知の快楽

カール・シュミットの民主主議論

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カール・シュミットは、「現代議会主義の精神史的状況」の中で、民主主義と議会主義とは必ずしも密接な結びつきを持つわけではないことを明らかにしようとした。議会主義の極端な反対物は独裁だが、民主主義は容易に独裁を導く。「近代議会主義と呼ばれているものなしにも民主主義は存在しうるし、民主主義なしにも議会主義は存在しうる。そして、独裁は民主主義の決定的な対立物ではなく、民主主義は独裁への決定的な対立物ではない」(樋口陽一訳から)というのが、シュミットの基本的な考え方である。

マキャヴェリ以来、近代西欧の政治理論は、政治を権力と関連付けて論じてきた。政治というものは、権力の獲得とか配分をめぐる現象であって、権力の動機を持たない政治的な行為というものはありえない。権力をめぐる戦いがあるところには、当然敵・味方の区別が生じるが、それは権力闘争に付随する現象であって、それ自体を独立したものとして概念規定しようとするのは行き過ぎである、とされてきた。ところがカール・シュミットは、政治とは友・敵(敵・味方)の区別が生じるところに始めて成立するものだとすることで、友・敵の区別こそが政治の本質であって、権力はそれに付随するものだとする。つまり、権力と友・敵区別の関係を、伝統的な政治理論とは180度異なった仕方で捉えるのである。権力をめぐる戦いが友・敵の区別を作るのではなく、友・敵の区別の生じるところに権力をめぐる戦いが生まれる、とするわけである。

徂徠と宣長:野口武彦「荻生徂徠」

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本居宣長をひととおり読んでみたら、その延長で荻生徂徠に関心が向いた。宣長と徂徠は、徳川時代の思想家の双璧と言える。その思想は、対極的と言ってもよいほど、違う方向を向いている。その対極性が、日本人の思想にある種の彩を添えている。日本人はすでに徳川時代において、こうした思想の多様性を経験したおかげで、明治以降もさまざまな思想を吸収消化する態勢ができていた、というふうにも言えそうである。

日の神論争:呵刈葭(二)

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「呵刈葭」後編では、「日の神論争」として知られる日本の思想史上有名な論争が展開される。この論争は、藤貞幹が「衝口発」という著作で宣長の国粋主義を笑ったことに対して、宣長が「鉗狂人」を著して反論したことを踏まえ、秋成がさらに宣長を再批判した、それについて宣長が再反論を行った、というものである。「鉗狂人」は「狂人」を「たわめる(鉗)」という意味で、その狂人とはとりあえず藤貞幹をさしている。

本居宣長は天明六年(1786)頃に上田秋成と二度にわたって論争した。その結果を、宣長は「呵刈葭」という形で、秋成は「安々言」という形で著した。「呵刈葭」は「かかいか」と読んだり「あしかりよし」と読んだりされるが、意味は「あしかる(刈葭)」人、つまり悪人を、「しかる(呵)」ということらしい。ここで宣長に叱られている対象が、論争の相手である上田秋成というわけだ。

本居宣長「直毘霊」

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「直毘霊(なほびのみたま)」は「古事記伝」の序に当たるものだが、古事記伝の刊行に先立って独立した著作として発表された。宣長自身が言っているように、道について論じたものである。表題の「直毘霊」とは「直毘神」の霊という意味であるが、直毘神は穢れを払い、禍を直す神とされているとおり、直毘神の霊を以てわが国に取り付いた穢れを祓い清め、わが国固有の道を明らかにしようとしたものである。ここで祓い清めるべき穢れとされているものは異国の悪しき影響であり、わが国固有の道とされているものは、皇祖神天照大神によって示された日本人として歩むべき尊い道のことを言う。したがってこの書は、激しい排外主義と神がかった国粋主義を煽ったものとして、日本の思想史上にきわめてユニークな位置を占めるものである。

本居宣長「宇比山踏」

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「宇比山踏」は、本居宣長の「学問の進め」というか、学問の手ほどきというようなものである。宣長は学問を日本の古い時代を研究する学問、すなわち古学だとしているので、この書物は「古学入門」と言ってもよい。宣長は古学の意義について色々な書物のなかで折に触れて強調していたが、この書物の中でそれを体系的に述べたのである。

本居宣長「排蘆小船」

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「排蘆小船」は本居宣長の処女作と目されている。執筆時期は京都遊学中(宝暦二年乃至同七年)かその直後、宣長二十代のことと推測される。論じているテーマは「歌」である。その点、後年の歌論「石上私淑言」と重なり合うというか、ほとんど同じ議論を展開しているところから見て、両者は問題提起とそれへの完成した受け答えというような関係(萌芽と成熟の関係と言ってもよい)にある。だから「石上私淑言」を読めば、宣長の歌についての考え方は一応了解できるのであるが、「排蘆小船」にはそれなりの面白さもあるので、少なくとも読んで損することはないだろう(以下テクストには中公版「日本の名著」所収、萩原延寿による現代語訳を用いる)。

本居宣長の平安時代礼賛

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宣長にとっては、「古へ」こそが日本人の理想の時代であって、そこから時代が下るに従って日本人は理想から逸脱してきたと考えているようである。その理由は、時代が下るにつれ唐(から)の影響が日本人の間に浸透してきて、儒仏の考え方に捉われるようになり、日本人の本然の姿である「もののあはれ」を知る心が乱れてきた、ということらしい。だが宣長の面白いところは、理想としての「古へ」を、少なくとも歌や物語の領域においては、万葉や古事記の時代ではなく、平安時代の中期以降に設定していることである。そこからして歌の理想は「古今集」であり、せいぜい「後撰集」や「拾遺集」がそれに続く。一方、物語としては「源氏物語」が理想的なものとされる。どちらも、日本人の本然の姿である「もののあはれ」を知る心が貫かれているからだ、とする。

本居宣長「紫文要領」

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「紫文要領」は「石上私淑言」と並んで、宣長が「もののあはれ」論を展開したものである。ほぼ同じ時期に書かれたと思われる。「石上」のほうは和歌に即して「もののあはれ」論を展開し、日本人が「もののあはれ」を素直に感じ、それを表現することが出来るのは、国民性が素直にできている為で、その点では悪人ばかりが跋扈している中国より人間として優れているのだというような、ある種の文明論に踏み込んでいるのに対して、こちらのほうは、「源氏物語」に即しつつ、それを唐こころに毒されずに素直に読むべき心得について論じている。その点では、「石上」に比べて、あくまで文学の領域に限定してものごとを考えようとする姿勢が強い。

やまと考:本居宣長「石上私淑言」

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本居宣長は「石上私淑言」の中で、日本の国名としての「やまと」について、かなり詳しく論じている。宣長によれば、「やまと」という名は、もともとは一地方の国名(大和の国)として言われてきたもので、日本全体を指す言葉(惣名)としては、「葦原の中つ国」とか「大八洲国」とか言った。「天上よりこの国をさしては、『葦原の中つ国』といひ、この土にていふ時は、『大八洲国』といへるなり」と言うのである。

本居宣長は、日本語の古語の語源について強い関心を持ち、それを著作の中でも披露しているが、それは古事記や万葉集の文字を解読する作業のなかで培われたものであろう。古事記などに用いられている文字を解読するには、言葉の語源に通じていることが役立つからである。

本居宣長「石上私淑言」

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本居宣長の著作「石上私淑言(いそのかみのささめごと)」は、「紫文要領」と並んで、「もののあはれ」論を展開した著作である。「紫文要領」がその題名にあるとおり「源氏物語」を材料にとって「もののあはれ」を論じているのに対して、「石上私淑言」のほうは、和歌を通して日本人特有の「もののあはれ」を重んじる姿勢を論じている。国文学者の日野龍夫によれば、この二つの著作はいずれも宝暦十三年(1763)に書かれており、しかも宣長が「もののあはれ」という言葉を用いて己の思想を語ったのはこの二つの著作に限られるという。後年「源氏物語玉の小櫛」が出版され、そのなかでも「もののあはれ」という言葉が出てくるが、この著作は「紫文要領」に手を加えたものなので、実質的な内容は「紫文要領」と変わらない。

フーコーの不変の部分と変遷した部分

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フーコー論の筆をひとまず擱くに当たって、フーコーの思想を俯瞰しなおしておこう。するとそこには、終始変らなかった部分と、時間の移り行きとともに変わっていった部分とが見えてくる。大事なことは、フーコーの思想の変らなかった部分、それは彼の思想の核心といえるものだが、それを明らかにすることだ。その上で変っていった部分を跡付けていくと、彼の思想の全体像が見えてくるのではないか。

性倫理の系譜学:フーコーの性の歴史

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フーコーは「快楽の活用」の序文のなかで、計画を変更した後の「性の歴史」の構想について触れ、その第四巻には「肉体の告白」と題してキリスト教の性道徳の成立についての研究をあてることを予告していた。この計画はフーコーの死によって実現しなかったが、もし実現していたとしたら、それがどのようなものになったか、およその見当はつく。性について大らかな態度をとっていた古代古典ギリシャに始まり、結婚以外の場における性行為が次第に価値剥奪されてゆく帝政ローマ時代を経て、性そのものがついに禁止と抑圧の対象として形をとるようになった形跡をあきらかにすること、これがフーコーの目論見だったと思われるから、第四巻の内容は、もっぱら性が禁止と抑圧の対象となるその過程を抉り出すことに当てられただろうと思えるのである。

紀元一・二世紀のギリシャ・ローマ世界において、性倫理の領域で夫婦の結婚生活に価値付与がなされる一方で、あのソクラテスの愛に代表される伝統的な若者愛がますます軽視されてゆくようになる。だからといって、「若者愛の実践が消滅してしまったとか、価値剥奪の対象になってしまったとか、という意味ではない」(「自己への配慮」第六章、田村俶訳)とフーコーは言う。若者愛は積極的な価値剥奪の対象になったというよりも、その問題が陳腐化したのであり、それに寄せる人々の関心が後退したのである。このことをフーコーは若者愛の「脱問題化」と表現している。「男同士の愛の関係は、理論面と道徳面の激しい論議の焦点となるのを止めるのである」(同上)

「性」の歴史において、紀元一・二世紀のギリシャ・ローマ世界の最大の特徴は、夫婦の結婚生活に多大な価値が付与されるようになったことだ。古代古典ギリシャにおいて結婚は、子孫を得ること及び家庭管理の対象として位置づけられていたのだったが、いまや市民として生きていくうえでの最大限に重要な要素に高まるのだ。それに伴って、結婚をめぐる言説も様変わりする。人々はそこに、夫婦生活のユニークな様式論の展開をみるだろう。それは主に三つの領域をめぐって展開される。すなわち、夫婦の絆にかんする術、性的独占の教説、快楽の共有にかんする美学である。フーコーはこう言って、ストア派やエピクロス派などのさまざまなテクストを手がかりに、この時代に生じた結婚生活への価値付与の内実について分析するのである。

フーコーが「自己への配慮」のなかで取り上げる紀元一世紀および二世紀のギリシャ・ローマ世界あるいはローマ帝政期の時代は、古典古代ギリシャの時代とキリスト教の支配的となった時代とを結ぶ過渡的な時代である。あらゆる過渡的な時代がそうであるように、この時代も、前後の時代との連続性と断続性を指摘することができる。「性」の問題に関していえば、古典古代ギリシャに特徴的だった性についての人々の態度の余韻が見られると共に、今までには見られなかった特徴も現れてくる。その新たな特徴は、キリスト教道徳を先取りしたようにも見えるのであるが、必ずしもキリスト教道徳と一致するわけでもない。そこにも連続性とならんで断続性が見られるのである。

「性の歴史」第二巻「快楽の活用」において、紀元前四世紀の古典古代のギリシャにおける「性」について考察したフーコーは、続く第三巻「自己への配慮」においては、紀元後一・二世紀(帝政ローマ時代)のギリシャ・ローマ文明における「性」を考察の対象とする。それに先立ってフーコーは、紀元二世紀後半に活躍したギリシャ人アルテミドロスの著作「夢を解く鍵」を、この考察の手がかりとして、分析して見せる。夢の中では性的なイメージが奔放にあらわれるということをのぞいても、夢は「性」をめぐる問題群を解くうえで大きな手がかりになると考えたからであろう。

フーコーと本居宣長

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ミシェル・フーコーと本居宣長を比較して論じるのは乱暴な企てかもしれない。一方は現代のヨーロッパ思想を代表する哲学者だし、もう一方は徳川時代の日本に生きたかなり意固地なところのある国学者である。お互いの存在を知る由もなかった。宣長にとってフーコーはまだ生まれていない西洋の人間であり、フーコーにとって宣長は、歴史的には先行者だが、存在しなかったも同然の人間だ。だがこの二人には、非常にわずかだが、共通点がないわけではない。その共通点を手がかりに、細い糸を手繰りながら、比較することができないわけではない。

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