知の快楽

ベルグソンの宗教論の特徴は、宗教を静的宗教から動的宗教への発展と捉えることである。静的宗教と動的宗教はそれぞれ閉じた社会と開いた社会に対応している。閉じた社会というと、原始的な社会をイメージし、静的宗教はそうした原始的な社会に成立する宗教と思われがちだが、ベルグソンは原始的な社会を特別視はしない。原始的な社会と現代人の社会とは基本的に異なったものではないと考える。原始社会と現代社会を断絶させて考える見方は、獲得形質の遺伝を根拠にしているが、獲得形質が遺伝することはない。だから、いわゆる原始人も現代の文明人も遺伝子は同じである。それであるなら、静的宗教が持つ意義も、原始人と現代人との間で異なるわけはない、と考えるわけである。

閉じた社会と開いた社会との関係をベルグソンは、都市から全人類への発展と定義している。ここでベルグソンが都市という言葉であらわしているのは、原始時代の人類の生活単位をさしている。それは共同体社会あるいは部族社会であったり、部族社会の集まりとしての国家であったりするが、全人類を包括するようなものではない。そうした都市のあり方を人類のそもそもの始まりとして位置づけたことには、ベルグソンなりの歴史観が反映しているのだと思う。かれの先祖であるユダヤ人たちは部族社会に分裂していたし、ギリシャもまた都市国家の分立の上に成り立っていた。そうした原始社会においては、個々の人間は、人間である前に都市の構成員だったのである。

「道徳と宗教の二源泉」はベルグソンの最後のマスターピースであり、ベルグソン哲学の集大成というべきものである。この著作の直接の目的は、道徳と宗教の源泉について明らかにすることにあるが、その前提として、ベルグソンのすべての思想要素が総動員される。それを具体的に言うと、ベルグソンの人間観及び世界観ということになるが、それらを基礎付けているのはベルグソン独特の存在論・認識論である。ベルグソンの存在論は、存在を直観に還元するものであって、その点では唯心論の一バリエーションと言ってもよい。もっともベルグソン自身はそうは思っておらず、自分の存在論は意識の経験によって基礎付けられているというような、控えめな主張をする。ともあれベルグソンは、意識の直接与件から出発し、その与件すなわち直観を哲学の出発点に据えるわけである。その上で、人間の認識の構造を明らかにしていく。ベルグソンの認識論は、カントの認識論を換骨奪胎したもので、カントのカテゴリーに相当するものを、人間の記憶内容に置き換える。人間は自分の記憶内容をもとに、それを対象と関連付けることで、概念的な認識を獲得する、というのがベルグソンの認識論の基本的な構造である。それを支えるものとして、人間の意識の構造についてのベルグソン独自の見方がある。人間の意識をベルグソンは、持続として捉えた。持続というのは、意識の連続性に着目した概念で、人間の意識は過去と現在とが一体として統合されたものだと考える。ともあれ、「道徳と宗教の二源泉」と題したこの書物は、ベルグソン独自の存在論・認識論をもとにして、道徳と宗教の源泉について明らかにしようとする試みなのである。

脳と思考についてのベルグソンの議論(「精神のエネルギー」所収「脳と思考―哲学の錯誤」)は、ベルグソン一流の物質と精神の二元論の一バリエーション、そのもっとも重要なバリエーションである。脳と思考の関係については、この二つのものが平行関係にあるとする考えが支配的である現状を指摘したうえで、ベルグソンはその錯誤を指摘する。こうした考えはデカルトの哲学からまっすぐに出てきたものだが、それはデカルトが、物質と精神を全く異なった二つの実体だとしたにかかわらず、しかもその間に一定の関係があると認めたことに根ざしている。二つの実体の間に特別な関係を認めなければ、精神と身体との相互関係とか、脳と思考の平行関係などという問題が提起されることはないというのがベルグソンの基本的な考えなのである。

ベルグソンが言う「誤った再認」とは、「或る光景を見ていたり、対話をしているとき」、「いま見ているものはかつて見たことがある、いま聞いていることはかつて聞いたことがある、いま言っていることはかつて言ったことがある」(宇波彰訳、以下同じ)という確信を意味する。その点では、心理学でいう「デジャヴュ」とよく似ている。しかし、デジャヴュが一時的で例外的な体験といえるのに対して、「誤った再認」には恒常的な体験も含まれる。その例としてベルグソンは、三年もかけて、自分のそれまでの生を体験しなおした人をあげている。

夢についてのベルグソンの議論は、20世紀初頭における心理学や精神医学の状況を踏まえたものになっており、その点で科学的な外皮をまとっているが、かなり独特の特徴を持ってもいる。夢の精神医学的な解明という分野では、フロイトが有名であり、かれが「夢判断」を刊行したのは1900年のことである。ベルグソンはその翌年に夢についての講演を心理学協会において行っており、その記録が「精神のエネルギー」の中に収録されている。その両者を比較すると、夢を無意識が表面化したものとする点では共通しているが、フロイトがそれを無意識の願望(特に性的な)と結び付けたのに対して、ベルグソンは願望にとどまらず、もっと広い範囲の無意識な記憶内容が表面化したものだとする点で異なっている。

ベルグソンは国際的な心霊研究団体の会長を勤めたことがあるらしく、1913年にロンドンで行われた心霊研究協会での会長としての講演記録が、「生者の幻と心霊研究」と題して、「精神のエネルギー」に収録されている。

ベルグソンはデカルト主義を20世紀に再興した哲学者である。ここでデカルト主義と言っているのは心身二元論のことだ。デカルトは、物質としての身体と自我の意識としての精神をそれぞれ独立した実体だとしたうえで、相互の関係について思索をめぐらしたわけだが、うまく説明できる原理が見出せなかった。デカルトの後継者たちも、うまい説明ができたとはいえない。唯一スピノザは、精神も物質も実体などではなく属性だと言って、この二つを対立させるのはナンセンスだと言ったのだったが、それは問題を棚上げしたに過ぎない。かれは精神と物質を唯一の実体としての神の属性だとすることで、心身二元論を解消したように見せかけたのだったが、説明するのに神を持ち出すのは、説明を放棄しているにひとしい。

「精神のエネルギー」は、1919年に刊行されたベルグソンの論文集で、ベルグソンが折に触れて発表した論文を集めたものである。これは原型では二分冊になっており、一冊目が「心理学と哲学の特定の問題」を取り扱い、二冊目が哲学の「方法」について取り扱っている。このうち「「精神のエネルギー」と題して日本語(レグルス文庫)に訳されているのは一冊目である。

ベルグソンは、思考を映画の仕掛けに喩えることが好きで、随所で持ち出している。映画の仕掛けというのは、固定した(不動の)映像をつなげて映し出すことによって、動きを演出するものだ。動いているものが不動のものの組み合わせから生まれるというこの仕掛けは、思考に似ている。思考もまた、現象を不動の部分に切り分けたうえで、それらを組み合わせることで連続的な動きを認識する。その不動のものは、とりあえずは現象の一断面だが、それが抽象化されて概念に高まっていることもある。いずれにしても人間の思考は、動きをそのものとしてありのままに受け入れることは苦手で、不動のものの組み合わせとして認識する点で映画の仕掛けと似ているのである。

存在と無をめぐるベルグソンの議論は、西洋哲学の伝統からかなり離れている。西洋哲学の伝統においては、この議論は、なぜ無ではなくて有なのかとか、無は存在の否定だとかいった形でなされてきたが、それらの議論に共通しているのは、存在と無を対立させる考えに立っていることである。無は非存在とされ、存在と鋭く対立させられる。無は存在の欠如なのである。こうした考え方を、ベルグソンはナンセンスだという。無は存在の欠如なのではない。存在の一つのあり方あるいは側面なのだとするのである。だからベルグソンは存在と無の二元論を排斥する。世界は存在によって充たされている、と捉えるわけである。

ベルグソンが「時間と自由(意識の直接与件)」を書いたとき、意識はとりあえず人間を前提としていた。ベルグソンには唯心論的な傾向があるから、精神的な原理が世界を基礎付ける可能性は大きかったわけだが、「時間と自由」の段階では、精神的な原理の担い手としての意識は、人間の精神に極限されていたのである。ところが、「創造的進化」を書くに至り、ベルグソンは意識を、人間に局限されたものではなく、世界全体の生成を基礎付けるものとして捉えなおした。意識はもはや人間の内部に閉じ込められてはおらず、世界全体の生成原理に高められたのである。

進化論を哲学のテーマとして取り上げたのはベルグソンが最初であり、また本格的な哲学的進化論としては、最後の人でもあった。ベルグソンの進化論への関心は、哲学的処女作ともいえる「時間と自由(意識の直接与件)」の中で既に表明されていた。「時間と自由」が発表されたのは1888年のことで、ダーウィンが「種の起源」(1859年)を刊行してからまだ30年にもなっていない。その短い期間に、スペンサーによる進化論の俗流化が始まっている。ベルグソンが取り上げた進化論は、そのスペンサー経由のものであった。スペンサーは、ダーウィンの自然選択説を換骨堕胎して、適者生存説をぶち上げたわけだが、ベルグソンはその適者生存説に大きな影響を受けたようである。ベルグソンの思想の特徴は、人間の知性の働きを、生存の便宜性と関連付けることだが、その人間にとっての生存の便宜性こそは、適者生存と深いかかわりを持つのである。

エスプリはきわめてフランス的な概念だ。それに相当する言葉、要するに翻訳上対応する言葉は、英語ではスピリット、ドイツ語ではガイストということになるのだろうが、厳密に一致しているわけではない。意味の上にずれとか行き違いがある。このエスプリをベルグソンはもっぱら笑いとの関係において取り上げる。ベルグソンによればエスプリは、笑いの根源であるおかしみの、言葉の上での表れということになる。それを日本語で表記すれば機知ということになろう。

笑いについてのベルグソンの説は、かれの主要思想である純粋持続とどのような関係にあるのか。ベルグソンは笑いを、基本的には社会的なものだと定義する。人間というものは社会的な生き物だから、他の人間を無視しては生きられない。社会は個人に対して一定の態度を求める。それは明確な規範という形をとることもあれば、暗黙の期待という形をとることもある。どちらにしても個人はそうした社会の要請に応えなければならない。だから個人がその要請に反したことをすると、社会は何らかの形で制裁を加える。笑いはそうした制裁の洗練されたものだ、というのが笑いについてのベルグソンの定義である。

ベルグソンは、無意識を哲学の主要なテーマとして持ち込んだ最初の西洋人ではないか。東洋では、無意識の問題は馴染みの深いものだった。大乗仏教の唯識哲学などは無意識を正面からとりあげているし、同じくインド思想から生まれたヴェーダンタ哲学なども、無意識を重視していると井筒俊彦は指摘している。井筒によれば、イスラム教シーア派の神秘思想やユダヤ教の神秘思想などにも無意識を重視する流れはあるようだ。小生は、ベルグソンの無意識をめぐる思想は、フロイドのそれと並んで、ユダヤ教の神秘主義思想あたりに根源があると見当をつけている。

ベルグソンは、人間の精神の本質的なあり方を純粋持続としての時間性に求めた。ベルグソンはその思想を、学位論文「時間と自由」において展開したわけであるが、「物質と精神」において、更に徹底的な考察を加えた。その考察を通じて、時間というものが人間にとって持つ本質的な意義を明らかにしたのである。

ベルグソンが「時間と自由」の中で展開して見せたのは、精神と物質をめぐるデカルト的な二元論を20世紀に復活させるものだった。物質は延長によって特徴付けられる、それに対して精神は非延長的なものであって、その本質は持続としての時間にある。延長すなわち空間的なものと、持続すなわち時間的なものとは全く異なった原理に立っている。だから混同すべきではない。ところが大多数の人々は両者を混同している。それも時間を空間化するという形で。その結果奇妙なことが沢山起きる。エレア派のゼノンが提出した詭弁はその最たるものだ。そういう錯誤を避けるためには、精神と物質とを、全く異なったものとして峻別せねばならない、というのが「時間と自由」という著作の基本的内容だった。

ベルグソンの著作「時間と自由」第三章は、自由についての議論である。自由はとりあえずは意思決定の自由という形をとるが、その自由をどう捉えるかは、自然や人間の精神活動についての考え方を背景にしている。ベルグソンはその考え方を、機械論と力動論とに分ける。機械論というのは、自然や人間の精神活動はある一定の法則によって支配されていると見るもので、したがって人間の意志には自由な決定の余地はないとみなしがちである。それに対して力動論は、自然や人間の精神活動には法則にしばられない部分があり、したがって自由な意思決定の余地が残されていると考える。しかしその力動論といえども、法則性を無視するわけではない。

岩波文庫で邦訳が出ているベルグソンの著作「時間と自由」は、学位論文として書かれたもので、ベルグソンの思想活動の出発点となるものである。もともとのタイトルは「意識の直接与件について(Essai sur les données immédiates de la conscience)であった。それが英訳された際に訳者が「時間と自由」と訳し、日本でもそれが踏襲された。この著作の内容は、時間と空間の関係及びそれを踏まえた上での自由と必然性との関係についての誤った考えへの批判に費やされているので、「時間と自由」という題名でも差し支えないといえよう。

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