知の快楽

ハイデガーのニーチェ講義第三講「認識としての力への意思」は、一読しただけではわかりにくい構成になっているとの印象を受ける。冒頭から始まり大部分は、力への意思としての認識についてのニーチェの議論を中心に展開する。ニーチェによれば、認識とは真理を把握することであるが、その議論はハイデガーによれば、西洋の伝統である形而上学の枠内で展開されているということになる。形而上学とは、真理をイデアとして、つまり永遠普遍に存在するものと捉える一方、個々の現象を仮象、つまり真ならざるものとして捉える。このように真理と仮象との対立が西洋哲学の伝統的な立場なのであり、ニーチェもそれに従っているのだという主張を、冒頭から四分の三ほどをかけて行うわけだが、その後、議論は急展開して、真理と仮象との対立は実は偽の対立であって、この対立=区別は、乗り超えられるべき運命にあると主張されるようになる。その辺の議論は、実にあっさりとしていて、駆け足との印象を与えるのだが、それは、これについての詳細な議論を「芸術としての力への意思」においてすでに行っているとの前提があるからだと思われる。「芸術としての力への意思」においては、真理と仮象=見せかけの世界との対立は所詮は廃棄されるという主張でとどまってしまったわけだが、この講義では、そこから一歩進んで、真理と仮象との対立が乗り越えられたあとには、果たしてどんな事態が訪れるか、についての考察を行っている。常識的な考え方をすれば、真理と仮象との対立がなくなれば、真理そのものもなくなるだろうということになると思うのだが、ハイデガーの解釈を通じたニーチェは、そうではなく、真理は真理として残り続けると主張する。そこが読者にとって一番わかりにくい。そのわかりにくさがあるゆえに、この講義全体が、冒頭に言ったように、わかりにくい構成だとの印象をもたらすのだと思う。

プラトンは、ミメーシス(模倣)こそがあらゆる芸術の本質である、と言った。何を模倣するのか。イデアである。通常、模倣されるものは模倣するものより先立ってある。先立ってあるとは、序列で言えば上位にあるということだ。したがってイデアが体現する真理はプラトンにとって、芸術より上位のものということになる。ところがニーチェは、芸術は真理よりも上位にあると言った。そう言うことで、芸術と真理をめぐるプラトン主義を転倒しようというわけである。

ニーチェは、最初の仕事への準備中に作成した覚書のなかで、「私の哲学は、転倒されたプラトン主義である」と書いている。ハイデガーは、この言葉を手掛かりにして、ニーチェによるプラトン主義の転倒について語る。その場合問題となるのは、ニーチェが「転倒されたプラトン主義」という言葉で何を意味していたのか、ということである。プラトン主義の一変種としての転倒されたプラトン主義なのか、それともそもそもプラトン主義を転倒することで、プラトン主義とは全く異なった主義をイメージしているのか。これはどうでもよい区分ではない。どちらをとるかによって、百八十度議論の方向が違ってくるような、本質的な区分だ。だから、「転倒されたプラトン主義」について語る際には、この区分をきちんと押さえておく必要がある。

ニーチェの思想の中核概念を、ハイデガーは力への意思として捉えた。力への意思とは、ニーチェにとっては、生命ある存在者、究極的には人間についての規定性である。それをハイデガーは、力への意思は存在者の本質的なあり方、つまり存在者の存在そのものとして捉える。だが、ハイデガーのいう存在者とは、そもそも人間がこの世界で出会うあらゆる存在者をいうのではないのか。ハイデガーはピュシスという言葉を好んで使うが、この言葉は存在者の全体というニュアンスで使われている。そこには当然現存在としての人間も含まれるが、その人間が世界で出会うあらゆる存在者(その中には当然自然や歴史も含まれる)をさしていたはずだ。だがハイデガーは、ニーチェに依拠しながら、力への意思が存在者の存在の本質だと言うことによって、存在者を生あるもの、ひいては人間という存在者に限定しようとしている。そのことの弁明として、ハイデガーは、ニーチェの次のような言葉を引用する。「何か死んだものが、どうして<存在する>といえようか」

ハイデガーは、1936年から1946年にかけて、大学でニーチェについての一連の講義を行い、後にその講義録をまとめて出版した。「ニーチェ」という表題をもつこの講義録は、十本の講義を収めているが、そのうち、第六講の「ニーチェの形而上学」は、総論ともいうべきもので、ハイデガーによるニーチェ解釈の要点が述べられている。したがって読者は、まずこの講義を総論として読み、その後で他の講義を各論として読むことで、全体の理解を促進できると思う。

無についてのハイデガーの議論は非常にユニークだ。西洋の哲学の伝統にあっては、無とは存在の反対として、存在しないこと、それも、中途半端に「ない」ことをではなく、全くないこと、なにもかも存在しないことを意味する。存在の反対と言うより、存在の欠如といってよい。あるいは非存在とも言われる。ところがハイデガーは、無は存在の反対として、まったく存在と関わりをもたないのではなく、存在の一つのあり方なのだという。ハイデガーによれば、無というものが存在するということになる。なぜなら人は、存在しないものを思索することはできないからだ。ところが人は無について思索する。ということは、無もまた存在の一つのあり方だからだ、というわけである。

ハイデガーの著作「ヒューマニズムについて」は、サルトルのヒューマニズムを批判しつつ、彼自身の存在論を展開する。それを単純化して言うと、人間が存在の根拠なのではなく、存在こそが人間の根拠ということである。このことをハイデガーは次のように表現する。「人間とは、むしろ、存在そのものによって、存在の真理のなかへと『投げ出され』ているのである。しかも、そのように『投げ出され』ているのは、人間が、そのようにして、存在へと身を開き-そこへと出で立ちながら、存在の真理を、損なわれないように守るためなのであり、こうしてその結果、存在の光りのなかで、存在者が、それがそれである存在者として、現出してくるようになるために、なのである」(渡辺二郎訳、以下同じ)

ハイデガーが1947年に公開した「ヒューマニズムについて」は、副題にあるとおり、フランスの研究者ジャン・ボーフレにあてた書簡の体裁をとっている。ボーフレはサルトルの動静(「実存主義はヒューマニズムである」の刊行など)を考慮しながら、ハイデガーの哲学がサルトルの実存主義とどのようなかかわりがあるかについて問題提起し、それにハイデガーが答えるという形をとっている。ハイデガーの答えは、単純化して言うと、自分の思想はサルトルの実存主義やヒューマニズムとは関係がないというものだった。ハイデガーのこの突き放した見方が、その後サルトルの実存主義が不人気になるについて、一定の影響を与えたと見られている。

ハイデガーは「形而上学入門」の中で、ピュシスを存在者の全体、あるいは全体としての存在者と規定していた。一方でハイデガーは、ピュシスというギリシャ語がラテン語のナトゥラと訳されたことをきっかけにして、(ドイツ語を含め)現代のヨーロッパ諸語ではいわゆる自然という意味になっていることに言及しつつ、ピュシスの本来の意味は、そうした外面的なものとしての自然などではなく、存在者の本源的な在り方、つまり存在者の本質としての存在だとも言っていた。つまり、「形而上学入門」の時点では、ピュシスという語にはある揺らぎがあったわけである。

ユニークなハイデガー論である「精神について」においてデリダは、「精神」という言葉をハイデガーがどのように用いてきたか、その変遷について分析している。それによればハイデガーは、「存在と時間」の時点では、この言葉を注意深く避け、やむを得ず使う場合には引用符付きで使っていた。それが表だって使うようになったのは、有名な総長演説以降のことであり、本格的に使うようになるのは、「形而上学入門」以降のことだとしている。そこで、「形而上学入門」でハイデガーがどのようにこの言葉「精神」を使っているか、改めて注目しながら読んでみたい。

存在とはなにか、この根本的な問いについてハイデガーは、「形而上学入門」においても、言葉の文法や語源解釈という彼一流のやり方を駆使して解明してみせる。そのやり方があまりにも巧妙なので、読者はなんとなく説得されたような気もするし、また欺されているような気もする。そのへんの呼吸はハイデガー自身も心得ているようで、次のように言い訳しているほどだ。「ここでわたしが述べたことはじっさい、既に通り言葉になってしまっているハイデガー的解釈法の強引と偏狭との成果にすぎないだろう」(川原栄峰訳、以下同じ)

「形而上学入門」は、1935年のフライブルグ大学での講義を文章化して1953年に発表されたものである。これに対して、アドルノが強く反発し、その反発を梃子にしてハイデガー批判の書「本来性という隠語」を書いたことはよく知られている。アドルノがそんなに反発したわけは、ハイデガーがナチス時代における自分の生き方についてまったく反省しておらず、むしろ居直っているかのような印象を受けたからだと思われる。実際この本を読むと、あいかわらずドイツ民族優越主義を思わせる言葉があちこちにある。その点ではハイデガーは、ナチス時代と全く違っていない、そうアドルノが受け取ったのも無理のないところがある。

「プラトンの真理論(真理についてのプラトンの教説)」は、1940年に論文として発表され、1947年の「ヒューマニズムに関する書簡」に併載されたものであるが、その原型は1930/31年の講義に遡る。ハイデガーは論文化するにあたって、講義録に大幅な手を加えたと言われているが、真理の本質とは存在がそれ自身をあらわにすること、或は存在がかくれなくあらわになること、とする真理観については、同時期の講義「真理の本質について」と同じ立場に立っており、したがって思索の基本線には変更はないと考えてよい。

ハイデガーの小著「真理の本質について」は、1943年に論文の形で発表されたが、そのもとになったものは1930年の講義である。そんなこともあって、ここで展開されている真理論は、「存在と時間」における真理論の延長という性格が強い。「存在と時間」においてハイデガーは、真理を認識と実在との一致とする伝統的な考え方を批判したうえで、真理とは存在がそれ自身を隠れなくあらわにすることだと主張した。この基本的なスタンスは、「真理の本質について」においても変っていない。ハイデガーはここでも、真理は事象と言表との同調(一致)ではないとした上で、真理の本質とはなにかについて議論をしている。

論文「根拠の本質について」は、「形而上学とは何か」と同時に成立した、とハイデガーはこの論文の第三版への序言の中で書いている。「形而上学・・・」は無を熟思しているのに対して、この論文はオントロギッシュな差別をあげているというのだ。無とは「有るものでは無い」ということであり、オントロギッシュな差別とは「有るものと有との間にある無いということ」だとハイデガーは言うのだが、なぜ根拠がそうした差別と係わりがあるのか、この論文を最後まで読んでも、いまひとつしっくりしない。何となく伝わって来るのは、根拠が現存在としての人間の自由な意思に基づく選択(投企といわれる)に根差しているとハイデガーが主張しているらしいことだ。

「形而上学とは何か」は、「存在と時間」を刊行した二年後、1929年に行われた講義を、後に文集「道程」に収録したものである。筆者が読んだのは、創文社版ハイデガー全集第九巻収集のものだが、この全集版の日本語訳は、木田元が言うように問題があるようだ。特に訳語が独特で、「存在」を「有」とし、「存在者」を「有るもの」とし、現存在を「現有」としているなど、他の日本語訳と比べて、これだけがかなり変った訳し方をしている。現在一般的に言われている「形而上学とは何か」という題名でさえ、「形而上学とは何であるか」という具合に、大袈裟な感じを与える。

「存在と時間」第二編第五章は、「時間性と歴史性」と題して、主に歴史性について論じている。時間性と歴史性がどのような関係にあるのか、ハイデガーの議論は、例によってまわりくどいのだが、要するに、「時間性」が主として現存在の個別的な生き方に限定して論じられているのに対して、歴史性は現存在の共同現存在としての側面、つまり現存在と彼が属する共同体との関連についての議論だということができよう。

「存在と時間」第二編第三章で、現存在の時間性を抽出したハイデガーは、続く第四章において、その時間性についてさらに詳細に分析する。前の章での議論が、死への存在としての現存在の、一般的な時間性を論じていたのに続いて、この章では、その時間性を、現存在の本来的なあり方及び非本来的なあり方にそれぞれ対応させて、本来的な時間性と非本来的な時間性との差別について明らかにしようとするのである。時間性にこのような差別が生じるのは、現存在が通常は、日常性に陥落しているからである。その陥落は、現存在にとって、避けられない必然性をもっているので、現存在の時間性には、どうしても上のような差別が生じてしまうわけである。この章が「時間性と日常性」と題されているのは、そうした事情を踏まえたものである。

もしも人間が不死の存在であったなら、時間という観念を持たなかったであろう。かりに既に五万年生きてきた人があったとして、その人にとって一万年前の出来事と千年前の出来事とにどんな有意義な違いがあるだろうか。どちらもその人にとっては、はるか昔のことなのだし、いまさらそれらの違いについてあれこれと考えるのは意味のないことだろう。未来についても、百年先と千年先とがその人にとって有意義な違いがあるとは思えない。どちらもこれから生きてゆく無限の時間のなかでの些細な相違にすぎないのだ。時間は、人間の存在が有限であることに基づいている。時間が有限であるからこそ、人間は自分に限られた時間を有意義に使おうと努力するようになるのであるし、そこから時間を大事にしようとする姿勢が生まれてくる。時間の観念は、人間の存在の有限性に根ざしている。こう捉えるのが、ハイデガーの時間論の根本的な特徴である。

「存在と時間」の第二編は現存在の時間性(有限性)をテーマにしているということで、いきなり「死」の話から始まったあと、「良心」についての話に変る。良心は、とりあえず時間とは関係がないと思うし、良心に続く章では、現存在の時間性の分析という具合に、再び時間のテーマにもどる。こういうわけでハイデガーが何故、この部分で良心の問題をさしはさんだのか、その意図がちょっと気になる所だ。しかも、この良心の部分は、第一篇で出てきた「不安」の問題とほとんど重なるような議論をしている。わざわざそれを蒸し返してまで、なぜここで良心を論じるのか。もしかしたらハイデガーは、現存在の本質が時間性にあることを踏まえ、その時間性を本格的に論じるべき第二編で、その核心を概念として「良心」を取り上げたつもりなのかもしれない。「不安」の部分では、現存在の時間構造が明らかになっていなかったが、したがって「不安」の内実も厳密には規定できなかったが、時間性を視野に入れたこの章で、時間的な存在である現存在にとって、「不安」としてかつて現われた現象を、「良心」という形で、更に厳密に規定したい、ということなのかもしれない。

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