日本文学覚書

カズオ・イシグロは、日本人を両親として日本に生まれた。だから日本人と言ってもよいのだが、作家としての活動は英語で行っている。というのも、イシグロの5歳の時に一家はイギリスにわたり、それ以来イシグロはイギリスで育ち、イギリス人として自己形成してきたので、今ではイギリスに帰化してすっかりイギリス人になりきり、作家としての活動も、英語でするようになったからだという。一方、彼が生まれた国の言葉日本語は、もうしゃべれないそうだ。

二つ目の着目点である戦時下の谷崎の創作活動と言う点では、この日記が触れているのはもっぱら「細雪」である。この小説は前年(昭和18年)の1月から3月にかけて雑誌に連載しはじめたところを、「時局に相応しくない」という理由で出版を差し止められていたという経緯があった。それ故、この日記を書いていた時点では公開の見込みがなかったわけであるが、谷崎は自家判にして親しい仲間に配るくらいなら大丈夫だろうと思って、稿を書き続け、昭和19年の7月に上巻を完成して、自家判30部を印刷させた。しかしそれについても当局からなにかと介入があって、谷崎は危うい思いをさせられた。その辺の事情はこの日記では触れていないが、後に回想記(細雪回顧)の中で詳しく触れている。

谷崎潤一郎には断続的に日記をつける習慣があったが、そのうち昭和十九年一月一日から同二十年八月十五日までの分を、「疎開日記」と題して一篇にまとめている。戦争末期から終戦当日までの約一年半をカバーしている。この短い期間に谷崎は、神戸市の魚崎にあった本宅から別荘のある熱海へ、そして岡山県の津山、勝山と、疎開先を転々としている。それはまさに、B29の轟音に急き立てられながらの、より一層安全な場所を求めての逃避行であったわけだ。

先日NHKのニュース番組を見ていたら、いとうせいこうさんという人の小説「想像ラジオ」が取り上げられていて、なかなか面白そうだったから、早速アマゾンで取り寄せて読んで見た。読んでの印象を手短に言うと、アイデアは秀逸だが、ちょっと筆が追い付いていない、といったところだが、損をしたということではない。それなりに読んだ甲斐はあると思う。

谷崎潤一郎の小文「所謂痴呆の芸術について」は、義太夫の馬鹿馬鹿しさを痛烈に批判したものである。それも、谷崎が日頃懇意にしていた義太夫の巨匠山城少掾から、義太夫を擁護してくれるような文章を書いて欲しいと頼まれて書いたということになっている。山城は、谷崎の友人である辰野隆が義太夫のことを余りに悪しざまに言っていることが憤懣に耐えず、それへの反駁分を書いてもらいたいといってきたのだが、それに応えて書いた文章が、結果的には辰野隆以上に義太夫を悪しざまにいうことになったというわけなのである。

谷崎潤一郎が日本の伝統文化に深い関心を寄せていたことは良く知られているとおりで、中でも能については小説の題材に使ったり、あるいは謡曲の一節をふと文中に忍び込ませたりしているほどであるが、自分でも実際たしなんでいたようである。「月と狂言師」という小文は、そんな谷崎の能楽趣味が彷彿と伺われる作品である。

谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」は、筆者が高校生時代の国語の教科書に載っていたから、これが多分筆者の読んだ最初の谷崎作品だった。もとより全文ではなく、その一部を抄出したに過ぎなかったが、その部分と言うのが、日本家屋の特徴を論じたもので、要するに日本の伝統家屋には陰影がつきものだということを論じた部分であった。

谷崎潤一郎は関西に移住した後すっかりそこが気に入ったと見えて、空襲が激化して疎開を余儀なくされるまで住み続け、関西を舞台にした多くの作品を書いた。「卍」では、関西弁での一人称形式を取り入れるなど、関西文化に熱を入れていたことが伺われるが、その一方で、関西人の一種あくどさといったものに辟易している様子も見せていた。自然なことながら、谷崎の関西観には複雑なものがあったようだ。

谷崎潤一郎の書いた随筆というのは、自分の日頃思っていたことを、何の工夫もなくストレートに表現したものが多いので、深みと言うか、教えられるところは殆ど何もないが、しかしそれなりに読ませるところがある。その面白さは、小説と同じく、これはあくまでも作り物だよということを、読者に納得させたうえで、いわば了解づくで語りかけてくることの、無責任さから生まれるのだといってよい。そんなこともあって谷崎が随筆に手を染める時、そのテーマはおよそ肩の凝らない性格のものが多いのである。

谷崎潤一郎は、永井荷風の評価によって文壇に認められたと自覚していたこともあり、生涯荷風に敬意を払った。その谷崎が荷風の文学を正面から論じたものがある。一応褒めているといえるので、往年の借りを返したということかもしれないが、それでいてなかなか辛辣な批評を述べてもいる。「つゆのあとさきを読む」と題した小文のことである。
村上春樹の「若い読者のために短編小説案内」は、表題にあるとおり、若い人たちを対象に日本の作家たちの短編小説の魅力について語ったものだ。この本の序文の中で書いているとおり、村上は若い頃から日本文学の良き読み手ではなかったが、アメリカに暮し、プリンストン大学やタフツ大学でアメリカの学生を相手に日本文学について担当することになったのをきっかけに、日本の現代作家たちを集中的に読み、その中から感銘を受けた作品を材料にして、学生たちと一緒に読み解くことになった。その時に村上が選んだのが、第三の新人と呼ばれる作家たちと、その前後に現れた作家なのだという。
村上春樹の短編小説集「レキシントンの幽霊」は、表題作ほか6篇の短編小説を収めているが、そのうち表題作と「七番目の男」は、「ねじまき鳥クロニクル」を書いた後に、その他は、「めくらやなぎと、眠る女」を別にすれば、「ダンス、ダンス、ダンス」を書いた後にそれぞれ執筆したという。そこには五年のブランクがあるわけだが、だからと言って、短編小説集として、まとまりがないという印象は受けない。というより、それぞれの作品がかなりユニークなので、相互の比較を論じることをナンセンスなものにしてしまうのである。これはのちの短編集「神の子どもたちは皆踊る」や「東京奇譚集」に比べての、この作品集の特徴である。前二者が統一したテーマのようなものを感じさせるのに、これにはそれがないのだ。
サリンジャーの小説「ザ・キャッチャー・イン・ザ・ライ」は、村上春樹にとって特別の小説だったらしい。彼はそれを高校生の頃に野崎孝訳で読んで以来、ずっとこだわり続けてきたというようなことを言っているし、また、できたら翻訳もして見たかったともいっている。その宿願がかなって晴れて翻訳できた。そこで翻訳の協力者柴田元幸と、この小説の不思議な魅力について語り合った。それが「サリンジャー戦記」である。「翻訳夜話」の続編ということになる。
村上春樹、柴田元幸の両氏が翻訳について縦横に語った「翻訳夜話」という本を面白く読んだ。村上春樹は小説を書くかたわら膨大な量の翻訳をしており、それがまた読みやすいことで定評があるのだが、そんな彼の翻訳を縁の下で支えてきたのが柴田元幸ということらしい。というのも柴田自身がいうように、「熊を放つ」以来、村上の翻訳を英文解釈レベルでチェックし続けてきたらしいのである。それゆえ柴田は村上にとって翻訳の同志のようなもので、大いに信頼感を抱いている、そんな雰囲気がこの本の行間から伝わってきた。
村上春樹は1991年の始めから2年半をアメリカ、ニュージャージー州のプリンストンで、その後の2年間をマサチューセッツ州のケンブリッジで暮らした。そのうちプリンストンでの暮らしについて書き綴ったものが「やがて哀しき外国語」だ。「やがて哀しき」などといっているのは、自分は外国語の習得に向いていないと謙遜しているからなのだが、どうしてどうして、村上春樹は優れた翻訳者としても知られているから、あくまでも謙遜でしょう。
村上春樹作品の魅力のひとつに、メイン・プロットのほかにサブプロットがいくつかあって、それらが物語の展開に重層的な厚みを加えているということがある。「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」にもそんなサブプロットが嵌め込まれている。ひとつは灰田と云う名の青年との交流、ひとつは六本指をめぐる話だ。そしてこれらの話は、物語の展開の中で互いに絡まり合う。
ボストン・マラソンを襲った爆弾テロについて、村上春樹氏が雑誌「ニュー・ヨーカー(電子版)」にメッセージを寄せた。その中で氏は、自分が過去6回ボストン・マラソンに参加したことを引合いにだし、ボストン・マラソンがいかに素晴らしい催しであるかについて述べた後で、このテロによって傷ついた人たちや、亡くなった人の家族の感情に深い同情を寄せている。
この題名に初めて接した時、筆者はまず意味がわからなかった。「つくる」を文字通り「作る」とよんで、多崎がなにを「作る」のか、訳が呑み込めなかったからだ。その多崎が色彩を持たないというのも、訳が分からなかった。わかったのは巡礼の年ということだが、それが何故「多崎」の作るものと結びつくのか、それもわからなかった。つまりわからないことだらけの題名に映ったわけである。
「瘋癲老人日記」は昭和36年11月から翌年の5月にかけて雑誌に連載されたというから、それを書いていた、というより口述していた谷崎は、小説の主人公と同じく77歳だったわけだ。その当時の谷崎は主人公の老人同様に手がマヒして筆をとることがままならなかったので、口述筆記の形で創作を行っていたのである。その創作ぶりというのは、作中の老人が女性の足の裏の拓本をとるのに夢中になったのと、ある意味同じような意味合いの行為だったのかもしれない。谷崎は沸き出づる想念を形にすることに、老いの生きがいを感じたのではあるまいか。
谷崎のこの小説は「鍵」についてのくだくだしい言い訳から始まる。そのいいわけとは、56歳の大学教授が書いている日記のなかでなされる。その日記の中でこの老教授は、妻への色々な注文(それは主に45歳になる妻とのセックスに関することであるが)を書くのだが、それを是非妻に読んでほしいと思う。しかし自分から読むように勧めるのは気恥ずかしいので、妻が偶然この日記の存在に気づき、ひっそりと隠れて読むように仕向けたい。そのためには、とりあえずこの日記を鍵のかかるところに保存して、おいそれとは手にすることが出来ないようにしたうえで、その鍵が妻の手に、さも偶然に入るようにしなければならない、というような事情が、老教授が書き始めた日記の最初のページで、くだくだしく説明されるわけなのである。
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