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ベラスケスは、フェリペ四世お抱えの宮廷画家として、フェリペ四世の肖像画を多く手掛けているが、この絵は、「フェリペ四世の騎馬像」と同じ頃に制作したもの。騎馬像が公的な空間で人目に披露することを目的に描かれたとすれば、これは王の個人的な鑑賞を目的に描かれたのだと思われる。

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「バルターサル・カルロス皇太子騎馬像」は、レティーロのサロンを飾る五点の騎馬像の中で最も出来の良い作品である。父王フェリペ四世の騎馬像が真横からの構図なのに対して、こちらは斜め前方から見た構図である。その為、人馬が背景から飛び出してくるような躍動感を強く感じさせる。

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レティーロ内の「王国の栄光と王たる徳のサロン」には、五点の騎馬像が飾られていた。先王フェリペ三世とその王妃マルガリータ、現王フェリペ四世とその王妃イサベル及び次代の王と嘱望される皇太子アルカーサル・カルロスを描いたものである。

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マドリード市街の東にレティーロ公園がある。これはスペイン王室の離宮として16世紀に造営されたものだ(レティーロとは離宮というような意味)。いまでは広々とした公園になっているが、かつては豪壮な建物がつらなっていた。1632年に着工し、最終的な形になったのは1640年である。中心となる建物は1635年には完成した。そこに、建物内部を装飾する目的で、膨大な芸術作品が集められた。絵画だけでも800点に上るという。

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「十字架上のキリスト」と題されたこの絵は、マドリードにあるサン・プラシド修道院の注文を受けて制作したもの。一応宗教画ではあるが、普通の宗教画とはだいぶ雰囲気が異なっている。宗教画は宗教的な厳粛さを狙うものだが、この作品は、厳粛さよりも美しさとか品格を強調している。それに応じるように、普通採用される「キリストの磔刑」という題名ではなく、「十字架上のキリスト」と題したわけであろう。

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ベラスケスは1630年の暮にローマを引き揚げ、帰国の途に就く。途中ナポリに立ち寄り、フェリペ四世の妹マリア・アンナの肖像画を制作した。王の命令によるものという。帰国したベラスケスは、バルタサール宮殿内の一角に専用の仕事場を与えられ、制作に励むようになる。1630年代は、画家としてのベラスケスにとって、もっとも充実した時代となる。

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ベラスケスがヴァティカンに住んでいたのはそう長くはなかったようだ。やがてかれはメディチ家の世話になる。そのメディチ家の邸宅は、ヴィラ・メディチといって、スペイン広場の階段を上ったあたりに、いまでもある。その邸宅の庭園を、ベラスケスは二点の絵に描いた。

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「ヨセフの長衣を受け取るヤコブ」は、「ウルカノスの鍛冶場」と並んで、ローマ滞在中に制作した二つの大作のうちの一つ。旧約聖書の創世記に取材した作品だ。ギリシャ神話と聖書との違いはあるが、どちらも物語を視覚化したもので、ボデゴンや肖像画を描いていた初期のベラスケスからの飛躍を感じさせる作品である。

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ベラスケスは、1629年7月頃から約一年半の間イタリアに旅した。フェリペ国王の裁可を得たもので、国庫の援助を受けていた。目的は、ベラスケス本人の美術研修と、現地における美術品の買い付けであった。ティントレットやティツィアーノの作品など20点あまりを買い付けている。

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24歳で宮廷画家になったベラスケスは、29歳で王室画家に抜擢された。王室画家というのは、王の身近に仕える身分で、側近といってもよかった。実際ベラスケスは、以後王の側近として、さまざまな宮廷行事に関わる一方、王の美術コレクションの監督役をもつとめることになる。つまり、画家であるとともに、役人でもあったわけだ。ベラスケスの作品が120点ほどにとどまっている理由は、役人としての時間をさかれ、画業に専念できなかったことにある。

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24歳で宮廷画家に抜擢されたベラスケスは、早速国王フェリペ四世の肖像画を制作する。その絵は国王に大変気にいられたというが、現存していない。わずか一日で描かれたという逸話が伝わっているから、おそらくスケッチ風の簡素なものだったと思われる。フェリペ四世はその時18歳であった。

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「セビーリャの水売り」と題したこの作品はセビーリャ時代を締めくくるもの。かれはこの作品を土産にしてマドリードに赴いた。それに先立ちベラスケスは、1622年4月に絵画鑑賞の旅の途次初めてマドリードに赴き、そこで旧知のフォンセーカの歓待を受けた。フォンセーカはセビーリャの出身で、師パチェーコと懇意だったため、ベラスケスとは縁があったのである。

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ベラスケスの生きた時代には宗教画が絵画の主流だったので、ベラスケスもまた、多くはないものの、宗教画を手掛けている。「東方三博士の礼拝」と題したこの絵は、彼の初期の宗教画を代表するものである。当時宗教画として人気のあったモチーフを題材にとったものだが、そこにはベラスケスの個人的な思いも込められている。かれは、この絵の中に自分の家族のイメージを込めたのだ。

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「マルタとマリアの家のキリスト」と題するこの絵は、前景に料理する二人の女を、後景に三人の人物を配した複合的な画面になっている。絵のタイトルは、後景の図柄を説明したもの。この図柄が、絵であるのか、窓を通した外部の光景なのか、それとも後の「ラス・メニーナス」を思わせる鏡の中の像なのか、断定的なことは言えない。

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ベラスケスは1617年3月に、パチェーコのもとでの6年間の修行を終えて独り立ちし、画家組合にも登録されて、画家としてのキャリアを始めた。19歳の年である。以後1623年10月に、国王フェリペ四世の宮廷画家に抜擢されるまでの6年間を、セビーリャを拠点にして活動した。

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ディエゴ・ベラスケス(Diego Velazquez 1599-1660)は、スペイン最初の偉大な画家であり、また世界美術史上に屹立する巨匠である。様式分類上は、バロック美術の巨人ということになる。強烈な明暗対比とリアルな画風は、バロック美術の完成であるとともに、近代絵画を予感させるような先駆性を内在している。

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レンブラントは1693年の10月に63歳で死んだ。その年に描いた作品の一つと思われるものに「家族の肖像」がある。この作品は当時のレンブラントの心の風景を映し出していると考えられる。というのもレンブラントは、その前年に最愛の息子ティトゥスを失い、この年の三月にはティトゥスの遺児ティティアが生まれていた。順調なら、息子の家族を暖かい目で見守ってやれたものを、という無念の気持が、この絵からは読み取れるのである。

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「ユダヤの花嫁」と呼ばれるこの絵は、レンブラント最晩年の作品だ。モデルの二人が誰をあらわしているのか、長らく議論があったが、今日ではイサクとリベカだとするのが通説だ。イサクはアブラハムの長子で、ユダヤ人の祖先とされる人だ。そのイサクがリベカと結ばれるところを描いたということだ。

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1662年の作品「織物組合の評議員たち」は、レンブラント晩年の集団肖像画の傑作。「夜警」に比べると単純な構図で、「トゥルプ博士の解剖学講義」と似た雰囲気を感じさせる。「解剖学講義」のほうは、主任教授を中心にして解剖の現場の雰囲気が如実に伝わるように描かれていたが、こちらは組合評議員の会議の様子がやはり如実に伝わって来る。

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レンブラントの数多い自画像のうち、もっとも有名なものが、この「パレットを持つ自画像」だ。晩年のレンブラントは、モデルを雇う金が無くて、自分をモデルにして描いたのだと、よく言われる。レンブラントにとって、生きることとは描くことだったのである。

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