知の快楽

存在とはなにか、この根本的な問いについてハイデガーは、「形而上学入門」においても、言葉の文法や語源解釈という彼一流のやり方を駆使して解明してみせる。そのやり方があまりにも巧妙なので、読者はなんとなく説得されたような気もするし、また欺されているような気もする。そのへんの呼吸はハイデガー自身も心得ているようで、次のように言い訳しているほどだ。「ここでわたしが述べたことはじっさい、既に通り言葉になってしまっているハイデガー的解釈法の強引と偏狭との成果にすぎないだろう」(川原栄峰訳、以下同じ)

「形而上学入門」は、1935年のフライブルグ大学での講義を文章化して1953年に発表されたものである。これに対して、アドルノが強く反発し、その反発を梃子にしてハイデガー批判の書「本来性という隠語」を書いたことはよく知られている。アドルノがそんなに反発したわけは、ハイデガーがナチス時代における自分の生き方についてまったく反省しておらず、むしろ居直っているかのような印象を受けたからだと思われる。実際この本を読むと、あいかわらずドイツ民族優越主義を思わせる言葉があちこちにある。その点ではハイデガーは、ナチス時代と全く違っていない、そうアドルノが受け取ったのも無理のないところがある。

「プラトンの真理論(真理についてのプラトンの教説)」は、1940年に論文として発表され、1947年の「ヒューマニズムに関する書簡」に併載されたものであるが、その原型は1930/31年の講義に遡る。ハイデガーは論文化するにあたって、講義録に大幅な手を加えたと言われているが、真理の本質とは存在がそれ自身をあらわにすること、或は存在がかくれなくあらわになること、とする真理観については、同時期の講義「真理の本質について」と同じ立場に立っており、したがって思索の基本線には変更はないと考えてよい。

ハイデガーの小著「真理の本質について」は、1943年に論文の形で発表されたが、そのもとになったものは1930年の講義である。そんなこともあって、ここで展開されている真理論は、「存在と時間」における真理論の延長という性格が強い。「存在と時間」においてハイデガーは、真理を認識と実在との一致とする伝統的な考え方を批判したうえで、真理とは存在がそれ自身を隠れなくあらわにすることだと主張した。この基本的なスタンスは、「真理の本質について」においても変っていない。ハイデガーはここでも、真理は事象と言表との同調(一致)ではないとした上で、真理の本質とはなにかについて議論をしている。

論文「根拠の本質について」は、「形而上学とは何か」と同時に成立した、とハイデガーはこの論文の第三版への序言の中で書いている。「形而上学・・・」は無を熟思しているのに対して、この論文はオントロギッシュな差別をあげているというのだ。無とは「有るものでは無い」ということであり、オントロギッシュな差別とは「有るものと有との間にある無いということ」だとハイデガーは言うのだが、なぜ根拠がそうした差別と係わりがあるのか、この論文を最後まで読んでも、いまひとつしっくりしない。何となく伝わって来るのは、根拠が現存在としての人間の自由な意思に基づく選択(投企といわれる)に根差しているとハイデガーが主張しているらしいことだ。

「形而上学とは何か」は、「存在と時間」を刊行した二年後、1929年に行われた講義を、後に文集「道程」に収録したものである。筆者が読んだのは、創文社版ハイデガー全集第九巻収集のものだが、この全集版の日本語訳は、木田元が言うように問題があるようだ。特に訳語が独特で、「存在」を「有」とし、「存在者」を「有るもの」とし、現存在を「現有」としているなど、他の日本語訳と比べて、これだけがかなり変った訳し方をしている。現在一般的に言われている「形而上学とは何か」という題名でさえ、「形而上学とは何であるか」という具合に、大袈裟な感じを与える。

「存在と時間」第二編第五章は、「時間性と歴史性」と題して、主に歴史性について論じている。時間性と歴史性がどのような関係にあるのか、ハイデガーの議論は、例によってまわりくどいのだが、要するに、「時間性」が主として現存在の個別的な生き方に限定して論じられているのに対して、歴史性は現存在の共同現存在としての側面、つまり現存在と彼が属する共同体との関連についての議論だということができよう。

「存在と時間」第二編第三章で、現存在の時間性を抽出したハイデガーは、続く第四章において、その時間性についてさらに詳細に分析する。前の章での議論が、死への存在としての現存在の、一般的な時間性を論じていたのに続いて、この章では、その時間性を、現存在の本来的なあり方及び非本来的なあり方にそれぞれ対応させて、本来的な時間性と非本来的な時間性との差別について明らかにしようとするのである。時間性にこのような差別が生じるのは、現存在が通常は、日常性に陥落しているからである。その陥落は、現存在にとって、避けられない必然性をもっているので、現存在の時間性には、どうしても上のような差別が生じてしまうわけである。この章が「時間性と日常性」と題されているのは、そうした事情を踏まえたものである。

もしも人間が不死の存在であったなら、時間という観念を持たなかったであろう。かりに既に五万年生きてきた人があったとして、その人にとって一万年前の出来事と千年前の出来事とにどんな有意義な違いがあるだろうか。どちらもその人にとっては、はるか昔のことなのだし、いまさらそれらの違いについてあれこれと考えるのは意味のないことだろう。未来についても、百年先と千年先とがその人にとって有意義な違いがあるとは思えない。どちらもこれから生きてゆく無限の時間のなかでの些細な相違にすぎないのだ。時間は、人間の存在が有限であることに基づいている。時間が有限であるからこそ、人間は自分に限られた時間を有意義に使おうと努力するようになるのであるし、そこから時間を大事にしようとする姿勢が生まれてくる。時間の観念は、人間の存在の有限性に根ざしている。こう捉えるのが、ハイデガーの時間論の根本的な特徴である。

「存在と時間」の第二編は現存在の時間性(有限性)をテーマにしているということで、いきなり「死」の話から始まったあと、「良心」についての話に変る。良心は、とりあえず時間とは関係がないと思うし、良心に続く章では、現存在の時間性の分析という具合に、再び時間のテーマにもどる。こういうわけでハイデガーが何故、この部分で良心の問題をさしはさんだのか、その意図がちょっと気になる所だ。しかも、この良心の部分は、第一篇で出てきた「不安」の問題とほとんど重なるような議論をしている。わざわざそれを蒸し返してまで、なぜここで良心を論じるのか。もしかしたらハイデガーは、現存在の本質が時間性にあることを踏まえ、その時間性を本格的に論じるべき第二編で、その核心を概念として「良心」を取り上げたつもりなのかもしれない。「不安」の部分では、現存在の時間構造が明らかになっていなかったが、したがって「不安」の内実も厳密には規定できなかったが、時間性を視野に入れたこの章で、時間的な存在である現存在にとって、「不安」としてかつて現われた現象を、「良心」という形で、更に厳密に規定したい、ということなのかもしれない。

人間は死すべき存在だということは、昔からわかりきったことだ。だが、そのわかりきったことを、西洋の哲学は表立って問題にしてこなかった。むしろ、人間にとって永遠とは何なのか、というような場違いな問題設定がなされてきた。プラトンのイデア論などは、ある意味そうした場違いな問題設定の典型だったと言えなくもない。なぜなら、イデアという永遠・不変なものを存在の本質とし、人間がそれにあずかることを問題として取り上げたことで、人間が死すべき存在だという厳然とした事実から、人間の目をそらし続けてきたからである。

真理をめぐる伝統的な議論は、真理を人間の判断の作用と関連付けて論じるものだった。人間の判断の作用とは、人間の主観の働きである認識作用が、客観的な対象についてなされるときにおきるものであるが、その場合に主観的な判断が客観的実在と一致することが真理だとされた。この考え方は、一方に意識という主観的なものを置き、他方にその対象としての客観的な実在を置いて、その両者を対立させることを前提としていた。しかしこれは転倒した考え方だとハイデガーは主張する。

「存在と時間」には、キルケゴール由来と思われる概念が多く用いられている。その最たるものが「不安」である。この概念をハイデガーは、情態性を論じる文脈の中で用いている。情態性というのは、世界・内・存在としての現存在の、自分自身についての存在了解を構成しているものであり、現存在はこの情態性を通じて、自分が世界のなかに投げ出され、そこ(ダー)において存在している(ザイン)ということを了解する。認識ではなく、了解である。人は(知的な)認識を通じて了解に至るのではなく、漠然とした了解をもとにして認識に至るように出来ているのである。

「存在と時間」第一編第五章は「内・存在そのもの」と題して、世界・内・存在としての現存在の根本的な有様について分析している。世界・内・存在としての現存在は、自分が生きている世界についてすでに存在了解を持っており、この存在了解を手がかりにして世界についての認識を成立させるというふうにハイデガーは問題を提起するのであるが、それではこの世界了解とはどのような内容のものなのか。それがこの章において論じられるテーマである。ハイデガーは世界了解の内容を基本的には二つの面から見る。一つは、現存在の現存在としての自分自身についての捉え方であり、もうひとつは自分自身以外の存在者についての捉え方である。ハイデガーは、前者については情態性、後者については了解と呼ぶものを通じて解明する。

他者の問題は、デカルト以来の西洋哲学史において、最大のアポリアだった。ハイデガーはそのアポリアをいともあっさりと解消してしまう。他者は手の届かない対象のようなものなどではなく、世界内存在としての現存在の存在了解にすでに含まれていると言うのである。ハイデガーは言う、「世界を持たないような主観が、さしあたり『ある』のではなく、したがってまた決して与えられているのでもない、ということを示しました。こうして結局は同様に、他人なしの孤立した自我はさしあたり与えられていないのです」。要するに、世界内存在にとっての世界とは、そもそも他人を含んだものなのである。だから我々にとって必要なことは、すでにそこに含まれている他人というものの存在構造を明らかにすることなのだ。他人は探すべきものではなく、すでに出会われていて、その存在のあり方についての解明を待っているものなのである。

世界内存在としての現存在にとって、世界はどのような現われ方をするか。ハイデガーはまず、現存在とそれ以外の存在するものとのかかわりについて注目する。伝統的な考え方では、主観としての人間と客観としての対象とが向き合い、主観は認識の作用を通じて対象を捉える。その認識の作用は、対象を、基本的には見られるものとして捉える。そこから対象の目の前存在としての規定性が導き出される。世界とは、そのような目の前存在の集合として、認識主体たる主観に対立する、そのような構図になっていた。ハイデガーはそのような構図を根本的に見直す。ハイデガーによれは、現存在にとって、存在するものは、まず道具として現われるというのである。

世界内存在は、現存在の根本的な存在構造として、極めて重要な位置づけがされている概念だが、その重要性にかかわらず、ハイデガーの取り扱い方はあっさりしている。「存在と時間」のなかでこの言葉が始めて出てくるのは、序説の第一章であるが、そこでは「現存在には、本質的に、世界のなかに在ること、が属しています」と言及されているだけで、「世界内存在」についての詳しい説明はない。「世界内存在」が主題的に論じられる第一篇第二章では、冒頭に近い部分で、「現存在のこのような存在諸規定は、わたしたちが世界・内・存在(世・に・あること)と呼んでいる存在構えを根底にして、アプリオリに見られかつ理解されねばならないのです」と言うのであるが、ここでも世界内存在という言葉で何を意味しているのか、わかりやすい説明はない。

「存在と時間」の本論第一部は、現存在の予備的分析から始まる。現存在の予備的分析を通じて、存在者の存在についての問いに、一定の見通しを得ることがその目的だ。現存在を分析することで、存在への問いへの見通しが得られるというのは、現存在が特別の存在者として、つまり人間として、世界についての一定の了解(存在了解)をもっているからであり、その存在了解から出発して、そこに現われる存在者の様相を掘り下げて分析すれば、存在者の存在が明瞭に浮かび上がってくるにちがいない、そうした見通しがあるからだ。その見通しは根拠のないものではない。何故なら、哲学というものは、人間の行う営みなのであり、その人間の営みというのは、人間にとって利用できる前提から出発するものだからだ。その前提とは、現存在つまり人間の持っている存在了解のことだ。デカルトのように、意識によって存在を根拠付けるのではなく、存在了解という事実から存在を導き出す、それがハイデガーの基本的な立場である。

ハイデガーが言うところの現象学は、彼の師であるフッサールの現象学とは似て非なるものだ、と木田元は言った。ハイデガーは、「存在と時間」の中で現象学の意義について説明し、自分がそれをフッサールに負っていると言い、フッサールに対して敬意を表明しているが、それはハイデガー一流のへつらいであって、自分の哲学がフッサールの現象学とは何のつながりも持たないことは、ハイデガー自身よく知っていたはずだ、と言うのである。しかし、そう決め付けては実もふたもないので、現象学についてハイデガー自身が言っていることに、一応耳を傾けてみたい。

「存在と時間」の序説第二章は、全体構想の第二部で展開されるはずだった議論の概要を先取り的に説明したものである。第一部での現存在の基礎的分析を通じて浮かび上がってきた存在の根本性格である時間性、それを踏まえて西洋の伝統的な哲学を解体するというのが、第二部の基本的な目的だとされる。ハイデガーがその解体のとりあえずの対象として選ぶのは、カントからデカルトを経て古代のギリシャ哲学にさかのぼる流れである。

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