知の快楽

マニュファクチャーから大工業への発展は、機械によって媒介される。マニュファクチャーは、文字通り人間の身体が生産の主体であった。人間が直接生産物を作るのであって、それに労働手段が、文字通り手段としてかかわっていたに過ぎない。主人は人間であって、労働手段はその付随物だった。ところが大工業は、この関係を逆転させた。機械が主人となって、人間はそれに付随するものとなった。主人は機械であり、人間は機械によって使われる従者になるわけだ。その関係を象徴的に表現したものとして、ルネ・クレールやチャーリー・チャップリンの映画がある。これらの映画(「自由を我らに」や「モダン・タイムズ」)は、20世紀のものであり、機械工業はマルクスの見ていたものとは比較にならぬほど発展していたが、人間が機械に使われるという点では、基本的な違いはないのである。

剰余価値は、剰余労働からもたらされる。したがって、剰余価値を増大させるためには、剰余労働の絶対的な長さを拡大すればいいわけだ。それはとりあえずは、労働日の延長というかたちをとる。労働日は、マルクスによれば、必要労働時間と剰余労働時間からなっているが、必要労働時間を所与とすれば、労働日の延長は剰余労働時間の延長につながる。これによってもたらされる剰余価値をマルクスは絶対的剰余価値と呼んでいる。

労働者の一日あたりの労働時間を、マルクスは労働日の問題として取り上げている。労働日はどのようにして設定されるのか。資本の側からすれば、労働日は長ければ長いだけよい。しかし一日には二十四時間という時間的な限界があるし、一人の労働者を休みなく働かせることもできない。一方労働者の側からすれば、労働日は短ければ短いほど良い。その下限は、労働力の交換価値を生みだす労働量に一致するであろう。その水準でならば、労働者は自分の本来の価値で労働力を売ったことになるが、しかし資本家の為の剰余労働を生み出すことはない。そんなわけで労働日は、二十四時間を上限とし、必要労働を下限とする範囲内で決まることになる。それを決めるのは、資本と労働との間の闘争である。

資本家の目的は剰余価値の取得である。剰余価値とは、生産物を売った結果得られる収入が、生産に必要とされた費用を上回る部分で、今日の主流経済学はこれを利潤と呼んでいる。主流経済学は、利潤率を生産のために投下された総費用との関係において計算するが(利潤率=利潤/労賃を含む生産に必要な総費用)、マルクスは剰余価値について全く違う計算の仕方をする。

マルクスは剰余価値の分析を、労働過程の分析から始めている。剰余価値を生むのは人間の労働だからである。だが労働がそのまま剰余価値を生むわけではない。剰余価値を生むのは、商品としての人間労働である。その商品としての人間労働=労働力を、資本がその価値に応じた価格で買い取り、その使用価値としての労働を消費することで剰余価値を生みだすわけである。

資本とは何かについて、マルクスは形式的な定義はしていないが、商品流通から生まれ、貨幣という形態をとり、しかも自己を増殖するものというふうに捉えている。単純化して言えば、自己の価値を増殖する貨幣(自己増殖する貨幣)ということになる。資本が貨幣であるのは、資本主義社会においては、貨幣こそが価値の一般的な現象形態であるからだ。

マルクスの貨幣論の特徴は、貨幣を特殊な商品と見ることである。あらゆる商品には、他の商品に対する等価物としての機能があるが、この機能が一般化して、他のあらゆる商品に対する一般的等価物になったものが貨幣だとマルクスは見るのである。そのようなものとして、諸商品の価値の尺度となることが貨幣の基本的な機能である。この機能にもとづいて、流通手段としての機能や支払い手段としての機能が付加される。それに付随して、貨幣の蓄蔵とか信用取引といった現象が生じるとされる。

資本論第一篇第一章第四節「商品の呪物的性格とその秘密」と題した部分は、のちに物象化論についての議論を巻き起こした。マルクス自身はこの部分で「物象化」という言葉は使っておらず、商品の呪物的性格あるいは呪物崇拝という言葉を使っているが、内容的には同じである。そこで物象化の概念的な内容を一応定義しておく必要があろう。

資本論は商品の分析から始まる。商品というのは、交換つまり売買を目的に生産されるもので、当然価格がついている。マルクスはその価格の根拠としての人間労働を考察したうえで、その人間労働の受肉したものが価値だとした。労働価値説である。労働価値説は、マルクスが経済学研究を始めた頃には、経済学の常識になっていた。その労働価値説にもとづいて、商品の価値を分析し、商品の取引の過程を通じて特殊な商品としての貴金属が貨幣に転化するさまを分析した。更にその貨幣が資本へと転化する過程を追っていくのであるが、その叙述の方法はヘーゲルの論理学のそれを強く感じさせる。マルクスのそうしたところについては、資本論とヘーゲル論理学の比較として、興味深いテーマになるだろう。

マルクスの経済学研究の成果は、「資本論」という形で現われる計画であった。その全体像のうち、マルクスの生前に公表されたのは、今日「資本論」第一部とされている部分であり、残余の部分については、エンゲルスの手によって、「資本論」第二部及び第三部という形で公表されたことは周知のとおりである。

マルクスの思想が人類史上に持つ意義は、資本主義社会の歴史的な性格を解明し、それには始まりと終わりがあると指摘したことだ。資本主義社会が、歴史上の一時期に成立した限定的なものであって、やがては終末を迎えると指摘したことは、大方の人間にとってはショッキングなことだった。とりわけ社会科学者を自認している連中は、資本主義こそは永遠に持続するものであって、それに代替する制度はあり得ないと思っているから、マルクスの主張はスキャンダラスでさえあった。そういう意味では、ニーチェと似たところがある。ニーチェはキリスト教道徳の起源と、その歴史的な制約性を指摘し、キリスト教徒が考えるような永遠不変なものではなく、かえって粉砕すべきできそこないの制度だと指摘した。マルクスもまた、資本主義社会を粉砕すべきだと主張したわけだが、ニーチェがキリスト教への敵愾心から、その粉砕を主張したのに対して、資本主義社会には、崩壊へ向かっての衝動というか、必然性があると主張したのだった。

マルクスほど現代思想に大きな影を落とした思想家はないであろう。影響といわず単に影というのは、その影響の仕方に複雑なものがあるからだ。マルクスの思想に共鳴して、それを自己の思想的な基盤に据えるような、いわばプラス方向での影響もあれば、その思想に反発して、なんとかそれを無力化しようとするマイナスの方向での影響もある。どちらにしても、マルクスは熱く論じられてきた。その最大の理由に、マルクスの思想が現実の歴史を動かしてきたということがある。ソ連はじめ20世紀に成立した社会主義国家が、どれほどマルクスの思想を実現したのか、議論の余地はあるが、まがりなりにもマルクス主義の名を掲げたのであったし、資本主義を擁護する思想家たちも、マルクスの思想的意義に鈍感ではありえなかった。かれらはかれらで、マルクスを意識しながら、資本主義体制の美点を強調せざるを得なかったわけだ。

「資本論」の叙述がヘーゲルの論理学を強く意識していることはよく知られている。ヘーゲルの著作「大論理学」は弁証法と呼ばれる方法で貫かれている。マルクスはその弁証法を参考にしながら、自分なりに資本主義経済を叙述してみせた。もっともヘーゲルの弁証法には、精神的なものが自分自身を外化するというような観念論的な倒錯があるわけで、そのままには使えないとマルクスは考えた。観念論的な倒錯を再倒錯させて、唯物論的な立場から弁証法を展開する。それをマルクスは弁証法的な唯物論とか、史的唯物論と呼んだのだった。

「経済学批判要綱」は、1857年から翌年にかけて執筆された。それまでの経済学研究の成果を踏まえ、本格的な書物の出版に先駆けて、足慣らしのようなつもりで書いたようである。本格的な経済学の書物は、1859年に「経済学批判」と題して出版された。マルクスのこの要綱は、序説と本文からなり、本文は貨幣と資本の章からなる。序説の部分については、岩波文庫版の「経済学批判」(武田外訳)の付録として、「経済学批判序説」の題名で収められている。

マルクスの貨幣論の基本的な特徴は、金本位主義というべきものだ。貨幣としての金にも固有の価値がある。金は特殊な商品であり、商品として使用価値と交換価値との統合したものである。その交換価値は一定量の労働が凝固したものだ。そういう観点から、市場における貨幣としての金の流通量は、市場に出回っている商品全体の交換価値に匹敵すると考える。貨幣としての金は、一度だけではなく何度も使われるから、流通手段として実際に必要な金の量は、流通速度を勘案したうえで、商品の総価格に対応したものになる。金の総量が商品価格の総量より上回れば、不要な部分は蓄蔵されることになる。その反対のケースを、マルクスは詳しく取りあげてはいないが、おそらく別の形で補填されると考えていたのではないか(信用取引など)。

マルクスの「経済学批判」は、商品一般から特殊な商品としての貨幣が生まれ、それが資本に転化していく過程を分析している。その分析を支えるのは労働価値説だ。労働価値説はアダム・スミスやリカードといったブルジョワ経済学者がそもそも採用したものだが、その後継者というべき現代の主流派経済学は、もはや考慮に入れていない。というか不用の仮説として全く採用していない。そのかわりに需給関係のみにもとづいて商品の価格が決定されると想定している。商品に認められるのは価値ではなく、ただの価格だ。価値は実在的な要素だが、価格は単なる徴標にすぎない。なぜそうなるのか、マルクスの「経済学批判」を読めば、その成り行きがよく見えて来る。

「経済学批判」は、マルクスの経済学研究の最初の本格的な成果である。マルクスが経済学の研究に向った動機は、近代社会の本質を理解する鍵は経済の分析にあると思ったからだった。何故なら人間社会というものは、経済的な関係を土台として、その上に展開しているからだ。そのことをマルクスは、この書物の有名な序文のなかで指摘している。その部分は以下のようなものだ。

マルクスの「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」を半世紀ぶりに読み返した。以前には岩波文庫版で読んだのだったが、今回は平凡社版で読んだ。翻訳者(植村邦彦)によると、岩波文庫版は第二版を底本にしておるそうだが、初版に比べると削除・簡略化が多いとのこと。その結果、初版に見られた「同時代の臨場感あふれる饒舌さ」が失われた。そこがもったいないと思うので、あえて初版による翻訳を試みたということである。

マルクスとエンゲルスは「共産党宣言」の中で社会主義理論の批判を行っている。社会主義理論には様々な形態があると彼らは言い、それらを分類しているのであるが、分類の基準は階級である。没落しつつある階級(貴族階級など)の社会主義は反動的な社会主義であり、勃興の過程にあるブルジョワの社会主義は保守的社会主義であり、中産階級の社会主義は空想的社会主義である。それらに対してプロレタリアは基本的には共産主義を目指す。それゆえ社会主義はプロレタリアにとって、乗り越えられるべきものである、というのが彼らの見方であった。

マルクスとエンゲルスが「共産党宣言」を書いたのは1848年のことだ。それから170年たった現在でも、この本は読む価値がある。歴史的な文献としてではなく、社会の分析と変革への重要な手引きとしてだ。この本は資本主義社会の基本的な特徴を分析したうえで、それを変革するための条件と、変革の主体について明らかにしている。この本が主張していることは、資本主義社会とは、ブルジョワジーとプロレタリアートの二大階級からなる社会であり、最終的にはプロレタリアートがブルジョワジーを倒して共産主義社会を打ち立てるというものだ。マルクスとエンゲルスはそうした主張を、単に願望としてではなく、歴史的な必然として提示したのだった。

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