知の快楽

行為的直観:西田幾多郎を読む

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行為的直観の概念は、弁証法的一般者とともに、西田の後記思想の鍵となるものである。弁証法的一般者の概念は、社会的・歴史的存在としての人間に着目したうえで、個物としての人間を限定する一般者の側に焦点をあてたものであるが、行為的直観は個物としての人間の側に焦点をあてたものである。個物としての人間が、抽象的な人間としてではなく、あるいは生物的存在としてではなく、社会的・歴史的な存在として、世界に実践的に関わっていく、その在り方に焦点をあてたものなのである。それ故、弁証法的一般者と行為的直観とは、メダルの裏表のような関係にある。

弁証法的一般者:西田幾多郎を読む

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西田の(中期以降の)思想の最も大きな特徴は、再三言及したように、一般者の自己限定によって個物及び個物からなる世界全体が生じるというふうに考えることにある。判断的一般者が自己限定することで自然界が、自覚的一般者が自己限定することで意識界が、叡知的一般者が自己限定することで叡知的世界が生じる。ところが、晩年の西田は、これとは別に弁証法的一般者という言葉を多用するようになる。これは叡知的一般者以下の従来の一般者の概念に完全にとって代わるようなものではなく、一般者というものを、個物とのダイナミックな関連において捉えなおした、いわば操作的な概念である。

先稿「述語論理」の中で、西田幾多郎の思考方法の特徴として「述語論理」というものを挙げた。筆者はこれを、中村雄一郎の議論を参照しながら、述語の共通性にもとづいて二つのものを結びつける論理であるといった。たとえば、次のようなケースがそれにあたる。

絶対無の自己限定:西田幾多郎を読む

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西田幾多郎の思想は、純粋経験から出発して、その問題意識を深める方向で、自覚を経て場所へと変転していった。場所とは、すべての経験がそこにおいて成立する舞台のようなものであり、またあらゆる実在の基盤となるものであった。それは究極的な一般者というふうに言われることもあるが、一般者とは西田に於いては、自己を限定して個物を生じるものであり、したがって個物からなるこの世界の究極根拠となるものでもあった。その場所あるいは一般者を西田は無と言い、場所の中でももっとも高次の次元の場所を絶対無と言った。

西田幾多郎の叡知的世界

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西田幾多郎の「叡知的世界」は、カントの「叡智界(ヌーメノン)」を想起させるが、両者は似て非なるものである。では、どこが似ていて、どこが違うのか、ここではそれを見ておきたいと思う。まず、叡智的世界について西田自身が語っている部分を、論文「叡智的世界」から引用しよう。

西田幾多郎のベルグソン論

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西田幾多郎は、同時代の直感主義的流れの中でも、ベルグソンに最も親近感を抱いたようである。もっとも「善の研究」を書いたときには、まだベルグソンに親しんでいたわけではなかった。「善の研究」における純粋経験の立場は、ウィリアム・ジェームズに刺激されるところが大きかったのである。ところが、ジェームズの場合、純粋経験の概念は、もっぱら心理的現象を説明するためのものであって、それ以外の分野においては、別の原理を採用していた。純粋経験をもとにすべてを説明し尽くしたいと考えた西田にとって、ジェームズのそのような立場は中途半端に映った。ベルグソンの直感主義は、そうした中途半端さを感じさせない。それは、人間の意識現象は無論、世界のすべてを根拠付ける原理というふうに、西田には受け取れた。こんなことから、ベルグソンへの西田の親近感は、並々ならぬものへと深まっていったようなのである。

西田幾多郎の小論「論理の理解と数理の理解」(「思索と体験」所収)は、論理学的思考と数学的思考との関係についての、西田なりの考えを述べたものである。西田は、そもそも数学者になるか哲学者になるかについて、選択に迷ったほど数学に興味を抱いていたようなので、それについて突っ込んで考えて見たいという動機もあって、こんなものを書いたのかもしれないが、それ以上に、論理学と数学との関係をどのように考えるかは、哲学にとって重い課題でありつづけた。だから哲学者がこれを取り上げるのは、ごく自然なことなのである。

述語論理:中村雄二郎の西田幾多郎論

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西田幾多郎の思考のわかりづらさの要因を「述語論理」に求め、それが正常人の思考と異なる分裂病患者の思考に似ていると看破したのは、洒落た哲学的エッセイスト中村雄二郎である。中村はこのおかげで、西田の崇拝者たちから、日本の偉大な思想家を狂人扱いするのかと非難されたそうである。

場所の論理:西田幾多郎を読む

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西田幾多郎の場所論のわかりにくいところは、そもそもそれを認識論・存在論との関連において持ち出しておきながら、具体的な説明の段になると、論理学のタームを用いていることだ。論理学というのは、たしかにアリストテレスの時代に存在の範疇を論じたということもあったが、基本的には人間の判断を取り扱うものだ。それを以て、判断とは次元のことなる「場所」というような概念の内実を説明しようとするのだから、論旨にどうも無理が生じる。

自覚から場所へ:西田幾多郎を読む

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西田幾多郎の思想が、純粋経験に始まり、そこから自覚を経て場所という考えに展開していったことは前稿で言及したとおりである。このうち、純粋経験から自覚への展開には、論理的な必然性というものがあり、比較的わかりやすかった。純粋経験の考え方に内在していた曖昧さを整理する過程で、おのずから自覚という考え方に移行したという流れが見えやすいからである。

純粋経験から自覚へ:西田幾多郎を読む

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西田幾多郎の思想は、「善の研究」で提起した「純粋経験」を基礎として、それを進化発展させる方向に進んでいった。その方向性というのは、「純粋経験」から「自覚」へ、そして「自覚」から「場所」へと進化・発展していくというものである。進化であるから、単純な変化ではない、もとの思想(純粋経験)を土台としてそれをいっそう深くかつ広く推し進めようとする意向が働いている。

西田幾多郎の「純粋経験」の概念にはユニークなところが二つある。一つは、西田がそれを、新カント派の意識の所与としての現象やベルグソンら直感主義者の直感とは違って、単なる思惟の材料ではなく、それ自体が(上田閑照の言葉で言えば自発自展する)実在だと捉えていること。もう一つは、思惟もまた純粋経験の一契機、というか純粋経験そのものだと捉えていることである。

西田幾多郎は「善の研究」の序文の中で、「純粋経験を唯一の実在にしてすべてを説明してみたい」と述べている。ではその「純粋経験」なるものとは何か、が問題となるわけだが、それについて西田は、本文の冒頭近くでこう書いている。「純粋経験は直接経験と同一である。自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。これが経験の最醇なるものである」

西田幾多郎を読む

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筆者が西田幾多郎を始めて読んだのは三十台半ばのことであった。「善の研究」を手始めにして、岩波文庫に収められた論文を順に読んでいった。筆者は別に哲学者になろうなどと考えていたわけではなく、教養の足しくらいに思っていたので、とりあえず岩波文庫がカバーしている範囲のものを読めば、西田哲学と呼ばれるものの輪郭をつかむことができるだろうと、安易に考えていたわけなのであった。ところが西田の思想というのは、そう簡単に理解できるものではないということを早々に思い知らされた。「善の研究」はなんとか理解できたが、三巻からなる哲学論文集(「西田幾多郎哲学論文集」岩波文庫)の第一巻で躓いてしまったのだ。この中に収められている「場所」という論文は、西田哲学を理解するうえでの鍵となる重要なものといわれているのだが、これがなかなか歯が立たないほど難しい。何が書かれているのか、ほとんど理解できなかったのだ。こんなわけで、筆者の最初の西田への挑戦はあっけなく終わってしまったのであった。

自己と他者:R.D.レインの反精神医学

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R.D.レインは、1960年代から70年代にかけて精神医学界に旋風を巻き起こした人だ。日本でも、「引き裂かれた自己」、「自己と他者」、「狂気と家族」などの著書が翻訳・紹介され、精神病理学の世界に一定の影響を及ぼした。その基本的なスタンスは、分裂病(統合失調症)に典型的な精神病の患者を、社会から隔離するのではなく、むしろ社会の中で、人間関係にかかわらせることを通じて治療すべきだと主張することにある。何故なら、精神病とは人間関係によって引き起こされる病だ、というのである。

直線的時間と円環的時間

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精神医学者中井久夫の「分裂病と人類」を読んでいたら、人類の歴史で時間観念が登場したのは、農耕文化の段階になってからだという記述にぶつかった。中井は、人類の歴史は狩猟採集の段階から農耕の段階に進んでいったと考えているのだが、狩猟採集の段階では、時間の観念はまだ成立していなかった、時間の観念が成立するのは農耕文化の段階以降のことだと言うのである。

精神病と人類:中井久夫の人間類型論

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木村敏は、分裂病(統合失調症)やうつ病などの精神疾患が、精神の正常な状態とは絶対的に断絶した精神の異常なのではなく、平均値(多数者の状態)からの相対的な逸脱なのだと主張した。だからといって木村は、誰もがそうした状態になるとは言わなかったわけだが、同じく精神病理学者である中井久夫は、人は誰でも分裂病やうつ病などの精神病になる可能性を秘めていると主張した。こうなると、精神疾患は精神の異常というよりは、精神状態のバリエーションの一つだということになる。そのバリエーションが、中間値から多少ずれているに過ぎない、というわけである。

時間と狂気:木村敏の精神病理学

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精神分裂病(統合失調症)、うつ病、癲癇は、精神疾患の三つの典型例とされてきた。これらの疾患の基本的な病因は、現在では脳の働きの異常であるとするのが主流的見解となり、したがって治療方法も薬物投与による脳の働きのコントロールが中心になってきつつある。これに対して、精神病理学者の木村敏は、単に脳の働きの異常に注目するのではなく、患者の生活史に光をあてる必要があると主張した。人間というものは、さまざまな経験を通じて、自己を作り上げていくものである。自己というものは、無条件な前提としてそこに存在するものではなく、作られるものなのである。だから、作られる過程が大きな問題となる。なぜなら、すべての自己が、望まれた鋳型にしたがって、順調に作り上げられるとは限らないからである。精神疾患として我々がイメージしているのは、この望まれた鋳型からはみ出てしまい、したがって通常の人間の自己とは異なったあり方を呈するに至ったものなのである。

自己の自己性:木村敏の自己論

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デカルト以来、人間の個人としての主体性をあらわす言葉として、「自我」という言葉が用いられてきた。「自我」という日本語は、無論西洋哲学の翻訳語であるが、内実としては、西洋哲学における「エゴ」に対応している。デカルトの言葉で言えば、「 je pense,donc je suis 」の「 je 」に相当する。

異常の構造:木村敏の精神病理学

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分裂病(統合失調症)などの精神病は、とりあえずは精神の異常として捉えられる。異常というからには、正常が前提とされているわけである。正常な精神状態というものがまずイメージされていて、そこから逸脱しているものが、正常の反対としての異常という具合に定義される。たしかに、異常とは正常の反対のように見えるが、はたして本当にそうか。もしそうなら、異常の反対が正常だということになるが、本当にそうなのか。こんな疑問を提起しながら、異常とは必ずしも正常の反対ではない、ということについて木村敏は論理的な操作をしながら解き明かしていく(木村敏「異常の構造」)。

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