知の快楽

ジャック・デリダ(Jacques Derrida 1939-2004)といえば、「脱構築」という言葉が真っ先に浮かんでくる。この言葉の意味は、とりあえずは、デリダ自身が属する西洋的なものの考え方を根本的に解体しようとする意思を示すものだ。「脱構築」は、フランス語では deconstruction といい、解体というような意味を持っているから、デリダの意図をあらわすにはふさわしい言葉だったわけだ。そういう意味で「解体」という言葉を使った哲学者にハイデガーがいる。デリダがハイデガーから強い影響を受けたことは明白な事実なので、かれの「脱構築」がハイデガーの「解体」の延長にあることは間違いない。そのハイデガーは、西洋思想の解体という思想を、ニーチェから受け継いだ。ニーチェが主張していたことは、プラトン的・キリスト教的な賤民の道徳を解体し、それにかわってエリートにふさわしい力の崇拝をめざすものであった。それをニーチェは、「金髪の野獣」に相応しいあらたな力の発現というふうに表現したが、その内実は必ずしも明らかとはいえなかった。

ヴァンサン・デコンブが「知の最前線(原題は Le même et l'autre. - Quarante-cinq ans de philosophie française」を刊行したのは1979年のことだが、フランス現代思想を概括したこの著作は、いまでも色あせていない。これ一冊で、フランス現代思想の流れを理解できるようになっている。まるでこの本が、フランス現代思想の全体像をもれなく伝えているかのようである。ということは、フランスの現代思想の発展が、その時点で事実上とまってしまったということか。この著作は、哲学の終焉よりもっとラディカルな主張である「人間の終焉」を語ることで終わっている。人間が終焉したというのだから、哲学の発展が終わっても何ら不思議ではないわけだ。

「眼と精神」所収の同名の論文は、メルロ=ポンティの存命中に刊行された最後のものである。これを彼が脱稿したのは1960年8月、その翌年5月に死んだわけだから、いわば遺書のようなものである。これを書いた時期の前後に、かれは、死後「見えるものと見えないもの」と題して刊行された大著を執筆中であった。この大著は結局未完成に終わったが、残された遺稿からは、自然と人間のかかわりあいをテーマにしたものであること、タイトルにあるとおり、見えるものと見えないものとの相互関係を掘り下げて論じたものだということが分かっている。「眼と精神」と題するこの論文も、見えるものと見えないものとの深い関連について論じているから、かれの最晩年の問題意識が集中的に考えられたものだということができよう。

「シーニュ」所収の「生成するベルグソン像」は、1959年の「フランス哲学会」におけるベルグソン追悼会での講演記録である。この講演の中でメルロ=ポンティは、ベルグソンの画期的な業績をほめたたえているのだが、かれはもともとベルグソンをそんなに高く評価していたわけではない。むしろ批判的であった。

メルロ=ポンティは若いころより現象学を標榜していたから、フッサールについては折につけて言及していた。「シーニュ」所収の「哲学者とその影」は、かれのフッサール論の集大成というべきものである。かれがこれを書いたのは死の前々年のことだから、ますますそう言える。とはいえ、これはフッサールという思想家をトータルに捉えようというものではない。「イデーン」第二部を中心にして、フッサール晩年の思想を、自分自身の思想にからませながら論じたものである。メルロ=ポンティは、彼自身の現象学を、フッサール晩年の思想によって改めて根拠づけたいと考えたといえよう。

「シーニュ」所収の文章「モースからクロード・レヴィ=ストロースへ」は、メルロ=ポンティによるレヴィ=ストロース論である。これをメルロ=ポンティは、モースの「贈与論」の英訳を記念して書いたのであったが、その趣旨は、構造主義的な社会学への共鳴を示すというものだった。メルロ=ポンティは、実存主義者を自認したことはあったが、自ら構造主義者と名乗ったことはなかった。だが、彼の思想には、レヴィ=ストロースに通じるような構造主義を思わせることろがあった。それは「知覚の現象学」の中で、ソシュールの言語論にたびたび触れていることにあらわれている。レヴィ=ストロース自身は、民俗学のフィールド・ワークから入ったのであって、かならずしもソシュールの徒ではないが、ソシュールの構造主義的言語学と共通するような考えをもっていたとはいえる。

メルロ=ポンティの「シーニュ」所収の文章「どこにもありどこにもない」は、1956年に刊行された「著名な哲学者たち」という、ある種の哲学史に対する序文として書かれたものである。この哲学史を、小生は読んだことがないが、どうも東洋思想やキリスト教思想を含めた東西の著名な「哲学者」たちについて、その文章の一部を紹介するアンソロジー的な構成をとっているようである。要するに人類の知的遺産についての一覧を供するという建前をとっているらしい。そういうタイプのアンソロジーは、一時日本でも流行ったものだ。

メルロ=ポンティの「シーニュ」所収の論文「間接的言語と沈黙の声」は、サルトルに捧げられている。この論文が書かれたのは1952年のことで、その年二人は決定的に別離した。そういう背景を念頭に読むと、この論文がサルトルへの批判を含んでいると思わせられる。もっともサルトルを直接取り上げたものではなく、サルトルの名はことのついでのように出てくるだけなのであるが、この論文の主要なモチーフの一つが歴史ということであれば、その歴史の解釈をめぐって、両者の間に溝があることは納得される。

「シーニュ」はメルロ=ポンティにとって、「意味と無意味」に続く二冊目の論文集である。これを刊行したのは1960年のことであり、「意味と無意味」の刊行から12年が過ぎていた。しかも彼は、この本の刊行の翌年、1961年に死んでいる。だからこの論文集は、「意味と無意味」以降の彼の文業の集大成的な意味をもっているわけだ。その間に彼は、サルトルと決別し、またマルクス主義とも一線を置くようになり、次第に彼の性にあった活動をするようになる。もっともその活動は、突然の死によって中断されるのであるが。

メルロ=ポンティがマルクス主義について積極的に発言したのは、大戦後の一時期、すなわち対ナチ戦争に勝利してからほぼ五年の間である。この時期は、マルクス主義の権威が非常に高まっていた。フランスにおいては、共産党がレジスタンスの有力な一翼を担ったこともあって、共産党への信頼が他の国より強かった。そういう事情を背景に、フランスの知識人は、マルクス主義に対して一定の態度表明をするのが知識人としての義務だと感じたようだ。メルロ=ポンティは、この時期サルトルと親密な関係にあったので、サルトルと共同戦線をはる形で、マルクス主義を擁護するような活動をした。

メルロ=ポンティは、身体と精神とは別のものではなく、人間という全体性の二つの現れであるといい、したがって外面としての身体、内面としての精神という具合に、対立関係において考えるのは間違っている、内面と外面は一致している、と主張する。そうしたメルロ=ポンティにとって、映画は、内面と外面とが一致するという真理を如実に表した芸術ということになる。我々は、映画の中の人物の動作(外面)から、かれの心の状態(内面)を推測するのではなく、つまり間接的な推理をするのではなく、かれの動作のなかに、外面と内面の一致を見るのであり、かれの動作の意味を直接的に認知するのである。

第二次大戦終了後しばらくの間、メルロ=ポンティとサルトルは蜜月関係にあった。そんな関係をもとに、メルロ=ポンティはサルトル論を書いた。「ひんしゅくを買う作家」(「意味と無意味」所収)と題された小文である。その小文の中でメルロ=ポンティは、作家としてのサルトルについて、かれが「ひんしゅくを買う作家」として攻撃の対象になっている事態に対して、かれなりにサルトルを擁護するのである。

メルロ=ポンティは「知覚の現象学」の中でたびたびセザンヌに言及した。それは、知覚とはゲシュタルト的なものであり、したがってすでにそれ自体意味を帯びたものだという彼の考えが、セザンヌにおいて好例を見出すというふうに思ったからだと思う。そのセザンヌについてメルロ=ポンティは「セザンヌの疑惑」(「意味と無意味」所収)という論文を書き、主題的に論じている。

メルロ=ポンティの著書「意味と無意味」は、1945年から1947年初めにかけて書かれた小論を集めたものである。この時期メルロ=ポンティはサルトルとともに雑誌「現代(Les Temps modernes)」を主催しており、そこに掲載した文章を中心にして編集したものである。多くは時事評論的なものである。第二次大戦後まもない時代の空気を反映して、政治的な問題意識を感じさせる文章が多い。そうした政治的な文章は、先行する論文集「ヒューマニズムとテロル」にも収められている。

メルロ=ポンティにとって、自由は選択の問題である。その点では、伝統的な議論とつながるものがある。伝統的な議論は、自由を必然性との対立においてとらえ、必然性に束縛されることのない選択こそが自由の意味なのだとした。だが、そんな選択はありえないとメルロ=ポンティは言う。自分はたしかにある事柄について選択しないことはできるが、その点では選択を強制されるものではないが、しかしその場合でも、まったく何も選択しないわけではなく、別のものを選択しているに過ぎない。それがたとえ、ある事柄を選択しないという選択であるとしても。

時間と空間についてのメルロ=ポンティの議論は、伝統的な議論とはかなり異なっている。伝統的な議論は、実在論と主知主義によって代表されるが、どちらも時間と空間とを同じ次元で論じていた。実在論は、時間と空間とを実在的な対象に本来備わったものと見ることで、時空を同じ次元に位置づけていたし、カントによって代表される主知主義は、時間と空間とをともに理性の側にそなわる形式と見ることで、やはり時空を同じレベルに位置づけていた。それに対してメルロ=ポンティは、時間と空間とをそれぞれ異なったレベルに位置づける。空間は、主体が世界とかかわるところに成立するという意味で、主体のいわば外面のようなものである一方、時間は主体と一致している。時間は主体=主観であり、主観は時間なのである。そのことをメルロ=ポンティは、「私自身が時間なのである」と言っている。

メルロ=ポンティのコギトについての議論は、とりあえずデカルトのコギトへの批判から始まる。デカルトは、思惟の働きとしてのコギトと、その働きの主体としての我を区別して、あの有名なテーゼ「我思うゆえに我あり」を導き出した。こうした考えにメルロ=ポンティは異議を唱える。デカルトにおいては、思惟の対象と思惟の主体とは区別されるのであるが、またそれゆえにこそ、「我思うゆえに我あり」という言葉に意味があることになるのだが、メルロ=ポンティは、そうした考え方をしない。思惟の対象とそれを思惟していること(思惟のはたらきとその主体)とは区別されない。思惟の対象と思惟のはたらきは同一の「存在様相」を持つのであって、もともと一体のものなのである。それが別々のものとして区別されるのは、間違った反省のためである、そうメルロ=ポンティはいうのだ。

デカルトのコギトから出発した西洋近代哲学にとって、他者の問題は解きがたいアポリアだった。意識によってすべてを基礎づけようとすれば、私の意識以外のものはすべて対象であって、他者もまた対象である限り、机や椅子となんら変わりはない。私は私が意識であることを確実に知るのであるが、机に意識が宿っているとは思わないし、それと同じように、他者にも意識が宿っているとは明言できない。意識にこだわる限り、意識の担い手としての他者は、わたしにとっては明瞭なものではないのだ。無論私は、他者が自分と似た存在であると思う限りにおいて、自分が持っている意識を他者もまたもっていると推測することはできる。だが、それはあくまでも推測であって、明証な事実の認識ではない。ともかく意識から出発する限り、他者の問題は解きがたい難問なのである。

空間についてのメルロ=ポンティの考察は、「知覚の現象学」の根本的な問題意識をもっとも尖鋭的に感じさせるものである。その問題意識とは、知覚についての経験論的な考えと主知主義との二項対立を克服して、その両者を包み込むような第三の視点を求めようとするものだった。その二項対立は、空間にあっては、客観的な空間と主観的な空間の対立として現れる。客観的な空間とは、私の意識とは別に、対象的な世界そのものがそれ自体空間の性質を内在していると捉えられたものであり、一方主観的な空間とは、カントに典型的なように、主観によって構成されたものである。客観的空間は事物そのものの性質であり、主観的空間は意識によって構成されたものである。その点では、アプリオリな形式といってよい。

共感覚(共通感覚)を哲学上の問題として取り上げたのはアリストテレスだ。アリストテレスは、世上に五感と称されるような個別の感覚を超えて、それらを統合するような感覚があると主張し、それを共感覚(共通感覚)と名付けた。共感覚は、ある対象についての原初的な感覚であって、そこでは視覚的、聴覚的、触覚的等々の要素が区分されずに混沌とした全体の印象として受け取られる。その共感覚を基礎として、それを分節することで、個別の感覚、たとえば視覚とか聴覚とか触覚が現れると考えた。アリストテレスはまた、共感覚を第六感のようなものとして位置づけ、その第六感が常識の基礎となるともいった。思想史のその後の流れの中では、常識の基礎としての第六感のほうがより強い注目をあつめ、本来の感覚としての共感覚は軽視されるようになった。それを感覚本来の問題として取り上げなおしたのはメルロ=ポンティである。

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