美を読む

remb03.1.29.1.1.jpg

「30枚の銀貨を返すユダ」は、ライデン時代の代表作で、レンブラントの名を広く知らしめた作品。その頃までは、ラストマン塾の同僚で一つ年下のヤン・リーフェンスのほうが評価が高かった。しかしレンブラントは、この作品を通じて、オランダを代表する画家といわれるようになる。「話し合うペテロとパウロ」で進展ぶりを見せていた明暗対比の激しい画風が、この作品では高い完成度に達したと評価されたのである。

remb02.28.1.jpg

「話し合うペテロとパウロ」と題されたこの作品もライデン時代の代表作の一つ。22歳の時の作品だ。「トビトとアンナ」は、聖書の中から劇的な題材を選んで、人間同士の葛藤のようなものを描いていたが、この作品は、二人の聖人の静かな対話を描いている。劇的とは言えないが、人間同士の関わり合いを描いているという点では、「トビトとアンナ」に共通するところがある。レンブラントは、人間の行動とか考えとかいうものをモチーフにすることを、若い頃から好んでいたということが、しのばれるところだ。

remb01.26.1.jpg

レンブラントは、18歳の時にアムステルダムのピーテル・ラストマンに師事して、自分なりの画風を確立すると、19歳の時にはライデンにもどり、画家として独り立ちした。それ以来、25歳でアムステルダムに移住するまで、ライデンを拠点に活動した。その頃すでにレンブラントは、新進画家として世間の注目を集めるようになった。

remb00.jpg

レンブラント(正式にはレンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン Rembrandt Harmenszoon van Rijn 1606-1669)はバロック美術を代表する画家である。その活躍ぶりからして、バロックの巨人と呼んでよい。バロック絵画はイタリアの天才カラヴァッジオによって完成され、強い明暗対比(キアロスクーロ)と劇的なモチーフによって特色づけられるが、レンブラントはそうした特徴を更に発展させ、バロック美術を一層深化させたといえる。

cara1610.3.1.jpg

「ゴリアテの首を持つダヴィデ」は制作年代が特定されていない。1606年頃という説もあるし、死の直前1610年とする説もある。死の直前とする説は、ゴリアテのモデルがカラヴァッジオ本人であることに着目する。この絵の中のゴリアテすなわちカラヴァッジオの表情は憔悴しきっており、しかも初老の男のようでもある。1606年ごろのカラヴァッジオからは、こういう表情は想像できない。やはり死を目前に控えた、悩めるカラヴァッジオではないかというのである。

cara1610.2.jpg

「洗礼者聖ヨハネ」は、カラヴァッジオが死んだ時に、舟の中に残されていた荷物に含まれていた。したがって彼の遺品ということになる。おそらく彼の最後の作品なのだろう。同じモチーフの絵が二点あったという。上のものはそのうちの一つである。もう一つは、特定できていない。

cara1610.1.jpg

マルタ島を脱出したカラヴァッジオは、舟でシチリア島に向かった。シチリア島には、カラヴァッジオが若い時分に弟分として付き従っていたマリオ・ミンニーティがいたので、とりあえずかれを頼った。マリオはカラヴァッジオのために絵の注文を仲介したり、けっこうカラヴァッジオの面倒をみたようだ。シチリアでは、「聖ルチアの埋葬」とか「ラザロの復活」といった大作を描いている。

cara30.1.1608.1_edited-1.jpg

カラヴァッジオにとって、ナポリは居心地がよかったはずだが、八か月あまりで去り、マルタ島に向かった。目的はマルタ騎士団の騎士になることだった。かれがなぜマルタ騎士団の騎士になりたがったのか、その理由はいろいろ推測されているが、日頃騎士を気取り、それがもとで殺人まで犯したカラヴァッジオには、騎士への強烈なあこがれがあったようだ。なお、マルタ騎士団というのは、十字軍の産物として生まれたものであり、ヨーロッパじゅうの騎士が名声を求めて集まっていた。カラヴァッジオは貴族ではなかったが、画家としての名声が、認められたのだろう、暖かく迎えられた。

cara29.1607.1.jpg

「キリストの鞭打ち」もナポリ滞在中の作品。サン・ドメニコ・マジョーレ聖堂の祭壇画として描かれた。福音書の中のキリストが鞭うたれる光景をモチーフにしている。この絵の中のキリストは、筋骨隆々とした姿で描かれており、罪人としての弱々しさは感じさせない。だが、周囲の男たちは邪悪な表情をしており、画面全体には暴力的な雰囲気がただよっている。

cara28.1.1606.2.1.jpg

1606年5月に、カラヴァッジオは殺人事件を起こしてしまう。相手はラヌッチオ・トマッソーニ。かつてフィリーデ・メランドローニを愛人にしていた男で、カラヴァッジオとは長い付き合いがあった。その二人が殺し合いをした理由は詳しくはわかっていないが、色々なことで対立していたようだ。殺し合いは一対一ではなく、数人のグループ同士だった。その乱闘でカラヴァッジオ自身も、頭部に大けがをした。この事件をデレク・ジャーマンは、「カラヴァッジオ」という映画の中で、女をめぐるいざこざからというふうに描いている。映画ではレナという女をめぐって二人は三角関係にあったが、ラヌッチオがレナを殺したと知ったカラヴァッジオが復讐したということになっている。

cara27.1606.1.jpg

ジェノヴァからローマにもどったカラヴァッジオは、教皇庁の馬丁組合から絵の注文を受けた。完成すれば、聖ピエトロ聖堂に展示されることになっていた。画家としては、聖ピエトロ聖堂に自分の作品が展示されることは最高の名誉と考えられていた。カラヴァッジオにとってもそうだったにちがいない。かれはそれまで何度も、聖ピエトロ聖堂のための仕事をしたいと思いながら、実現しなかったのだ。

cara26.1605.2.jpg

「書き物をする聖ヒエロニムス」は、カラヴァッジオがボルゲーゼ枢機卿への贈り物として描いたものだ。それにはワケがある。1605年の7月に、カラヴァッジオは傷害事件を起こしたことでジェノヴァに逃走するハメになった。相手は公証人のマリアーノ・パスクワローネ。原因ははっきりしないが、女をめぐるいざこざだったとの指摘もある。結局カラヴァッジオは、パスクワローネと示談してローマに戻ることができた。その示談の成立に、ボルゲーゼ枢機卿が一役かった。カラヴァッジオはそのお礼に、この絵を贈ったというのである。

cara25.cara1605.1.jpg

カラヴァッジオは、ナヴォナ広場付近にあるサン・タゴスティーノ聖堂から、「ロレートの聖母」をモチーフにした祭壇画の注文を受けた。バリオーネ裁判が終わった1603年頃のことで、この注文品を翌々年の1605年に納品したようである。結構時間がかかったのは、丁寧に現地取材をしたからと言われている。ロレートとは、キリスト伝説にまつわる土地で、トレンティノの近くにある。そこへキリストの生家がイスラエルから飛来してきたという伝説が生まれ、大勢の人々の信仰を集めていた。

cara24.1.1.1604.1.1.jpg

カラヴァッジオは「キリストの埋葬」と前後して、サンタ・マリア・デル・スカラ聖堂のために大作を制作した。「聖母マリアの死」である。これはカラヴァッジオの才能を評価したラエルツィオ・ケルビーニの意向によるもので、サンタ・マリアの聖堂に相応しいモチーフと考えられたわけだ。普通、聖母の死のモチーフは、「聖母被昇天」というかたちで、大勢の人々に見守られながら、天国へと上昇していく姿であらわされるものだが、カラヴァッジオはそうした伝統を無死して、まったく新たな見地から聖母の死のモチーフを描いた。

cara23.jpg

「キリストの埋葬」は、ローマのオラトリア会の総本山サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂にあるヴィットリーチェ礼拝堂を飾るために注文されたもの。この礼拝堂は、ここに埋葬されたピエトロ・ヴィットリーチェの名にちなんでいる。この礼拝堂には、カラヴァッジオのほか、当時美術の新しい流れを感じさせる作品が多数展示されており、さながら当代の現代美術館といった趣を呈していたという。ルーベンスの最高傑作といわれる「ヴァリチェッリの聖母」も飾られている。

cara22.jpg

イサクの犠牲の話は、旧約聖書の創世記にあり、そのドラマチックな展開から、文芸や絵画のモチーフとされてきた。ミケランジェロも、システィナ礼拝堂の天井画「天地創造」の一挿話として描いている。カラヴァッジオは、このモチーフを、いまに伝わっている限り二点描いているが、これは二作目で、1603年ごろの作品と思われる。

cara21.jpg

コンタレッリ礼拝堂では、聖マタイをモチーフにしたカラヴァッジオの二作品が非常に気に入ったので、祭壇画を追加で注文してきた。「聖マタイと天使」である。早速制作にとりかかり、一年近くかけて描きあげた。ところが祭壇に取り付けると、見栄えが悪すぎると言って受け取りを拒否された。そこでカラヴァッジオは代替策の制作を、契約期間内に終えた。

cara20.1.1602.0.jpg

カラヴァッジオは、聖ヨハネのモチーフが好きだったようで、折に触れていくつかの作品を描いているが、上のものはマッティ枢機卿の求めに応じて描いたらしい。枢機卿の甥にジョヴァンニ・バッティスタという少年がいたが、その名はイタリア語で「聖ヨハネ」を意味する。そこでその少年のために「聖ヨハネ」をモチーフにした絵を贈ったというふうに考えられてきたわけである。

cara19.jpg

「勝ち誇るキューピッド」(上の写真)は、ヴィンチェンツォ・ジュスティアーニのために描いたもの。ジュスティアーニは、デル・モンテ枢機卿邸の隣に邸宅を構えており、カラヴァッジオの熱心なファンの一人だった。「リュートを吹く人」のほか、「聖マタイと天使」の第一バージョンを引き取ったりした。

cara18.1.1601.1.1.jpg

1601年の夏に、カラヴァッジオはデル・モンテ枢機卿の邸宅からジローラモ・マッティ枢機卿の邸宅へ移った。ジローラモはほかの兄弟ともどもカラヴァッジオの熱心なファンで、かれらの為にカラヴァッジオは世俗的な作品を描いてやった。上の写真は「エマオの晩餐」といって、マッティ枢機卿のために描いたものである。

Previous 19  20  21  22  23  24  25  26  27  28  29



最近のコメント

  • √6意味知ってると舌安泰: 続きを読む
  • 操作(フラクタル)自然数 : ≪…円環的時間 直線 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…アプリオリな総合 続きを読む
  • [セフィーロート」マンダラ: ≪…金剛界曼荼羅図… 続きを読む
  • 「セフィーロート」マンダラ: ≪…直線的な時間…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…近親婚…≫の話は 続きを読む
  • 存在量化創発摂動方程式: ≪…五蘊とは、色・受 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…性のみならず情を 続きを読む
  • レンマ学(メタ数学): ≪…カッバーラー…≫ 続きを読む
  • ヒフミヨは天岩戸の祝詞かな: ≪…数字の基本である 続きを読む

アーカイブ