日本の美術

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蛤蜊観音は、中国の俗説から生まれたもので、仏教の経典にあるわけではない。その俗説というのは、唐の文宗皇帝がハマグリを食おうとして、蓋が開かないので、香を焚いて祈祷したところ、蓋があいて中から観音様が現れたというものだ。

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白隠の描いた観音像は、慈母のイメージが強い。達磨像を初め男性的な表情における鋭い覇気のようなものに代って、観音像には女性的な優しさが顕れている。その多くは伏し目がちで、控えめな表情をしており、白隠の女性についての理想像が垣間見られる。

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「出山釈迦」と題したこの絵は、山中で修行を重ね、悟りを開いた釈迦が山を下りてゆくところを描く。仏教の経典では、釈迦は川のほとりの菩提樹の木の下で瞑想し、悟りを開いた後は梵天の勧めに従って衆生の教化を始めたということになっている。川と山の違いはあるが、悟りを開いた釈迦が衆生の教化のために歩み出したというイメージは共通しているようである。

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白隠は、禅宗の祖師を描いたほか、釈迦や菩薩の絵も描いた。そのうち、白隠の描く釈迦は、説法をしたり衆生済度を行う尊い姿ではなく、修行中の姿を描いたものがほとんどだ。修行をする釈迦に、己の姿を重ね合わせていたのかもしれない。

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これも永青文庫所蔵の大燈国師像。乞食大燈像とほぼ同じ構図だが、頭に笠をかぶっていること、左手で椀を持っていること、背中に薦のようなものを背負っていることなどに相違が見られる。右手でなにかの印を結んでいること、左手でズタ袋を持っていることなどは共通している。

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日本の臨済宗では、日本臨済宗の発展に尽力した三人の僧を祖師として尊重している。大應国師・南浦紹明、大燈国師・宗峰妙超、関山国師・慧玄である。大應国師は、鎌倉時代に中国から日本に渡ってきて、崇福寺の開山となり、大燈国師は、大應国師の法を継いで大徳寺の開山となり、関山国師は、前二者の法を継いで妙心寺の開山となった。この三人を臨済宗では應燈関と称している。現在の臨済宗のすべての法統はみなこれにさかのぼるという。

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臨済宗には、禅共通の祖師としての達磨のほかに、臨済、雲門の二人を加え、三祖師の法統がある。臨済は八世紀の唐の時代に活躍し、臨済宗の宗祖となった人、雲門は晩唐から五代の時代に禅の興隆に尽くした人である。白隠は、この三人を並べた祖師三幅対をいくつか描いている。これは、愛知県の定光寺に伝わる三幅対である。

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達磨が子供用の玩具あるいは厄除けや必勝祈念のアイテムとして今日のような形になったのは、徳川時代の中ごろだったらしい。それも起上小法師という形で子供向けの玩具として始まったようだ。白隠もそのような世の動きを察知していて、達磨の起上小法師をテーマにした絵を描いている。この作品はその代表的なもので、恐らく最晩年八十歳代の作だと推測される。

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静岡県の永明寺に伝わる半身達磨像。白隠四十歳代の作品と推測されている。晩年の達磨像とは明らかに異なった特徴が認められる。だが、ふっくらとしたその表情は、やはり白隠の自画像だと考えられる。

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白隠は数多くの達磨像を描いたが、このように横顔を見せている構図のものはめずらしい。しかもこの絵は、一筆描きを思わせるような、簡略なタッチで描かれている。白隠の達磨像としては破格の描き方だ。多くの場合、白隠の達磨は正面を向いており、薄墨で輪郭線を描いた跡で、ポイントを黒く強調するというのが基本的な描き方だが、これはそれから大きく逸脱している。

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白隠は隻履達磨の像を数多く描いている。隻履達磨というのは、片方の履物だけを持った達磨のことである。それには達磨にまつわる伝説がある。達磨が中国で没した三年後のこと、西域を旅していた人が達磨に出会った。片方の靴だけを持っているので不思議に思い、訳を聞くと、これから生まれ故郷のインドに帰るのだとのみ答えた。その人が中国へ戻ったあと達磨の墓を暴いてみると、そこには達磨の遺体はなく、履物の片割れだけが残っていた。

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静岡県の臨済宗寺院清見寺に伝わる半身達磨像。三百点もある達磨像のなかで、顔の部分がもっとも大きく表現されたものだ。左手に縦書きで賛が添えられ、「直指人心、見性成仏」というおなじみの標語の脇にある落款は「沙羅樹下八十三歳老僧白隠叟書」とあることから、白隠最晩年八十三歳の作品とわかる。

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三河の臨済宗寺院華蔵寺に伝わる半身達磨像。構図的には、紀州無量寺の半身達磨像と良く似ている。「直指人心、見性成仏」の賛も同じだが、こちらは達磨の顔の上ではなく、斜め左手に配されている。それ故、達磨の視線と賛との間に直接的な対応関係は見られない。

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これは紀州の串本無量寺に伝わる達磨像。無量寺は東福寺派の禅寺で、長沢芦雪や丸山応挙の作品を多く収蔵しているが、白隠の作もいくつか持っている。これはその一つだ。何時頃の作品か、詳しいことはわからないが、白隠が達磨像を多く手がけるようになった晩年つまり七十歳代の作品だろうと推測される。

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白隠禅画のハイライトは、何と言っても達磨像だ。白隠は夥しい数の達磨像を残した。それらは、他の禅画同様、美術品として描いたのではなく、あくまでも禅画、つまり禅についての自身の境地とか、弟子や信者を導く手段として描いたものだ。偶像を通じて宗教を受容する(神を信じる)ことを禁じたキリスト教やイスラム教とは異なり、仏教には偶像崇拝禁止の強い動機はなかった。むしろ仏像などの偶像を積極的に用いて人々を強化してきた歴史が仏教にはある。禅画もそうした伝統を踏まえているわけであり、日本臨済宗中興の祖といわれる白隠も例外ではなかった。というより白隠こそ、衆生教化に果たす偶像の威力を最もよく理解していた人であった。

白隠の禅画

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白隠は徳川時代の中期に生きた禅僧である。貞享二年(1685)現在の静岡県沼津市に生まれ、明和五年(1768)に八十四歳で死んだ。若い頃から信仰心が厚く、三十二歳頃に沼津の禅寺松陰寺の住職となり、生涯その職にとどまった。しかし、その法名は日本中にとどろき、臨済宗中興の祖と称された。現在の日本の臨済宗はすべて、白隠の法統を受け継ぐとされる。

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これは雪舟の絶筆となった山水図である。上部に、牧松周省と了庵桂悟による賛が添えられている。まず、牧松が賛を寄せ、彼の死後に了庵が賛を加えたことが、文面から読み取れる。

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「天橋立図」は、雪舟八十二歳以降の最晩年の作品と考えられる。技法的にも、品格の上でも、雪舟の画業の集大成といえるもので、彼の最高傑作の一つに数えてよい。

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「杜子美図」は、驢馬に乗った杜甫を描いたもの。ごく単純な線と、やわらかい墨の筆致で、飄々たる杜甫のイメージを表現している。

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「恵可断臂図」は、禅僧であった雪舟の所謂禅画の代表的なものである。禅宗の開祖たる達磨と、その後継者恵可の劇的な出会いを描いている。達磨は、少林寺で面壁七年の修行を行っていたが、そこへ恵可が訪れて入門を乞うた。達磨がなかなか入門を許さなかったので、恵可はその決意を示す為に、雪の中に立ちながら、自分の左腕を切り落として見せた。それを見た達磨が、恵可の決意を評価して入門を許した、という逸話にもとづいている。

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