漢詩と中国文化

乾道五年(1169)十二月に夔州(四川省東部)通判に任命された陸游は、翌乾道六年閏五月に郷里の紹興を立ち、同年十月に夔州に到着した。その時の旅の様子を、陸游は「入蜀記」と題する紀行文に残した。中国の紀行文学の傑作と言われるものである。

隆興元年(1163)五月に鎮江府通判に任命されて陸游は翌二年に当地に着任したが、その翌年乾道元年(1165)七月には隆興府(江西省南昌)通判に転任し、同二年(1166)四月にはついに職を免ぜられ、郷里の紹興西郊に新築した家に引きこもることになった。それ以降、乾道六年(1170)閏五月に新任地夔州(四川省)に向けて出発するまでの4年ほどのあいだ、陸游は浪人生活を送った。

隆興元年(1163)、陸游は政事堂に召され、機密文書二通の作成を命じられた。いずれも金との戦争に深くかかわるものであった。一つは、西夏の国主に贈る書簡であって、宋と協力して金を亡ぼそうと呼びかける内容であった。
初めての仕官を終えて郷里に戻った陸游は、紹興30年(1160)中央勤務に抜擢され、以後4年間、勅令所刪定官、大理司直、枢密院編修官などを歴任、同32年(1162)には、新たに皇位についた考宗に召見され、進子出身の資格をたまわる。同年には家族を臨安に呼び寄せてもいる。陸游の生涯でもっとも充実した時期だったといえる。
二年ほど福州での勤務をした後、陸游はいったん故郷の紹興へ帰ることになった。次の職への拝命を待つためである。そこで正月に福州をたった陸游は、紹興を目指して北へ向かった。その北帰行の途中東陽を過ぎた。浙江省金華県である。初春のことで、酴醾(とび)の花が咲き誇っていた。それを見た陸游は一篇の詩を作った。「東陽にて酴醾を觀る」である。
紹興28年、陸游はついに出仕することとなり、寧徳県主簿を拝命した。寧徳県は福建省にある、主簿とは県の庶務担当のような職である。そこへ赴任する途中、温州付近の瑞安県を通りがかった。その時に作ったのが「泛瑞安江風濤貼然」である。
紹興二五年(1155)和平派の宰相秦檜が死ぬ。それをきっかけに高宗の親政が強まり、様々な意見が徴せられるという噂が広がった。その噂をきいた陸游は、自分らの意見が用いられ、やがては金に勝って失われた領土を回復できるかもしれないと、希望を抱いた。実際、陸游は時代の波に乗るようにして、紹興二八年には出仕できることとなる。
紹興23年、29歳の歳に、陸游は科挙の地方試験たる両浙漕試に主席合格するのだが、翌年行われた中央試験(省試)で落第してしまった。前例によれば、地方試験で主席合格したものが、中央試験で落第することはないのであるが、時の宰相秦檜が、自分の孫を首席で合格させ、陸游を落第させたのであった。
陸游は夢を詩の題材にとることが多かった。そのなかで、沈園での唐婉との出会いは、何度となく夢見たらしく、それを詩の題材にしたものがいくつかある。開喜元年(1205)81歳の時に作った詩(絶句二首)も、そんななかの一つだ。
慶元五年(1199)75歳の春、陸游は沈園を再訪した。40年前に訪れたときには、思いがけず愛する人唐婉と出会ったのだったが、今は無論誰とも出会わない。
陸游は20歳の頃結婚した。相手は母親唐氏の姪で、唐婉といった。二人は非常に睦まじく愛し合ったが、そのことが母親の嫉妬をかったのかもしれない。唐婉は母親によって追い出されてしまったのである。
淳熙十四年(1187)63歳の時に、陸游は当時の任地厳州において初めて詩集を刊行し、剣南詩稿と名付けた。剣南とは蜀の異名である。陸游にとって蜀は、壮年時代の8年間を過ごした懐かしい土地であるとともに、金と対峙する第一線の地でもあった。それ故陸游にとっては、色々な意味で忘れられない土地であった。その土地の名を自分の詩集に冠したのには、陸游の蜀への深いこだわりがあることを感じさせる。
陸游の父陸宰は、宣和7年に都へ出仕すると、京西路(河南省に相当)転運副使(交通・経済省副長官)に任命された。そこで陸宰は大家族を伴って洛陽を目指したが、その途中にある滎陽という町に一時寓居することとした。しかし、そのことが職務怠慢の批判を招き、陸宰は免職になってしまった。

陸游の誕生

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陸游は宋が金によって滅ぼされる前年、淮河を行く船の中で生まれた。淮南路転運副使だった父の陸宰が任期を終え、任地の寿春(安徽省)から都の開封へ向かう途中だった。
陸游が生まれたのは宣和7年(1125年)である。その翌年宋は女真族の国家金によって滅ぼされ、さらにその次の年、宋の亡命政権が南宋と言う形で発足する。陸游はこの南宋時代の前半を生きた人だということになる。

陸游を読む

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陸游は南宋を代表する大詩人である。単に南宋を代表するばかりか、中国の文学史上に屹立する巨人である。その名は、唐の李白、杜甫、白居易、韓愈そして北宋の蘇軾と並び、唐宋の六大家と称される(乾隆帝勅撰「唐宋詩醇」など)。
常州に向かう船の中で、大病(おそらくアメーバ赤痢)にかかった蘇軾は、やっとの思いで常州に到着すると、ついに臨終の床についてしまった。そこへ親友の銭世雄が一日おきに蘇軾を見舞った。蘇軾は晩年に書き溜めた文章(論語、書経、易経の注釈書など)を銭に託し、自分の死後三十年たったらそれらを公刊するようにと指示した。
元符三年(1100)の夏、海南島から海を超えて廉州に到着した蘇軾は、今度は永州(湖南省)に移住するように命じられた。そこで蘇軾は、広州で家族と落ち合い、皆で湖南省へ向かおうとした。
蘇軾は海南島で一匹の犬を飼っていた。海南島を出るとき、蘇軾はこの犬も連れて行った。一行が澄邁駅を過ぎたとき、川の流れがあった。そこには長い橋が架かっていたが、犬はその橋を渡らずに、川を泳いで渡った。その様を見て、駅の人々はみな驚いたという。

元符三年(1100)正月、哲宗が死んだ。哲宗の後は弟の徽宗が継ぐことになるが、権力交代の半年ばかりの移行期の間、徽宗の母向氏が摂政として統治した。この期間は、蘇軾ら旧法党のメンバーにとって、わずかな間ながらも、幸運な時期になった。というのも、向氏は章敦ら新法等の指導者のやり方を日頃から憎んでいて、摂政になるや否や、彼らを追放してしまったからである。

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