知の快楽

木村敏の共通感覚論

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共通感覚は、すでにアリストテレスが取り上げているほどだから、哲学上の古いテーマであったわけだが、その割に論じられることは少なかった。近世になると、デカルトが常識との関連で論じ、またヴィーコが人間の判断との関連で論じたが、哲学上の主要テーマとなるには至らなかった。これが主要なテーマとなったのは、哲学ではなく、精神病理学の分野においてだった。1970年代に盛んになった現象学的精神病理学において、共通感覚が、心の異常を解く鍵を握るものとして、俄かに注目を浴びたのである。日本においてその議論をリードしたのが、木村敏だった。哲学上の共通感覚論といえば、日本では中村雄二郎の議論が有名だが、それは木村敏の議論に触発されたといってもよい。

人と人との間:木村敏の日本人論

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木村敏にとって「人と人との間」という概念装置は、精神病理現象を解明するための最初の手がかりになったものだが、彼はこれを、日本人のメランコリー親和性の分析を通じて導き出した。木村によれば、日本人というのは、西洋人と比較して非常にメランコリーになりやすい傾向がある。なぜそうなのか。メランコリーというのは、対人関係の気遣いに主な原因があって、他人に対して非常に気を使うことから起こる。つまり、他人に対してすまないことをしたような場合に、自責の念に駆られて意気が消沈する、そうした事態を称してわれわれはメランコリーというのだが、日本人は特にそれにかかりやすい。それは日本人が、規範の源泉を人と人との間から汲み取り、人と人との間に成立する拘束性に基づいて行動しているからだ、と木村はいうわけなのである。

木村敏と現象学的精神病理学

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精神疾患へのアプローチには、伝統的に二つの大きな流れがあった。ひとつは、精神疾患の原因を、脳など中枢神経系を中心とした身体の特定の部位の変調に求め、したがって治療方法も薬物投与などの物理的な手段が中心となる。これは、客観的あるいは科学的アプローチといってよい。それに対して、精神疾患の原因を心の変調に求める立場である。これは主観的あるいは心理的アプローチといってよい。20世紀の後半まで、この両者は互いに拮抗しあっていたのだが、近年は科学的アプローチが主流となってきて、心理的アプローチは旗色が悪くなってきたといわれる。そんななかで、心理的アプローチの有効性にいまだにこだわっているのが、精神病理学者で、しかも精神科医でもある木村敏である。

廣松渉のハイデガー論

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ハイデガーの哲学史上の意義についてはさまざまな評価があるが、いづれにしても、彼の思想が二十世紀の哲学に深刻な影響を及ぼしたとする点では異論がないであろう。或る意味、ハイデガーとは対極的な立場をとる廣松渉でさえ、その哲学史上の意義を高く評価している。それは、単純化して言えば、ハイデガーが、西洋哲学の伝統的な枠組を根本から覆し、まったく新しい枠組の可能性を、広く認識させたということにある。

廣松渉のメルロ=ポンティ論

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廣松渉は、「メルロ=ポンティと間主体性の哲学」と題した論文の中で、自分の立場と比較しながら、メルロ=ポンティの哲学の特徴と限界について論じている。そのメルロ=ポンティの哲学の特徴を廣松は「身体に定位せる間主体性の哲学」と簡潔に表現しているが、けだし言い得て妙な表現といえよう。

廣松渉の表情論

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廣松渉の表情論は、哲学的な議論としてはかなりユニークである。表情という言葉で、人はふつう顔を思い浮かべるであろう。顔があるのは、人間や、せいぜいが動物などの生き物だから、表情が認められるのはそうした生き物に限られる、と思いがちだが、廣松の場合には、生き物に留まらず、森羅万象あらゆるものに表情があるという。あるいは表情性があるのだという。

廣松渉の弁証法

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廣松渉は弁証法について、それを論ずるに留まらず、実際に実践してみせた。わかりやすい例が、彼の主著「存在と意味」である。この浩瀚な書物は、文字通り存在と意味について壮大な論理展開をしているのであるが、目次を一瞥しただけで、これがヘーゲルの「大論理学」とマルクスの「資本論」を踏まえた体裁になっていることが読み取れる。「大論理学」も「資本論」も、弁証法的な論理展開を繰り広げていることで知られるが、廣松もそれらにならうことによって、自らの壮大な理論体系を弁証法的に展開してみせたわけである。

廣松渉の物象化論

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廣松渉のマルクス受容は、物象化論を中心に行われた。廣松以前におけるマルクスの哲学的解釈は「疎外論」を中心にしたものが多かったわけだが、廣松はそれを「物象化論」を中心にしたものに転換させたのである。

廣松渉の真理論

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西洋哲学の伝統においては、真理は主観と客観、認識と存在との一致の問題として考えられてきた。主観的な意識内容が客観的な意識対象と、あるいは主観的な認識作用が客観的な存在と合致すること、それが真理であるとされてきた。ところが廣松は、そうは考えないという。真理について主題的に論じた著書「存在と意味」のなかで、廣松は次のように宣言する。

廣松渉の存在論

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廣松渉の主著「存在と意味」は、廣松なりの流儀で、認識論と存在論との間に橋渡しをし、人間の認識と世界の存在とを整合的・一体的に説明しようと試みたものである。というのも、この二つは西洋哲学の歴史において長らく分裂したままで、認識論を語るものは存在を語らず、存在論を語るものは人間の認識を軽視していたからだ。こうした傾向の中でも、どちらかといえば認識論が優位に立ち、存在論はやや陰をひそめていた観があった。とりわけ、現代哲学に巨大な影響を及ぼしたカントが、人間の認識を意識の内部に限定して、客観的な存在者をそれ自体は認識不可能な物自体としたことで、この傾向はさらに強まったといえる。廣松の問題意識は、このような歴史的経緯を踏まえ、存在論の復権をはかりつつ、それをいかに認識論と融合させるかということにあった。

廣松渉の謂う「事的世界観」とは、「"もの"に対する"こと"の基底性」、「"実体"に対する"関係"の第一次性」を基本に置く思想である。デカルト以来の西洋哲学の伝統においては、"もの"がまずあってそれが相互にかかわりあうことから"こと"が生じる、あるいは、"実体"がまずあってそれが相互に"関係"しあう、という風に考えられてきたのであるが、廣松はそれを逆さまにしたわけである。

廣松渉のフッサール批判

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エドムント・フッサールに対する廣松渉の批判の眼目は、主に二つの点に集約される。ひとつは、フッサールが謂うところの「本質直観」が物象化的錯誤であるとする点、もうひとつは、間主観性の議論が抽象的な無内容の粋を出ていないとする点である。廣松は、これらの批判を、「事的世界観への前哨」に収められた小論「フッサールと意味的志向の本諦」の中で展開している。

廣松渉のマッハ論

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エルンスト・マッハは、新カント派の中心的な思想家であり、かつ自然科学者としても数々の業績を残しているが、レーニンが「唯物論と経験批判論」のなかで徹底的に批判したこともあって、日本では、一流の思想家としてはなかなか認められなかった。そんなマッハを、本格的に日本に紹介したのが廣松渉である。廣松はマッハの主著「感覚の分析」や「認識の分析」を翻訳する一方、その思想の特徴を解明している。「事的世界観への前哨」に収められた「マッハの現相主義と意味形象」と題する論文は、その成果である。

相克と協働:廣松渉のサルトル批判

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サルトルは、ヘーゲルの自己意識論に依拠しながら、独自の対人関係論を展開したが、廣松渉はそれを、自分の「共同主観性」論と対比させながら、その意義と限界について論じている。(「世界の共同主観的存在構造」Ⅱ、一、第二節 役柄的主体と対他性の次元)

この奇妙な題名は、廣松渉の哲学的著作「世界の共同主観的存在構造」第一章の章題である。この書物の課題は、人間の認識の根本的なあり方を明らかにすることであるが、それを廣松は共同主観的なあり方としてとらえた。従来の哲学の主流の意見においては、人間の認識作用を主観―客観図式でとらえたうえで、主観は意識内在的なもの(したがって各私的かつ自律的)であり、かつすべての個人を通じて同型的であるとされてきた。このような見方に対して廣松は、主観の各私性・自律性を否定し、それが共同主観的な枠組によって歴史的・社会的に制約されていること、その制約は個別の意識にとっては外在的なものとして働くということを主張した。何故そういえるのか、その根拠を明らかにしたのが、この「現象的世界の四肢的存在構造」と題する章なのである。

廣松渉といえば、ユニークなマルクス主義者として、1960年代前後の日本の新左翼的言説の中心にいた人物として評価されるのが普通だが、彼にはもうひとつ、哲学者としての顔があった。というのも、かれは東大の哲学教授であったわけだし、そのような立場から、日本の哲学界の歴史的な傾向に掉さすようなかたちで、哲学的な思考を展開してもいたわけである。

ハンナ・アーレントのベンヤミン論

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1940年9月下旬のある日、スペインとポルトガルを経由してアメリカへの亡命を図ったベンヤミンは、一時的に滞在していたマルセイユを出発してピレネーへと向かったが、その時マルセイユにはハンナ・アーレントも滞在していた。アーレントはベンヤミンより14歳も年下であったが、どこかで気が合っていたらしく、ベンヤミンは彼女に遺稿となった作品の一部(「歴史の概念について」)を託している。その遺稿をアーレントは、ベンヤミンの死の翌年にアメリカへ亡命した際に、ベンヤミンの指示にしたがってアドルノに渡している。彼女がベンヤミンの死の詳細について知ったのは、アメリカへ渡った後だったと思われる(死亡の事実については、ベンヤミンの死後4週間後に知らされたらしい)。

ベンヤミンのシュルレアリズム論

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ベンヤミンは、同時代の芸術運動に深い関心をもっていた。なかでも彼が大きな関心を注いだのは、未来派とシュルレアリズムだった。だがその関心のベクトルは正反対を向いていた。前者はいわばマイナスの方向を、後者はプラスの方向を。ベンヤミンにとって芸術とは、社会の変革と大いにかかわりを持つはずのものとして意識されていたのだが、前者は芸術のための芸術を標榜することによって、大衆から社会変革のエネルギーを抜き取る効果を発揮していた。それにたいして後者は、芸術を通じて社会の変革を目指そうとしていた。そのようにベンヤミンは、受け取ったのだった。

ベンヤミンのカフカ論

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フランツ・カフカが生前に発表した作品は「変身」など少数の短編小説だけだったが、それでも一部の人々の間に熱狂的な支持者を持っていた。彼の死後、いくつかの長編小説を始めとした遺稿が、自分の死後廃棄して欲しいというカフカ自身の遺言に逆らって公表されると、俄然広範囲にわたる反響を引き起こした。それは、カフカ現象ともいうべきもので、カフカは一躍、世紀の大作家の地位に祭り上げられた。しかし、カフカの小説の世界は、あらゆる基準からして、従来の文学の枠から大きく外れていたので、これをどう評価していいのか、尊大な批評家でさえも戸惑うほどであった。そんな戸惑いが交叉するさなか、ベンヤミンは一篇のカフカ論を書いて、それをユダヤ系の雑誌「ユダヤ展望」に発表した(全四章のうち、第一章と第三章のみだったが)。時にカフカの死後10年経った1934年のことであった。

ベンヤミンのパサージュ論

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ハンナ・アーレントはベンヤミンについて、「生まれながらの文章家であったが、一番やりたがっていたことは完全に引用文だけからなる作品を作ることであった」と書いている(「暗い時代の人々~ベンヤミン」阿部斉訳)。彼の「パサージュ論」は、この願望に対して、完全にではないにしても、ほぼ応えている作品ではないかと思う。一瞥してわかるように、この作品は通常の論文のように、一本筋のとおったストーリーを展開しているのではなく、他人の書いた文章の引用で大部分が形成されているのである。

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