経済学と世界経済

梶谷懐は、中国経済の専門家であり、中国人民大学への留学経験もある。その梶谷が中国経済について「講義」するというわけだから、普通の読者なら、中国経済についてのかなり包括的な知識を得られると期待するだろう。中国経済について包括的に論じた入門書のようなものはないようだから、梶谷の「講義」がその期待に応えられるものならば、非常に有益な仕事といえる。

岩波の雑誌「世界」の最新号が、特集2として、「もうひとつの資本主義へ=宇沢弘文という問い」というテーマを押し出している。宇沢弘文といえば、「社会的共通資本」という概念を武器に、資本主義の限界について考察を行った経済学者であるが、新自由主義経済学が猛威をふるうようになった時代には、ほとんど忘れられた存在になっていた。それが今日脚光を浴びるようになったのは、資本主義経済の矛盾が激化し、そうした状況を踏まえた、あたらしい資本主義が模索されるようになったからだろう。自民党政権でさえ、岸田首相を先頭に、「あたらしい資本主義」を云々するようなった。もっともその言葉を発している岸田本人に、どれだけ問題がわかっているか、心もとないのではあるが。

岩波の雑誌「世界」の最新号(2023年6月号)が、「もうひとつの資本主義」と題する特集をしている。副題にあるとおり、「宇沢弘文」に関した論文が中心になっているのだが、なかに宇沢とは別の問題意識で日本の資本主義ののぞましいあり方をテーマにした面白い対談が載っている。上村達夫と原丈人の「公益資本主義とは何か」と題する対談である。上村は商法学者、原は実務家ということで、斬新な見地から日本の資本主義を見ており、頭のわるい経済学者よりずっと適切な処方箋を考えているといった感じだ。

黒田日銀総裁が引退するのにあわせて、NHKがいわゆる黒田日銀の功罪を検証する特集番組を放映した。それを見た小生は、黒田日銀はアホタワケのたぐいだったとの印象を強く抱いた。そのアホタワケが日本をおかしくしたわけで、その罪は大きい。小生がなぜ「アホタワケ」などという過激な言葉を使うかというと、それもNHKに挑発されてのことである。この検証番組の直前には、大河ドラマ「どうする家康」が放送されていたのだったが、そこで家康は信長に向かって「アホタワケ」と罵っていたのだった。信長が自分の置かれている状況を全く理解せず、味方を危地に陥れているのをたしなめたのだ。

黒田日銀総裁が二期目の任期を終えるについて、岸田政権が後任の新総裁を決めた。黒田日銀によって日本経済が大きく毀損されてきたと考えている小生としては、誰が後任になるかについて、多少の関心はあった。そこで新総裁がどのような考えの持ち主か知りたいと思ったが、いまのところ情報は限られており、正確なことはわからない。だが、新聞などの情報によれば、引き続き金融緩和を進めていきたいと考えているようなので、黒田総裁とあまり変わらないのではないかと受けとめた次第。金融緩和で景気を盛り上げると信じているようなら、黒田総裁同様、古いタイプのマネタリストなのであろう。

日本経済の長期停滞が続いている。この調子だと数年以内に、GDPの規模がドイツに追い抜かれ、現在の世界第三位から第四位に後退するだろうと予想されていた。ところが、もしかしたら今年中にもドイツに追い抜かれる可能性がある。その原因は、目下進行中の円安だ。円安が進んだことで、日本経済全体が割安となり、ドイツよりも安くなってしまうのだ。

服部茂幸の著書「偽りの経済政策」(岩波新書2017年)は、アベノミクスの一環として日銀が行った金融政策を厳しく批判したもの。その政策を服部は、時の日銀総裁黒田某の名にちなんで「黒田日銀」と呼んでいる。黒田日銀は、発足当初二年以内に二パーセントの物価上昇を、つまり適度のインフレを公約したが、四年以上たったいま(2017年時点)でもそれを達成できていない。また経済成長も達成できておらず、庶民の生活もよくなっていない。これは明白な公約違反だが、黒田日銀はその責任をとろうとしない。達成期限を先延ばしにしたり、これまで実現できなかった原因を外部事情に転化したり、無責任な姿勢をしめしている、というのが批判の主な内容である。

ガルブレイスは「ゆたかな社会」のなかでインフレーションの問題に大きな関心を寄せている。ガルブレイスがこの本を書いた時代、つまり第二次大戦後は、アメリカをはじめほとんどの先進資本主義国がインフレーションに悩んでいた。デフレが常態化していた近年の日本などでは想像もつかないが、かつては、日本でも深刻なインフレが経済学上もっとも大きな問題だったのである。

生産力があまり高くなかった初期の資本主義システムにおいては、労働力の対価たる賃金は最低水準に決まる傾向が強かった。その最低水準とは、労働者の生存を最低限保証できるものだった。その労働力の単位が、労働者個人に絞られるならば、その労働者は家族を養うことができず、したがって社会全体として労働力を再生産できなくなるから、賃金はおのずから資本主義システムが存続できるための水準に設定される。通常それは、小さな家族を養うために必要な水準に落ちつくだろう。その水準は、家族の生存に必要なぎりぎりの線であるから、それでは余暇とか教養とかは満足できない。労働者は最低の生活水準をかろうじて保てるにすぎない。

ガルブレイスは、高度に産業化した社会では完全競争の前提がなりたたず、完全競争を前提とした伝統的な経済学の考えは通用しないとした。その背景には、大企業の発展がある。大企業は、小さな企業や自営業者のように、市場に対して受動的にふるまうのではなく、市場に一定の影響を及ぼすことができる。市場の不安定な動きに対しては、それを緩和するような手段を大企業はもっている。激しいインフレなど市場の強い圧力にさらされると、小さな企業や自営業者は壊滅的な打撃をうけることがあるが、大企業にはそれをやりすごすための様々な資源がある。市場に対して受け身に対応するばかりでなく、自分から積極的に市場を支配することもできる。このような状態では、伝統的な完全競争モデルが通用しないことはあきらかである。ところが、経済学者たちはあいかわらず、伝統的な考え方にしがみついている。そうガルブレイスはいって、経済学は抜本的に変わらねばならぬと主張するのである。

ガルブレイスのいう「ゆたかな社会」論の特徴は、生産が十分に拡大した結果、人々の欲望を十分満足させる規模に達し、、そのため追加的な財の限界効用が低下すると見ることだ。限界効用を引き続き増大させためには、人々の欲望を刺激して、新たな需要を作りだせねばならない。伝統的な経済学ではいわゆる「セーの法則」が働き、生産はそれに見合う需要を作り出すとされていたが、それが通用しなくなった。生産を拡大させるためには、新たな需要を創出せねばならない。このような、需要が欲望の創出に依存するという事態をガルブレイスは「依存効果」と名付けた。

ガルブレイスの「ゆたかな社会」の邦訳が岩波から出版されたのは1978年のことだ。すぐさまベスト・セラーになった。その背景には当時の日本社会がもっていた勢いのようなものがあった。当時の日本経済はまだまだ上り坂であったうえに、ようやく人々が「ゆたかさ」を実感しつつあった。だから、豊かな社会をテーマにしたガルブレイスのこの著作は、すとんと腑に落ちるものがあったといえる。

雑誌「世界」の2021年10月号が、「脱成長ーコロナ時代の変革構想」と銘打って、地球環境を守るための特集を組んでいたが、それに斎藤幸平が「気候崩壊と脱成長コミュニズム」と題する一文を寄せた。斎藤はいまや「脱成長」論者の象徴的な人物となった感があるので、この特集を飾るものとしてはふさわしい文章といえる。

斎藤幸平は、資本主義を前提として気候変動を制御しようとする議論を否定する。資本主義は無制限の経済成長を要求する。その経済成長が資源の収奪とそれにともなう環境汚染を加速する。成長にはエネルギーが欠かせないが、そのエネルギーの増加のための活動が、地球温暖化物質の排出を加速させるからである。したがって、地球温暖化の進行をとめ、気候変動を制御するためには、成長を減速させるかあるいか成長そのものをやめるしかない。それを斎藤は脱成長と呼ぶ。脱成長を前提とした経済システムはコミュニズムしかないから、そうしたシステムは脱成長コミュニズムの形をとらざるを得ないというのが斎藤の主張である。

マルクスの思想の核心的部分は、資本主義への批判と資本主義後におとずれる社会主義・共産主義のビジョンを示したことだ。このうち資本主義への批判については、巨大な影響を及ぼしたといえる。いまでもその有効性が失われていないのは、斎藤幸平のような若い世代がマルクスの資本主義批判を受け入れていることにも現れている。19世紀の半ばごろに確立された資本主義批判の学説が、21世紀なってもまだ巨大な影響を及ぼしつづけているというのは、壮大な眺めだ。しかもマルクスの資本主義批判の影響力は21世紀になってますます高まっているように思われる。それは、モーゼの宗教がモーゼの死後数世紀を経て強固なものになったというフロイトの説を想起させる。マルクスの説も、マルクスの死後一世紀以上を経て、世界中に受け入れられたのである。

「人新世」とは、地球の地質時代区分についての用語で、今の人類が生きる地球が全く新しい地質時代に入ったことを強調するものだ。この時代の特徴は、人類の活動が地球の命運を左右するということだ。命運というのも大げさな表現ではない。環境破壊に代表される人間の経済活動のマイナス面が地球を破壊しつつあり、このまま放置すると、遠からぬ未来に地球は人間の住めるところではなくなる。その地球の破壊を推し進めている元凶は資本主義である。資本主義は人間と自然の搾取の上に成り立っているが、その自然の搾取の行き着く先に地球の破壊が待っている。だから地球を救うためには、資本主義というシステムを否定して、あらたな社会システムを作る必要がある。その社会システムとは、資本主義の本質である経済成長主義を否定して、脱成長を前提とした恒常的なシステムになるべきだ。そういうシステムを斎藤幸平は脱成長コミュニズムと呼んでいる。そしてその考えの基礎をマルクスに求めている。「人新世の『資本論』」(集英社新書)と題するこの本は、マルクス主義の再生に地球の存続可能性を託したものなのである。

このところ円安が急速に進んでいる。原因はアメリカが金融緩和政策を見直し、利上げに踏み切っていることだ。そのため、ドルが買われて円が売られる事態が起き、それが円安をもたらしている。金利の差の拡大が、為替レートの変動につながるのは、経済の道理であるから、簡単に止めることはできない。止めるためには、日本も金利を上げる必要がある。だが日本には金利を上げることができない事情がある。

雑誌「世界」の最新号(2021年11月号)が、「反平等」と銘打った特集を組んでいる。「新自由主義日本の病理」という副題をつけているから、新自由主義批判だと思ったら、思想としての「新自由主義」への批判的な分析は見られず、新自由主義がもたらした負の側面が列挙されているといった体裁である。その中には、ジェンダー間の不平等とか、外国人差別といった、今の日本がかかえる深刻な病理現象への言及はあり、それなりに有益ではあるが、新自由主義への原理的な批判が欠けているので、いまひとつ迫力がないという観は否めない。

「資本主義・社会主義・民主主義」の本文が書かれたのは1942年のことであり、その後、1946年と1949年に付録の部分が書き足された。すでに本文を書いた時点でシュンペーターは、先進諸国における社会主義化の傾向を避けられないものとして考えていたが、戦後その考えが強まったばかりか、一部の国では社会主義化が進行していると認識するに至った。しかしそういう傾向について、シュンペーターはかなり懐疑的である。

「資本主義・社会主義・民主主義」の第五部は、「社会主義政党の歴史的概観」に宛てられている。その歴史は、シュンペーターが「幼年期」の社会主義と呼ぶものから、マルクスの社会主義を経て、20世紀における各国の社会主義運動に及んでいる。それをごく簡単に要約すれば、社会主義運動は歴史の進行にあわせるかのように発展したけれど、それはマルクスの主張に沿ってではなく、資本主義を修正するような形で進んできたということである。シュンペーターによれば、マルクスは社会主義の到来を予言したことでは間違っていなかったが、それがどのようにして到来するかを、正確に予見できなかったということになる。

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