浮世絵師といえば、役者絵を描くのが当たり前であった。大衆の需要が大きくて、手っ取り早く金を儲けることができた。なにしろ写真もなく、当然週刊誌もない時代だから、浮世絵が芸能界を大衆に結びつける最大の媒体だった。
日本の美術
月岡芳年は若干二十歳の頃には一人前の浮世絵師として人気を博していたようである。その頃の彼は、武者絵を中心として色々なジャンルに挑戦していた。「桃太郎豆蒔之図」と題するこの作品はその一点。三枚組のそれぞれに「一魁齋芳年」の署名がある。芳年は師国芳の一字をもらったものだ。
月岡芳年は早熟な絵師だった。今に伝わる作品の中で最古のものは、嘉永六年(1853)満十四歳のときのものだ。この時芳年は国芳に入門して三年目だったが、すでに先輩にひけをとらないような技術の冴えを見せていた。
月岡芳年(1839-1892)は、最後の浮世絵師と呼ばれる。明治維新は彼が三十歳のときのことであり、その頃に画家として独り立ちしていた芳年は明治二十五年に満五十三歳で死ぬまで日本の浮世絵界をリードしたのであるが、それは浮世絵史の最後の段階にあたっていた。浮世絵は芳年の死とともに長い歴史に幕を閉じたのであって、したがって芳年は最後の浮世絵師と呼ばれてしかるべき存在だったのである。
「暁斎楽画」シリーズの一枚「地獄太夫」。地獄太夫といえば一休伝説の中で出てくる遊女のことだが、この絵では一休を省いて地獄太夫だけを登場させている。それとともに、一休と縁の深い骸骨も多数登場させている。その数たるや夥しい。そんなわけでこの絵は、地獄太夫をダシにして骸骨を描くのが目的だったと思わせるほどだ。
「達磨の耳かき図」も、「一休と地獄太夫図」同様、高僧と美女の戯れあう姿を描いたもの。高僧が美女にうっとりとしたり、浮かれたりするところを描くのがミソだ。
地獄太夫とは、一休さん伝説に出てくる遊女。一休さんが和泉の国の境の町である遊女と逢ったときに、その遊女との間で歌のやりとりをするが、そのうち遊女が名高い地獄太夫であることを知り、「聞きしより見て恐ろしき地獄かな」と詠んだところが、地獄太夫は「しにくる人の落ちざるはなし」と下句をつけた、と伝わっている話だ。
これは、蛙ならぬ猫を眺め入っている美人を描いた一枚。美人は横たわって、両肘をついて顎を支えた姿勢で無心に猫の姿に見入っている。猫のほうは人に見られているのが気にならぬようで、何事もないようにうずくまっている。もっとも美人のように寝そべっているわけではないので、多少の緊張は感じているのかもしれぬ。
幕末から維新前後にかけては美人画の浮世絵が流行ったこともあって、暁斎は美人画を多く手掛けている。結構需要があったのだろう。ほかのジャンルの絵同様、美人画にも戯画の調子が感じられる。そこが暁斎らしいところだろう。
河鍋暁斎は、妖怪や地獄の絵と並んで、極楽往生の様子も描いた。「北海道人樹下午睡図」と題するこの大作は代表的なものだ。普通の釈迦の涅槃図とは異なり、遊び心が込められている。その遊び心は、涅槃に午睡の字を当てているところにもうかがえる。この絵は釈迦ならぬ北海道人が樹下に昼寝をしている様子を描いているのだ。
これは浄玻璃鏡に映った罪人たちの生前の所業を確認している閻魔大王の様子を描いたもの。先にとりあげた地獄極楽図のうち、閻魔大王と浄玻璃鏡をアップにして描いたものだ。
河鍋暁斎は幽霊の絵とともに地獄の絵もよく描いた。幽霊と地獄の間にどんな関係があるか、いまひとつはっきりしないが、幽霊の方が日本古来の迷信に根差しているのに対して、地獄のほうは仏教、とりわけ浄土信仰と密接な結びつきがあったことは言えるようだ。地獄は浄土の正反対として、成仏できない罪深い人たちが落ちてゆくところとしてイメージされていた。そういう目に合わないためにも、人は阿弥陀様を深く信仰せねばならぬと言いきかれてきたわけだろう。
風神雷神図は、琳派や狩野派が好んで描いたが、河鍋暁斎も狩野派のはしくれとして手掛けた。風神雷神図は非常に人気があったので、注文も多かったのだろう。暁斎は数多く手掛けている。この図はそのなかでももっとも有名なものだ。
画面の中央に描かれている狐は九尾の狐といって、中国の伝説上の怪物である。それが日本に伝わって様々な伝説と結びついたが、なかでも謡曲「殺生石」で語らえている伝説が有名である。それによると、九尾の狐は中国では妲己となって殷王朝を亡ぼし、天竺では華陽夫人となって残虐の限りを尽くし、日本では玉藻の前となって鳥羽上皇をたぶらかそうとしたが、見破られて那須野の殺生石に封じ込められたということになっている。
これは生首を咥えた幽霊を描いたもの。幽霊はふつう一人で化けて出てくるというのが相場で、このように人間の生首を咥えているのは珍しい。しかもこの幽霊は男である。幽霊と言えば、お岩さんとか番町皿屋敷のお菊さんのように女の幽霊が圧倒的に多く、男の幽霊は非常に珍しい。しかもそれが生首を咥えているとあっては、幽霊と言うよりは妖怪といったほうがいいかもしれない。
河鍋暁斎は妖怪画を多く描いたが、その中には幽霊を描いたものも多い。親しくしていた五世尾上菊五郎が幽霊の絵を集めており、それを見せてもらう一方、自分にも描いてほしいと頼まれたりして、幽霊に興味をもったこともある。その幽霊の描き方だが、これには徳川時代に流行した幽霊の芝居とか、それ以前から伝統的に伝わってきた幽霊のイメージが働いたものだと思われる。日本人が持ってきた幽霊のイメージは興味深い研究課題たりうるが、暁斎の幽霊画はそれにひとつの材料を供するものだと思う。
それぞれに長い特徴を持った三人の人物を配した図柄。書物を読む長い頭の男を中心に、足の長い男がその長頭のてっぺんあたりをカミソリで剃り、手の長い男が頭を布巾で拭いている様子が描かれている。これも何を寓意しているのかよくわからない。つまらぬ詮索は抜きにして、純粋に図柄の面白さを楽しんだほうがよいのかもしれぬ。
「耳長と首長」を描いたこの一枚は、「天狗の鼻切り」とともにエドワード・モースが日本滞在中に収集した暁斎の戯画九点のうちの一枚。真ん中に長い耳の男が、その右手に首の長い男が描かれている。長い耳には小人たちがぶら下がり、長い首の上の頭には飛び出た目の上で小さな男が望遠鏡で耳長をのぞき込んでいる構図だ。
天狗といえば長い鼻がトレードマークだが、天狗の鼻が何故長くなったかはよくわからない。ましてその長い鼻を切られる天狗の話は聞いたことがない。そんな根拠の不確かなことを、暁斎らしいユーモアを込めて描いたのが、「天狗の鼻切り」と題するこの一枚だ。
「枯木寒鴉図」と題したこの絵を暁斎は、明治十四年の第二回内国勧業博覧会に出品した。それについてちょっとしたエピソードがある。この絵は、実質的な最高賞であった妙技二等賞牌をもらったのだが、それに気をよくした暁斎は売却価格として百円の値段をつけた。すると鴉一羽に百円は高いと悪口を言われたのであった。だが、暁斎は、これは自分の画業の集大成であるといって譲らなかった。結局この絵は、日本橋の菓子屋栄太郎の主人が言い値で買ってくれたので、暁斎は大いに面目を施した。
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