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「キオス島の虐殺(Scène des massacres de Scio)」と題するこの作品は、ギリシャの独立戦争の一齣に取材したものだ。ギリシャの独立戦争は1820年に始まったが、それはフランス革命がもたらした自由の精神にギリシャ人が目覚めたからだといわれる。そうした精神は、当時ヨーロッパ社会がある程度共有していたものである、大部分のヨーロッパ人は、ギリシャのトルコからの独立を目指す戦いに共鳴した。みずから戦場に飛び込んだバイロンは、その象徴ともいえる人物だった。

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「ダンテの小舟」の通称で知られるこの絵は、正式には「プレギュアスに導かれて地獄のディーテの都市の城壁を取り巻く沼を渡るダンテとヴェルギリウス」という。ダンテの「神曲地獄篇」に取材した作品だ。ドラクロアはこの絵を、若干24歳で制作し、その年のサロンに出展した。大変な話題になり、ドラクロアは一躍時の人になった。作品は現代美術館として開館したばかりのリュクサンブール美術館のために、政府によって買い上げられた。ドラクロアの輝かしい出世作であり、以後かれはフランスの美術界を代表する偉大な画家に上り詰めていく。

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ウジェーヌ・ドラクロア(Eugène Delacroix 1798-1863)は、ロマン主義絵画の巨匠といわれている。そこでロマン主義絵画とはいかなるものかが問題となるが、あまり明確な定義がない。普通は新古典主義との対比において論じられるが、新古典主義の絵画が明確な形をとるのはフランスだけと言ってよいので、国際的な拡がりはもたない。一方文学の分野では、ロマン主義の運動は国際的な拡がりをもっていた。イギリスではバイロンやシェリーの詩がそれだし、ドイツではハイネが、またフランスではユーゴーがロマン主義運動の旗手といえる。絵画におけるロマン主義はそれの変形的なヴァリエーションと言えなくもない。

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フェリペ・プロスペロはフェリぺ四世とマリアナ王妃との間の長男として、1657年に生れたが、生来病弱で、四歳で亡くなった。この肖像画は、二歳のときのものである。

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ベラスケスは、マルガリータ王女の肖像画を数多く描いたが、それは婚約者レオポルド一世への成長報告として描かれたもの。「八歳のマルガリータ王女」は、その最後を飾る作品だ。

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今日「アラクネの寓話」として知られているこの絵は、20世紀の中頃までは「織女」として知られていた。王立のサンタ・イサベル織物工場での光景を描いたものとされていたのだ。ところが、20世紀中頃に、さる絵画収集家のカタログが見つかって、その中にこの絵を「アラクネの寓話」と記してあることがわかったのだ。

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「ラス・メニーナス」と題したこの絵はベラスケスの最高傑作というべき作品だ。五歳になったマルガリータ王女が、沢山の従者に取り囲まれて、ポーズをとっているように見える。だがよく見ると、キャンバスの前でポーズをとっているのは、彼女ではなく、画面の手前にいる人だとわかる。彼女を含めて、絵の中の他の登場人物も、画面にはいない人たちを見ているのである。

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フェリペ四世の妃となったマリアナは、1651年の7月に16歳で女の子を産んだ。マルガリータ王女である。マルガリータは生まれながらに、母の実家オーストリアのハプスブルグ家の皇帝レオポルドに嫁がされることになっていた。そのハプスブルグ家への成長報告として、彼女の肖像画が多く作られた。

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フェリペ四世のこの胸像画は、ベラスケスによるフェリペ四世の最期の肖像画である。フェリペ四世は、「フラガのフェリペ四世」を描かせたのを最後に、九年間もベラスケスに自分の肖像画を描かせなかった。あまりにもリアルな作風が、王としての威厳をそこなって見せていると、不満を感じたからだともいわれている。しかし、ベラスケスがその後も、王の最側近として仕えたことからすれば、王がベラスケスに強い不満を持ったとは考えにくい。

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フェリペ四世は、1649年にオーストリア・ハプスブルグ家のマリアナと再婚した。マリアナはもともとフェリペ四世の息子で皇太子であったバルターサル・カルロスの婚約者だったが、バルターサル・カルロスが死んだため、跡継ぎのいなくなったフェリペ四世が、自分の妻にしたのだった。結婚したとき、マリアナはまだ十四歳だった。叔父と姪の近親結婚であった。

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「裸のヴィーナス」は、現存するベラスケス唯一の女性裸体画である。制作時については諸説あるが、第二次イタリア滞在時とするのが説得的だ。というのも、女性の裸体画は、当時のスペインではタブーになっていて、大っぴらに描くことはできなかった。それに対してイタリアでは、女性の裸体画は絵画の主要なモチーフの一つになっていたのである。そんなイタリアの動向に刺激されて、ベラスケスがイタリア滞在中にこのエロティックな裸体画を描いたというのは、非常にありうることである。なお、ベラスケスはこの滞在中に、私生児を設けている。イタリアの開放的な雰囲気に流されたのであろう。

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1649年の秋から約二年間、ベラスケスは二度目のイタリア旅行をする。王室を飾るための美術品収集が主な目的で、そのため王室による公務出張というかたちをとった。ベラスケス用に馬車が一台用意されたほかに、美術品を運ぶための騾馬も交付されるという破格の待遇だった。

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ベラスケスはフラガ滞在中に、矮人の肖像画も制作した。王自らそれをベラスケスに命じたようである。というのも、絵の完成後に、マドリードに発送するための木箱の調達を臣下に命じているからである。おそらく王気に入りの、道化役の矮人だったのだろう。

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ベラスケスは1643年の1月に、王室侍従代に任命される。王の側近中の側近の職であり、ベラスケスが長年願っていたポストである。このポストは多忙を極め、そのために絵画制作のための時間をさかれることになった。1640年代半ば以降、ベラスケスの作品は極端に少なくなるのである。

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トーレ二階の第八室には、ベラスケスの三点の絵画が並んで飾られていた。メニッポス、イソップ、マルスの三点である。メニッポスは解放奴隷出身の風刺作家、イソップもまた同様である。これに対してマルスは、ギリシャ神話の英雄である。いづれもギリシャ人ではあるが、実在と神話という相異なった背景をもっている。この三つがなぜセットになっていたのか、たしかなことはわからない。

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「道化カラバシーリャス」と題するこの絵も、トーレ二階第一室を飾っていた作品の一点。カラバシーリャスとは、ヒョウタンを意味するスペイン語カラバスから派生した綽名であり、本名はわかっていない。経歴としては、枢機卿フェルナンドに仕えたあとで、フェリペ四世の下僕になった。

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レティーロの離宮の造営とほぼ並行して、マドリード北部郊外にあったエル・パルドの狩猟場に塔が増築された。緑豊かな丘陵地にそびえたこの塔は、トーレ・デ・パラーダと呼ばれ、その内部には170点あまりの美術品が展示された。中心となったのは、ルーベンスとその工房の作品であるが、ベラスケスの作品も11点展示された。

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レティーロ内には「道化の間」と呼ばれる部屋があって、そこには道化をモチーフにした作品が飾られていた。ベラスケスの作品も何点か飾られた。そのなかで最も有名なのが、「パブロ・デ・バリャドリード」と題するこの作品である。

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フアン・マルティネス・モンタニェースは、ベラスケスより40歳も年長の彫刻家で、ベラスケスの少年時代には、セビーリャを根拠地として活躍していた。そのモンタニェースが、1635年に宮廷より招待された。フェリペ四世の騎馬像の彫刻を作成するためである。

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ベラスケスは、フェリペ四世お抱えの宮廷画家として、フェリペ四世の肖像画を多く手掛けているが、この絵は、「フェリペ四世の騎馬像」と同じ頃に制作したもの。騎馬像が公的な空間で人目に披露することを目的に描かれたとすれば、これは王の個人的な鑑賞を目的に描かれたのだと思われる。

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