知の快楽

「意味の論理学」には、「シミュラークルと古代哲学」と題する付論があって、二つの文章からなっている。一つは「プラトンとシミュラークル」といい、プラトン哲学の転倒に果たすシミュラークルの役割について、もう一つは「ルクレチウスとシミュラークル」といい、ルクレチウスやその先駆者エピクロスの思想がシミュラークルについての最初の積極的な議論を含んでいたということついて論じている。そこでシミュラークルという言葉が問題になるが、これは、シミュラシオンの類語であり、疑似とか虚像というような意味をもつ。だが、ドゥルーズはそれを、彼独自の意味合いで使っている。例によって厳密な定義をしたうえで使っているわけではないので、文脈をたどることから意味をはっきりさせる必要がある。

ドゥルーズの提示する世界認識の基準としての高さ・深さ・表層は、いわば空間論である。では時間論は何かといえば、それはクロノスとアイオーンをめぐる議論である。空間論が三つの基準軸を持つのに対して時間論が二つの基準軸しか持たないのは、空間論が一つ余計な部分を設けているからである。それは、空間に高さという永遠不変な要素を持ち込んでいることだ。永遠不変も時間の一つのあり方だという見方も成り立たないわけではないが、不変つまり動かない時間というのは、やはり形容矛盾というほかはないので、ドゥルーズはそれを時間をめぐる議論から外したのだと思う。

ユーモアは、ナンセンス及びパラドックスとならび、意味の脱臼の第三の形態である。意味の脱臼とは、シニフィアンとシニフィエとの間にずれがあることをさす。ナンセンスは、シニフィアンが複数のシニフィエと結びつき、それらの結びつきが互いに否定しあうことをいい、パラドックスはシニフィアンが二つのシニフィエと結びつき、それらがいずれも成り立つことをいう。一方ユーモアは、抽象的でかつ観念的な意味を、具象的で唯物的(身体的)な意味に置き換えることをいう。その例としてドゥルーズは次のようなものをあげている。「プラトンは人間のシニフィエを<羽のない二足動物>であるとしたが、これに対してキュニコス派のディオゲネスは羽をむしったおんどりを投げ返すことによって答える」。つまり、プラトンが人間のシニフィエを抽象的なイメージのシニフィアンと結びつけるのに対して、ディオゲナスは具象的なシニフィアンと結びつけるわけである。その結びつきは、プラトンのような観念論者にとっては笑うべきものであるので、それをディオゲネスは逆手にとって、ユーモアというのである。

ジル・ドゥルーズの書物「意味の論理学」は、パラドックスについての議論から始まっている。とはいっても、パラドックスという言葉の意味がすでにわかっていることを前提として議論を始めているので、パラドックスという言葉の意味が十分わかっていないと、何が議論されているのか見当がつかないであろう。ひとつだけ、この言葉の意味にかかわりのありそうな言及はある。「良識{良い方向}は、あらゆる事物において、決定できる一つの意味{方向}があることの確認であるが、パラドックスは、同時に二つの意味{方向}を確認することである」というものだ。この文章は、パラドックスという言葉を、良識及び意味との関係で表現している。パラドックスをとりあえず良識と対比させ、良識が一つの意味方向を持つのに対して、パラドックスは二つの意味方向を持つといっているわけだ。

ドゥルーズはルイス・キャロルをナンセンスの名手として推奨する。「意味の論理学」には、「不思議の国のアリス」や「鏡の国のアリス」の中からさまざまなタイプのナンセンスが引用され、それらの論理的・文学的意義についての考察がなされている。ドゥルーズがナンセンスを重視するのは、ナンセンスが意味を生産することに着目するからだ。その新たな意味を生産する名手として、ルイス・キャロルに勝るものはいないとドゥルーズは考えるのである。

ナンセンスは、日本語では無意味と訳されるように、意味と深いかかわりをもっている。そんなわけで、意味について考察する「意味の論理学」にとっては、もっとも重要な意義を持つ概念である。そこで、ナンセンスという言葉の厳密な定義が問題となる。普通それは無意味なこと、つまり意味の不在と受け取られている。ところがドゥルーズは、ナンセンスは意味の不在なのではなく、逆に意味の過剰なのだと言う。どういうことか。ある言葉の意味は、かならず他の言葉によって説明される。たとえば、岩とは大きな石のことであるとか、石とは小さな岩であるといった具合である。それに対してナンセンスとは、言葉の意味がほかの言葉によってではなく、それ自体によって説明されるような事態をさしている、とドゥルーズは言う。「石は石である」とか、「岩は岩である」といった具合に。これを他の言葉であらわすと自己言及という。自己言及という言葉をドゥルーズは使っていないが、要するにそういうことだ。

西洋のデカルト以降の近代哲学は、哲学の端緒というか出発点のようなものを想定し、そこから議論を展開するという方法をとってきた。デカルトの場合、それは「我思う」という意識の働きであり、その意識の働きが我の実在性を証明すると考えた。カントの場合、原初的な感覚が端緒であり、その感覚を知性が料理することで知覚となり、さらには概念にまで高まると考えた。フッサールの場合、意識の相関者として与えられた現象を端緒とし、その現象を虚心に分析することから概念的な知が生まれると考えた。ベルグソンは意識の直接与件としての知覚を端緒とし、それを分析することで人間の世界観を基礎づけた。そのような哲学的な端緒をドゥルーズは「できごと」に求めた。ドゥルーズの哲学は「できごと」を端緒にして展開するのである。

ジル・ドゥルーズの書物「意味の論理学」は、タイトル通り意味を論理学的に解明する試みである。そこで意味という言葉と論理学との関連が問題になる。論理学とは、伝統的な意味では、思考の法則とか推論の形式にかんする学問である。思考や推論は通常存在するものについてなされるので、論理学は存在についての判断を取り扱うものだと言われる。存在についての判断が論理学の対象といえるわけである。アリストテレスはそのように論理学を定義しており、それが西洋の論理学の考え方であった。そうした意味合いの論理学と意味との関係について論じるのがこの書物の目的なのであろうか。

ドゥルーズの書物「意味の論理学」は34のセリーからなっていて、どのセリーから読んでもよいように書かれている。そこでここでは、第十八のセリーから議論を始めようと思う。このセリーは「哲学者の三つのイメージについて」と題されており、ドゥルーズにとって考えられる限りでの哲学のタイプを現わしている。そのうえで、自分自身がどのタイプの哲学を重視しているかについて語っているのである。

「意味の論理学」は、「差異と反復」とともに、ドゥルーズの初期の業績の集大成というべきものである。彼は哲学のキャリアを始めた当初から、西洋伝統哲学(形而上学と呼ばれる)を解体して、その上で全く新しい思想を展開してみせようという意気込みをもっていたように見える。ほぼ同時代のデリダがやはり同じような意気込みをもっていて、それを哲学の脱構築と呼んだ。ドゥルーズは、脱構築という言葉は使わなかったが、西洋の伝統哲学を解体しようという意志の強さはデリダに劣らなかったといえる。しかも、デリダが脱構築した後に、伝統的な哲学にかわる新たな思想の枠組を提示することに成功したとはいえなかったことに比べれば、ドゥルーズには伝統哲学にかわる選択肢の一つを提示できたと自負できる理由があるのではないか。ドゥルーズにとっては、「差異と反復」は西洋の伝統哲学の解体の試みであり、「意味の論理学」は伝統哲学=形而上学に代わる新たな思想の枠組を提示する試みと言えるのではないか。

ドゥルーズは、西洋の伝統思想である形而上学を根本的に批判し、それを解体したうえで、全く新しい思想の原理を提示しようとする。それは自分自身の反復の思想を、ニーチェの永遠回帰の思想と融合させたものだ。永遠回帰としての反復というべきものが、ドゥルーズの掲げる新しい哲学の原理なのである。とはいっても、ドゥルーズの解釈するニーチェの永遠回帰は、ニーチェ本人が考えていた永遠回帰とはかならずしも一致しない。ドゥルーズは、自分自身の反復についての考えを、ニーチェの永遠回帰に無理に接合しようとして、永遠回帰の思想的な含意をゆがめて捉えなおしているフシが見える。もっともそれが悪いというわけではない。先人の思想の読み替えは、哲学の歴史ではめずらしいことではない。むしろ読み替えによって、思想が新たな命を吹きこまれることもある。

「差異と反復」の結論部分のタイトルは、ずばり「差異と反復」である。このタイトルを用いることによってドゥルーズは、この書物の目的を改めて確認しているわけである。その目的とは、西洋哲学の伝統を形成してきた形而上学を根本的に批判し、それに代わるものを提示するというものだった。形而上学の根本的な批判は、「表象=再現前化批判」という形をとり、新しい哲学は「永遠回帰」の思想という形をとる。そうすることでドゥルーズは、ニーチェこそが新たな時代の哲学にとっての導きの星であると位置付けるのだ。

「差異と反復」の第五章は、「感覚されうるものの非対称的総合」と題されているが、実際には、差異と感覚的な所与(ベルグソンが「意識の直接与件」と呼んだもの)との関係について論じる。ドゥルーズによれば、「差異は、所与がそれによって与えられる当のものである。差異は、雑多なものとしての所与がそれによって与えられる当のものである。差異は、現象(与えられるもの)ではなく、現象にこの上なく近い仮想的存在である」。つまり、差異は現象そのものではなく、それを根拠づけるものだというわけである。それをドゥルーズは、別の部分で、差異は現象の充足理由だと言っている。

「差異と反復」の第四章は、「差異の理念的総合」をテーマとする。この奇妙な言葉で表されたテーマについて明確な観念を持つためには、「理念」という言葉の意味をおさえておかねばならない。この理念という言葉をドゥルーズは、まずカント的な意味で使い始めるのだが、途中から、それもいきなり、ドゥルーズ独自の意味合いで使うことになる。理念とは多様体であり、したがって差異からなると言い出すのである。なぜそう言えるのか、について立ち入った説明はない。

「差異と反復」の第三章は、「思考のイマージュ」と題されているが、実質的な内容は、哲学の前提に関する議論である。ドゥルーズは、従来の伝統的な哲学はすべて、ある前提から出発していると見ている。その前提とは、哲学以前の世俗的な道徳を反映したものである。したがって臆見とか常識と言い換えられるようなものである。そうした臆見ないしは常識が土台にあるから、哲学はすべての人(といっても西洋的な伝統に属する人という意味だが)にとって共通の議論の対象となるのである。ところで、ドゥルーズの哲学者としての使命は、伝統的な哲学(形而上学)を、ニーチェと共に解体することであった。その解体の主要な武器として、ドゥルーズは、哲学における前提の批判とその否定を打ち出すのである。だからこの章の狙いは、「哲学における前提」を破壊することにある。

「差異と反復」の第二章は「それ自身へ向かう反復」と題されている。これは反復について立ち入って分析したものだ。それをドゥルーズは「それ自身へ向かう反復」と表現した。この表現は、差異を主題的に論じた第一章のタイトル「それ自身における差異」と同様奇妙なものである。むしろより一層奇妙といってよい。反復とは、常識的な意味では、つまり伝統的な意味では、反復されるものを前提にしている。それは反復するものとの間に密接な関係を持っているはずだ。その密接な関係とは、同一性のことである。反復するものと反復されるものとの間に何らかの同一性を認めるからこそ我々は、あるものが反復した、あるいは反復されたと考える。常識的な考えでは、差異が同一性を前提としていたように、反復もまた同一性を前提している。ところがドゥルーズは、そうした常識的な考えに異議を唱える。反復とは、同一のものの繰返しではなく、差異が反復されると考えるのである。「それ自身へ向かう反復」という言葉には、そうしたドゥルーズの考えが反映されていると思うのだが、この言葉からそうした考えがストレートに伝わってくるようには見えない。「それ自身」というのが、それ自身との同一性なのか、あるいはドゥルーズのいう差異としてのそれ自身なのか、この言葉からははっきりとわからないのである。

ドゥルーズの著作「差異と反復」の第一章のタイトルは「それ自身に置ける差異」である。これは実に奇妙な言葉だ。常識的な考えでは、差異というのは、あるものの別のあるものとの相違ということを意味する。あるものに差異があるとすれば、それは別のある者との関係を前提としているわけであるから、差異という概念は媒介された概念であり、したがって相対的な概念ということになるはずだ。ところがドゥルーズは「それ自身における差異」という言葉を使う。「それ自身における」という言葉は、常識的には、他のものとの関係を無視した、したがって何ものにも媒介されない、絶対的な概念ということになる。こうした概念規定は、常識とは著しく異なるので、読者を混乱させることは免れない。

ジル・ドゥルーズが1968年に出版した著作「差異と反復」は、かれの前半期の営みを集大成する業績である。かれがこの著作の中で展開したのは、西洋の伝統的な哲学思想(それをかれは形而上学と呼んでいる)の解体であり、そのうえで、全く新しいタイプの思想を構築しようというものだった。そうした問題意識は、ほぼ同時代を生きたライバル、ジャック・デリダと共有していたものだ。デリダのほうは、1967年に「声と現象」や「グラマトロジーについて」などを出版しており、それらの中でやはり西洋の伝統思想である形而上学の解体を目指していた。それをデリダはのちに脱構築という言葉で呼ぶようになるが、1967年の時点ではまだ大っぴらには使っていなかった。ドゥルーズのほうは、脱構築などという大げさな言葉は使わなかったが、西洋の伝統哲学に対する破壊的な攻撃力は、より深刻なものだったといえる。

ドゥルーズは「ニーチェと哲学」の結論部分を、ニーチェと弁証法の関係について強調することにあてている。これは自然なことだ。ドゥルーズはニーチェを西洋形而上学の破壊者として位置づけており、その形而上学が弁証法によって代表されるのであれば、ニーチェを弁証法の敵対者として描きだすことは、論理的に当然のことである。その弁証法を体系化したのはヘーゲルである。だからニーチェの弁証法への敵対は、ヘーゲル批判という形をとる、とドゥルーズは言う。「ヘーゲルとニーチェとの間に妥協は不可能である」(足立和弘訳)として、両者が不倶戴天の敵だと言うのである。とは言っても、ニーチェが終始一貫してヘーゲルを名指し批判したわけではない。ニーチェが名指し批判したのはソクラテスやプラトンといった哲学者である。だからニーチェは、ヘーゲルその人ではなく、ヘーゲルによって代表される弁証法的なものの見方を批判したといってよい。

議論というものは、問いの立て方次第で大体の方向が決まるものだ。その問いは疑問というかたちをとるが、その疑問は多くの場合、というよりほとんどの場合、議論の参加者すべてに共通した問題をめぐるものである。というのも、一部の人にだけ関心を持たれるだけで、大部分の人あるいは多数の人に関心を持たれない問題は、そもそも議論の題材とはならないからだ。議論というものは、最低限共通の土台の上でなされる必要があるのだ。ところが、大部分の人にとって共通する問題とは、じつはどうでもよいことだ、とニーチェは言う。なぜならそういう問題は、人間の大多数をしめる凡愚な連中にとって意味を持つにすぎず、したがって現実の秩序の容認を前提としている点で、ロバが背負う荷物と異ならないからだ。そういう連中の関心事は、自分たちの利益を守ろうとする動機に駆られている。その利益は奴隷の利益である。だから、問いの立て方を問題にするときには、たとえば真理とは何かといったような、万人に共通するような外観を呈しているような場合には、それを疑ってかからねばならない。誰がその問いを発したかを、見極めねばならない。奴隷の発した問いは、所詮奴隷の利益を守ろうとするものである。真に有用なのは、人類全体の向上につながるような問いであり、それを発することができるのは、一部のエリート、つまり超人なのだ、というのがニーチェの基本的な考えである。

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