皇が強い役割を果たしたことを強調しているが、昭和天皇はそれ以外の面でも、政治的にみて非常にきわどい言動をされていたと批判している。きわどいというのは、天皇はアジア・太平洋戦争の最高責任者として言動を慎まなければならない立場にあり、しかも新憲法によって象徴とされて後は、一切の政治的立場から中立であることを求められていたにかかわらず、極めて政治的な言動をやめなかったからだ、というのである。
現行の日米安保条約は、まがりなりにも平等な二国間の対等な軍事同盟という体裁をとっている。これが締結されたのは1960年のことだが、それは1952年に締結されていた日米安保条約(旧安保条約)を改定する形で行われたものだ。改定の際の名目は、それまで片務的だった条約の精神を、双務的なものに改めようというものだった。旧安保条約は、誰が条文を読んでも、平等な二国間の関係とはとてもいえないほど、不平等であり、日本の側から見れば屈辱的な内容のものだったわけである。では何故日本側は、そんな屈辱的な条約を結ぶに至ったのか。その謎について、国際政治学者の豊下楢彦氏が綿密な考察を加えている。(豊下楢彦「安保条約の成立」~吉田外交と天皇外交、岩波新書)
保守本流という言葉は、いまでは殆ど使われなくなったが、一時期は、戦後自民党政治の中核的概念を指す言葉としてよく使われたものだ。果してそれがどんな内包を持っていたのか、歴史学者の中村正則は、次のように概括している。
1960年代の日本は世界史に例を見ないような高度経済成長を遂げた。その結果、戦後の焼け野原から再出発した日本は、短期間で世界第二位の経済大国に成長した。そんな1960年代を、日本近現代史学者の中村正則氏は、高度成長の立役者であった下村治の言葉を借りて、「歴史的勃興期」と呼んだ。まさに歴史を画するような異様な雰囲気に満ちた10年間だったといいたのだろう。(中村政則「戦後史」岩波新書)

八重の桜

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會津の女傑として知られる山本八重の生涯をテーマにしたNHKの大河ドラマ「八重の桜」が始まった。筆者はかねてから期待していたので早速見た次第だ。初回早々に會津城攻防の場面が出てきて、男装した八重が鉄砲を撃つシーンもあったりして、この先なかなか面白くなりそうなことを予感させた。

福島の原発事故をきっかけにして反原発運動が盛り上がり、首相官邸を囲んでデモが行われるなど、日本人が久しぶりに街頭に出る動きが見られた。これをとらえて、アラブの春やアメリカの「ウォールストリート占拠」運動と同じような民衆の意思表示だと見るものもいた。実際、一時期は万単位の人々がデモに加わり、大いに盛り上がりを見せたものだったが、いつとはなく尻すぼみになっていったようだ。
サンフランシスコ条約に基づくいわゆる「単独講和」が冷戦の産物だったということは、現代史学者の大方の了解事項だ。日本近現代史学者中村政則氏もそういう立場に立っている。(中村政則「戦後史」岩波新書)この単独講和によって、日本はアメリカの世界戦略に組み込まれていくのだが、そのことによって、日本の対米従属が明らかになり、また日本の戦争責任があいまいになった、そう中村氏は指摘する。以下、氏の主張の概略を紹介しながら、単独講和のもった意義について考えたいと思う。
日本の敗戦と戦後改革に関する著者の視点は、断絶ではなく連続を重視するものである。まず、敗戦については、「ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下とソ連の満州への侵攻が決定的だったとよく言われるが、果してそうだろうか」と問い、敗戦が必ずしも強いられた決定だったのではなく、日本国内に敗戦を望む潮流が成立していたことが、敗戦を可能にしたとして、日本国内の条件を重視している。
山口昌男氏の「挫折の昭和史」は、先日読んだ「敗者の精神史」とは姉妹篇のようなものらしい。前者が維新から明治にかけて生きた人々を取り上げているのに対して、こちらは昭和時代に生きた人間を取り上げている。時代的にはこちらが後だが、書かれた時期は先らしい。どちらも山口氏が深くかかわっていた雑誌「ヘルメス」に掲載された。
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