日本の美術

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建仁寺本坊には、海北友松の手になる障壁画五十面がある。そのうちの八面で、一の間を飾っていたのがこの花鳥図。松の巨樹と、その根方にいる孔雀を描いているこの図柄はその一部だ。海北の水墨画のもっとも典型的な図柄である。

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京都建仁寺の塔頭禅居庵に、松竹梅を描いた襖十二面がある。松竹梅のそれぞれを四面づつの画面に描き分けたものだ。そのうちの四面がこの「松に叭々鳥図」。松をメーンにして、それに叭々鳥を点景として加えている。

海北友松は、狩野永徳、長谷川等伯と並んで安土・桃山時代の日本美術を代表する巨匠である。その画風は、永徳の豪放さ、等伯の絢爛さに比べて、繊細な風情を感じさせるもので、しかも装飾的な要素にも富んでいた。従来は、永徳や等伯より低く評価されがちだったが、近年は永徳らに負けない高い評価を受けるようになってきている。

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長谷川等伯は龍虎図を何点か手掛けている。桃山時代から徳川時代の初めにかけて、龍虎図が流行ったので、等伯にもその注文が来たのだろう。この作品は、やはり「自雪舟五代長谷川法眼等伯」の署名があり、六十八歳の時のものである。左右両隻に龍と虎とが向かい合っている構図は、互いに視線を交差させているところなど、なかなか迫力を感じさせる。

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「鴉鷺図屏風」は、両隻の両端に「自雪舟五代長谷川法眼等伯筆」の署名があることから、等伯晩年の作品とわかる。左隻に五羽の鴉、右隻に十二羽の白鷺をあしらったこの屏風絵は、「松に鴉・柳に白鷺図屏風」と比較すると、やや硬直したところを感じさせる。線描を主体として、表現の仕方も様式的だ。

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永観堂として知られる京都禅林寺に伝わる波濤図は、もともと仏間の南北両側面の襖に描かれていたが、後に掛幅に改装された。古くは狩野元信作といわれたが、特徴的な岩の描き方からして、長谷川等伯作と認められた。

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妙心寺の塔頭隣華院は、祥雲寺開山南化玄興の庵居として、慶長四年(1599)に建立された。その客室周囲二十面にわたり、長谷川等伯が襖絵を描いた。等伯六十歳頃のことである。これはその一部で、客室北側の四面。この作品は後に、天保三年(1832)の再建の際に、狩野永岳によって補筆されているという。

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妙心寺雑華院所蔵の「古木猿猴図」は、前出の「竹林猿猴図屏風」と同様、牧谿の猿の図柄に強く影響された作品である。こちらのほうが完成度が高い。牧谿の模倣を脱して、等伯独自の境地から、猿を描いたためだろう。その完成度の高さは、場面の躍動感となって表れている。

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「松林図屏風」を等伯は、息子久蔵と一門を連れて祥雲寺の障屏画を制作して間もない頃に描いた。日本の水墨画史上最高傑作の一つのとされるこの作品を等伯は息子の死の直後に描いたのだったが、この作品には等伯の息子を失った悲しみが込められているようである。

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智積院所蔵の障屏画のうち「楓図」と一対をなすといえる「桜図」は、長谷川等伯の息子久蔵の手になるものである。当時久蔵は満二十四歳という若さであり、その才能が大いに嘱目されたが、惜しいことにこの翌年に死んでしまった。

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智積院所蔵の祥雲寺の作品のうち「松に秋草図」は、もともと障壁画として制作されたものを、後に二曲一双の屏風に仕立てなおしたものだ。非常に鮮やかな彩色で保存されている。右隻の画面いっぱいに松の巨木を配し、その根方から左隻にかけて、さまざまな秋草を描いている。

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秀吉は、愛児棄丸の菩提を弔って祥雲寺を創建した。その寺のために長谷川等伯は、息子の久蔵とともにいくつかの障屏画を制作した。等伯といえば水墨画を中心に描いて来たのだったが、ここでは、おそらく秀吉の意向を受けた形であろう、きらびやかな極彩色の図柄を制作した。祥雲寺は後に智積院の管轄となり、現在に至っている。天和二年(1682)に火災にあったが、取り外しのきく障屏画は難を逃れた。

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等伯は、禽獣に仮託して家族の情愛のようなものを描くことを好んだが、この「松に鴉・柳に白鷺図屏風」は、その代表的なもの。右隻に鴉の親子を、左隻に白鷺の夫婦の、それぞれ家族愛のようなものを表現している。

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この「竹鶴図屏風」も、牧谿の影響をうかがわせる作品だ。鶴の描き方は、牧谿作「観音猿鶴図」のものとほとんど同じである。牧谿の鶴も、竹林を背後にしているが、竹は申し訳程度に描かれているにすぎなかった。等伯のこの絵は、両隻に竹林を配し、鶴がその林のなかにたたずんでいるという風情を描出している。

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京都相国寺にある「竹林猿猴図屏風」は、中国の画家牧谿の「観音猿鶴図」を意識している。等伯は、三玄院所蔵の牧谿の絵を、同院のために「山水図襖」を描いた際に鑑賞し、それをもとにこの作品を作ったのだと思われる。牧谿の作品は、中央に観音を描き、その両脇に猿と鶴を描いているが、等伯のこの作品は、左隻に竹林を描き、右隻に猿の親子を描いている。

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大徳寺塔頭三玄院に、かつて雲母刷りで桐花紋を施した襖三十二面に山水図を描いたものがあった。現在は圓徳院にうつされている。上の写真はその一部。冬枯れらしき山水の佇まいが描かれている。

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「牧馬図」は、武人が原野で馬を調教するありさまを絵がいたもの。屏風絵の一般的な慣習に従って、右隻が春、左隻が秋の光景を描いている。上の絵は右隻のもの。春の原野で馬が生き生きとした動きを見せている。

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長谷川等伯の水墨画は、雪舟の強い影響が指摘されるが、「花鳥図屏風」と呼ばれるこの作品は若年期の等伯水墨画の代表的なもの。一見して、雪舟様式と呼ばれる構図を採用し、筆使いにも雪舟の影響がうかがわれる。雪舟様式とは、左右両隻のそれぞれ両端に主要な図柄を配置し、中央部に空間を置くことで、構図の安定を図ろうとするものである。

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長谷川等伯は、若年期には多くの肖像画を描いた。伝名和長年像として伝わるこの肖像画はかれの若年期肖像画の代表作である。武将の直垂に名和氏の家門である帆掛船があしらわれていることから、名和長年の肖像だとされてきたが、異論もある。名和長年は、等伯にとってはすでに過去の人であり、等伯がわざわざ過去の人の肖像を描くとは考えにくいというのが、その理由だが、等伯は別に武田信玄の肖像画も描いており、信玄同様過去の人である名和長年を描いても不思議ではないという反論もある。

長谷川等伯は狩野永徳と並んで桃山時代を代表する画家である。永徳のように家門の後ろ盾を持たず、能登の片田舎から身を興したが、たぐいまれな精進ぶりを発揮して画境を深め、独自の画風を確立した。一時は、大勢の門人を抱え、永徳の狩野派に対抗する実力をもったが、長谷川派は等伯あっての長谷川派で、等伯亡き後は、次第に衰えて行った。

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