知の快楽

フーコーが「狂気の歴史」において企てたことは、狂気について、狂気そのものを語るということだった、とデリダは解釈する。しかしそんなことはできない相談だとデリダは言う。「<狂気そのものを語る>という表現は、それ自体が矛盾しています。客観性のなかへ追放してしまわずに狂気を語るということは、狂気をしてみずからおのれを語らせるということです。ところが狂気というものは、本質的に語られないものなのです」(野村英夫訳、以下同じ)

「エクリチュールと差異」に収められた第二論文「コギトと『狂気の歴史』」は、題名から推測できるように、フーコーの著作「狂気の歴史」への注釈である。批判ではなく注釈というのは、デリダはフーコーの弟子を以て任じており、師匠を批判するなどもってのほかと考えているらしいからだ。デリダは言う、「この弟子意識というものは・・・不幸なる意識となるのであります・・・まだものの話し方もわきまえていないために、とりわけ口答えなどしてはならない子供のように、いつももう間違いを抑えられているような気がするものなのです」(野村英夫訳、以下同じ)。したがって弟子が師を論じるときには、それは批判ではなく、注釈になると言いたいわけであろう。

アナクシマンドロスは、タレスと並んでギリシャ最古の哲学者とされる。ギリシャ最古ということは、ハイデガーにとっては人類最古の哲学者ということになる。何故なら、哲学はギリシャ人から始まったからだとハイデガーは考えるからだ。「アナクシマンドロスの言葉」と題した小論は、アナクシマンドロスの有名な言葉の解釈を通じて、哲学がそもそものはじめから存在への問いとして始まったことを明らかにしようとするものだ。その問いを、アナクシマンドロスと数千年を隔てたハイデガーが受け継ぎ、存在について十全な形で解明を与える手がかりとすること、それがこの小論の目的であると言ってよい。

ハイデガーのニーチェ講義第八講は「存在の歴史としての形而上学」と題しているように、ニーチェを正面から論じてはいない。また、それまでの講義録とちがって文章がこなれていない。そのため非常に読みづらい。これは、この文章が覚え書きにとどまっていることのせいであろう。読みづらいばかりか、ハイデガーの言いたいことがよく伝わってこないきらいがある。そこを我慢して読むことで、何が得られるだろうか。

ハイデガーはデカルトを、ライプニッツやカントと並んで非常に高く評価している。その理由は、デカルトが存在を人間の思惟の作用としての表象性によって根拠づけたことで、ヨーロッパの形而上学の伝統であったキリスト教的な思弁から我々を解放し、それによって哲学を真に人間中心主義へと転換させたことにあると見ている。ハイデガーは言う、「デカルトの思惟によって問題となっているのは、全人間性とその歴史を、キリスト教的人間の思弁的信仰真理の領域から、主観のなかに根拠づけられた存在者の被表象性へと置き移すという事柄なのであり、この被表象性の本質根拠から、いまやはじめて人間の近代的支配的地位は可能となるのである」(薗田宗人訳、以下同じ)

ハイデガーのニーチェ講義第五講は、「ヨーロッパのニヒリズム」と題してニーチェのニヒリズム論を取り上げながら、ヨーロッパ哲学の歴史に一瞥を与えている。ハイデガーの講義には寄り道が多いとの印象を持つのだが、この講義は特にそうで、議論はあちこちに拡散する。だいたいニーチェのニヒリズム概念の説明に当たっても、ニヒルつまり「無」という言葉の語源解釈を持ち込んだりして、それがニーチェのニヒリズム概念とどんな関わりがあるのかと、読者の首をひねらせるところがある。そのほかにも、プロタゴラスとデカルトの比較とか、アプリオリを巡る議論とか、本題であるニヒリズムを大きく逸脱するかに見える議論も含まれている。まあ、ハイデガーを読む醍醐味は、闊達に展開する議論の広がりを堪能できることにあると言っている人もいるくらいなので、これはかえって読書の興味を高める要素だと言えないこともない。

ハイデガーのニーチェ講義は九回にわたるが、第一回目と第三回目が力への意志をテーマにし、その二つに挟まれた第二回目の講義が同一物の永劫回帰に宛てられている。この三つの講義の関係は次のように言えよう。第一の講義では、力への意思が存在の究極的な本質をなすものとして提起される。第二の講義では、その存在が同一物の永劫回帰という形で現れるということを提示する。そして第三の講義では、力への意思と同一物の永劫回帰とは、基本的には同じことを、つまり存在の本質について語っているのだと結論付けられる、ということである。

ニーチェの正義論をめぐるハイデガーの議論には多少わかりづらいところがある。というのも、ニーチェ自身この正義という言葉をそう頻繁に使ってはおらず、また自分の思想の体系におけるその位置づけにもこまかく言及していないにかかわらず、ハイデガーがこの正義という概念をニーチェの思想の核心であるかのように提示しているからである。

矛盾律は、同一律及び排中律と並んで伝統的論理学の基本概念である。この三者は、同じことを別の言葉で述べたもので、要するにAというものをAとして認識するという、人間の認識構造のあり方を表現したものに過ぎない。AはAであるというのが同一律であり、AはAであってしかも非Aであることはできないというのが矛盾律であり、あるものはAであるかAでないかのいづれかであってそれ以外のものではないというのが排中律である。人間の認識はこの三つの格率に従うことにより、世界をありのままにとらえることができる。そう考えられてきたし、実際世界もそのとおりのあり方をしている、というふうに受け取られてきたわけだ。

ニーチェ自身に伝統的な意味での認識論への志向があったとは考えられないが、ハイデガーは「認識としての力への意思」を語るにあたり、トピックの性格からしてそうすべきだと考えたのか、ニーチェの認識論らしきものについてかなり突っ込んだ議論をしている。その議論を聞いていると、問題の立て方がカントの認識論を思わせるので、あたかもニーチェ自身が認識論について突っ込んだ思索をしていたように伝わってくる。

ハイデガーのニーチェ講義第三講「認識としての力への意思」は、一読しただけではわかりにくい構成になっているとの印象を受ける。冒頭から始まり大部分は、力への意思としての認識についてのニーチェの議論を中心に展開する。ニーチェによれば、認識とは真理を把握することであるが、その議論はハイデガーによれば、西洋の伝統である形而上学の枠内で展開されているということになる。形而上学とは、真理をイデアとして、つまり永遠普遍に存在するものと捉える一方、個々の現象を仮象、つまり真ならざるものとして捉える。このように真理と仮象との対立が西洋哲学の伝統的な立場なのであり、ニーチェもそれに従っているのだという主張を、冒頭から四分の三ほどをかけて行うわけだが、その後、議論は急展開して、真理と仮象との対立は実は偽の対立であって、この対立=区別は、乗り超えられるべき運命にあると主張されるようになる。その辺の議論は、実にあっさりとしていて、駆け足との印象を与えるのだが、それは、これについての詳細な議論を「芸術としての力への意思」においてすでに行っているとの前提があるからだと思われる。「芸術としての力への意思」においては、真理と仮象=見せかけの世界との対立は所詮は廃棄されるという主張でとどまってしまったわけだが、この講義では、そこから一歩進んで、真理と仮象との対立が乗り越えられたあとには、果たしてどんな事態が訪れるか、についての考察を行っている。常識的な考え方をすれば、真理と仮象との対立がなくなれば、真理そのものもなくなるだろうということになると思うのだが、ハイデガーの解釈を通じたニーチェは、そうではなく、真理は真理として残り続けると主張する。そこが読者にとって一番わかりにくい。そのわかりにくさがあるゆえに、この講義全体が、冒頭に言ったように、わかりにくい構成だとの印象をもたらすのだと思う。

プラトンは、ミメーシス(模倣)こそがあらゆる芸術の本質である、と言った。何を模倣するのか。イデアである。通常、模倣されるものは模倣するものより先立ってある。先立ってあるとは、序列で言えば上位にあるということだ。したがってイデアが体現する真理はプラトンにとって、芸術より上位のものということになる。ところがニーチェは、芸術は真理よりも上位にあると言った。そう言うことで、芸術と真理をめぐるプラトン主義を転倒しようというわけである。

ニーチェは、最初の仕事への準備中に作成した覚書のなかで、「私の哲学は、転倒されたプラトン主義である」と書いている。ハイデガーは、この言葉を手掛かりにして、ニーチェによるプラトン主義の転倒について語る。その場合問題となるのは、ニーチェが「転倒されたプラトン主義」という言葉で何を意味していたのか、ということである。プラトン主義の一変種としての転倒されたプラトン主義なのか、それともそもそもプラトン主義を転倒することで、プラトン主義とは全く異なった主義をイメージしているのか。これはどうでもよい区分ではない。どちらをとるかによって、百八十度議論の方向が違ってくるような、本質的な区分だ。だから、「転倒されたプラトン主義」について語る際には、この区分をきちんと押さえておく必要がある。

ニーチェの思想の中核概念を、ハイデガーは力への意思として捉えた。力への意思とは、ニーチェにとっては、生命ある存在者、究極的には人間についての規定性である。それをハイデガーは、力への意思は存在者の本質的なあり方、つまり存在者の存在そのものとして捉える。だが、ハイデガーのいう存在者とは、そもそも人間がこの世界で出会うあらゆる存在者をいうのではないのか。ハイデガーはピュシスという言葉を好んで使うが、この言葉は存在者の全体というニュアンスで使われている。そこには当然現存在としての人間も含まれるが、その人間が世界で出会うあらゆる存在者(その中には当然自然や歴史も含まれる)をさしていたはずだ。だがハイデガーは、ニーチェに依拠しながら、力への意思が存在者の存在の本質だと言うことによって、存在者を生あるもの、ひいては人間という存在者に限定しようとしている。そのことの弁明として、ハイデガーは、ニーチェの次のような言葉を引用する。「何か死んだものが、どうして<存在する>といえようか」

ハイデガーは、1936年から1946年にかけて、大学でニーチェについての一連の講義を行い、後にその講義録をまとめて出版した。「ニーチェ」という表題をもつこの講義録は、十本の講義を収めているが、そのうち、第六講の「ニーチェの形而上学」は、総論ともいうべきもので、ハイデガーによるニーチェ解釈の要点が述べられている。したがって読者は、まずこの講義を総論として読み、その後で他の講義を各論として読むことで、全体の理解を促進できると思う。

無についてのハイデガーの議論は非常にユニークだ。西洋の哲学の伝統にあっては、無とは存在の反対として、存在しないこと、それも、中途半端に「ない」ことをではなく、全くないこと、なにもかも存在しないことを意味する。存在の反対と言うより、存在の欠如といってよい。あるいは非存在とも言われる。ところがハイデガーは、無は存在の反対として、まったく存在と関わりをもたないのではなく、存在の一つのあり方なのだという。ハイデガーによれば、無というものが存在するということになる。なぜなら人は、存在しないものを思索することはできないからだ。ところが人は無について思索する。ということは、無もまた存在の一つのあり方だからだ、というわけである。

ハイデガーの著作「ヒューマニズムについて」は、サルトルのヒューマニズムを批判しつつ、彼自身の存在論を展開する。それを単純化して言うと、人間が存在の根拠なのではなく、存在こそが人間の根拠ということである。このことをハイデガーは次のように表現する。「人間とは、むしろ、存在そのものによって、存在の真理のなかへと『投げ出され』ているのである。しかも、そのように『投げ出され』ているのは、人間が、そのようにして、存在へと身を開き-そこへと出で立ちながら、存在の真理を、損なわれないように守るためなのであり、こうしてその結果、存在の光りのなかで、存在者が、それがそれである存在者として、現出してくるようになるために、なのである」(渡辺二郎訳、以下同じ)

ハイデガーが1947年に公開した「ヒューマニズムについて」は、副題にあるとおり、フランスの研究者ジャン・ボーフレにあてた書簡の体裁をとっている。ボーフレはサルトルの動静(「実存主義はヒューマニズムである」の刊行など)を考慮しながら、ハイデガーの哲学がサルトルの実存主義とどのようなかかわりがあるかについて問題提起し、それにハイデガーが答えるという形をとっている。ハイデガーの答えは、単純化して言うと、自分の思想はサルトルの実存主義やヒューマニズムとは関係がないというものだった。ハイデガーのこの突き放した見方が、その後サルトルの実存主義が不人気になるについて、一定の影響を与えたと見られている。

ハイデガーは「形而上学入門」の中で、ピュシスを存在者の全体、あるいは全体としての存在者と規定していた。一方でハイデガーは、ピュシスというギリシャ語がラテン語のナトゥラと訳されたことをきっかけにして、(ドイツ語を含め)現代のヨーロッパ諸語ではいわゆる自然という意味になっていることに言及しつつ、ピュシスの本来の意味は、そうした外面的なものとしての自然などではなく、存在者の本源的な在り方、つまり存在者の本質としての存在だとも言っていた。つまり、「形而上学入門」の時点では、ピュシスという語にはある揺らぎがあったわけである。

ユニークなハイデガー論である「精神について」においてデリダは、「精神」という言葉をハイデガーがどのように用いてきたか、その変遷について分析している。それによればハイデガーは、「存在と時間」の時点では、この言葉を注意深く避け、やむを得ず使う場合には引用符付きで使っていた。それが表だって使うようになったのは、有名な総長演説以降のことであり、本格的に使うようになるのは、「形而上学入門」以降のことだとしている。そこで、「形而上学入門」でハイデガーがどのようにこの言葉「精神」を使っているか、改めて注目しながら読んでみたい。

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