日本の美術

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天球院下間二の間は朝顔の間とも呼ばれ、朝顔を中心とした草花の図柄を描いた襖絵が十八面ある。「籬に草花図」と題されたこの部分はその一部で、四面からなる。部屋の西側に位置する。

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「梅に遊禽図」は、天球院方丈上間二の間を飾る十八面のうちの四面。部屋の東側を飾り、北側の「梅に山鳥図」に連続する位置にある。梅の老木と、それにやすらう小禽たちを描いている。

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狩野山雪は狩野山楽に弟子入りし、後にその娘婿となった。山楽の画風を継承しつつ、一層装飾的な華やかさを追求した。学問にも明るく、儒教的教養に富んでいたといわれ、その絵には観念的な傾向もみられる。

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これも、大覚寺宸殿を飾る襖絵で、八面からなる。上の写真は、その右半分にあたる。梅の大木から、枝が縦横に延び、鮮やかな紅梅の花を咲かせている。梅の上部が途切れているのは、霞がかかっているためである。

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狩野山楽は、浅井長政の家臣木村永光の子光頼といったが、浅井家滅亡後父が秀吉に仕えていた時に、秀吉に画才を認められて、狩野永徳に弟子入りしたという、かわった経歴の持ち主である。秀吉との関係が密接だったことから、徳川家から疑われたこともあるが、なんとかそれを振り切って、徳川家の保護も受けるようになった。

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探幽は若い頃は采女を名乗り、三十台半ばに剃髪して探幽斎と号した。そしてその三年後には法眼に叙せられ、幕府御用画家としての名声を極めた。探幽は長命で、夥しい数の作品を制作した。その画題は多岐にわたり、金地の豪華絢爛な画風から、水墨画にわかるまで、技法的にも多彩であった。

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狩野探幽は、光信の弟孝信の長男である。光信の嫡子貞信が死ぬと、その後継に自分の末弟安信を当て、自分自身は江戸に赴いて鍛冶橋狩野の基礎を築いた。以後狩野家は、京都と江戸に分流するようになり、江戸の狩野は探幽を中心にしてあらたな発展を見せるようになる。

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狩野光信は永徳の長男として狩野派の本流を継いだ。画風としては、父永徳の豪壮さに対して、繊細さが売り物である。肖像画も手掛けており、教科書に出て来る有名な秀吉像は、光信の作品である。

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狩野長信は、狩野松英の四男で、永徳の弟にあたる。松栄が年を取ってから作った子であったので、永徳の長男で甥にあたる光信より年少だった。狩野派としては、最初に徳川幕府に仕え、後には家の長老として、狩野派の興隆に一定の役割を果たしたとされる。

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狩野永徳は、京都大徳寺聚光院方丈のために十六図からなる山水花鳥図を制作しているが、この「梅に小禽図」はその一部。四面の襖をつかい、画面いっぱいに枝を伸ばした梅樹と、その幹にとまる小禽を描いている。

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枝を大きく張った檜の巨木を大画面いっぱいに描いたこの図柄は、安土桃山時代の障屏画を象徴するような作品だ。檜の質量感を強調するために、背景は単純化され、色の数も少なめにしている。

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狩野永徳は、十代の若い頃に細密画に凝った。この洛中洛外図がその成果の一つで、永徳二十歳の頃の作品である。この作品は、細川家の依頼で制作されたと思われるが、後に信長の手に渡り、信長から上杉謙信へ贈られた。

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狩野永徳はすでに十代の頃から非凡な才能を発揮し、祖父元信から狩野家の跡取りと期待された。その祖父から十七歳まで絵の手ほどきを受け、十歳のときには祖父に伴われて足利将軍義輝に謁見している。

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狩野秀頼は狩野元信の次男として生まれたが、当時絵仏師をつとめていた本郷家の養子になった。そんなこともあり、秀頼の画風は、狩野本流とはいささか違う趣を呈している。大和絵の影響を指摘できる。残された作品は少ないが、この高尾観楓図屏風はかれの代表作である。

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この四季花鳥図も、松栄が大徳寺の為に制作した一点。一対の衝立からなり、それぞれの裏表に図柄が描かれている。これは衝立の特性を生かした作りだ。表面二面には四季花鳥図を、裏面二面には人物図を描いている。

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狩野元信には三人の子があり、いずれも父に倣って絵を描いたが、長男の宗信が若くして死に、次男の秀頼が他家へ養子に出たため、三男の松栄が狩野の本流を継いだ。松栄は、父の元信、子の永徳に挟まれて軽く見られる傾向にあるが、なかなか味わい深い絵を描いている。また、後の狩野派の特徴となる金地の豪華絢爛たる様式のはしりのようなものも感じさせる。

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京都妙心寺塔頭霊雲院方丈の襖絵群は、狩野元信の作品である。この塔頭が建立されたのは天文十二年(1543)であるが、この襖絵群はその際に制作されたものと思われる。上の写真はそのうちの一点、霊雲観覧桃図である。

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狩野元信は、正信の嫡子として狩野家の繁栄を託された。しかし時代は戦国の世と変わり、かれは足利将軍家の保護を期待できなかった。一時は諸国を放浪するほど困窮したらしいが、やがて京都の有力寺院の保護を得て、狩野派の存続を図った。苦労しながら家を盛り立てていったのである。

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狩野派の創始者狩野正信は、室町幕府の御用絵師として活躍した。以後狩野家は、時の権力者と結びつき、その政治的影響力を駆使しながら、画壇を支配していくわけである。そういう意味では、正信は狩野派の創始者としての面目躍如といった趣を呈している。

狩野派は、室町時代の末期に出た狩野元信(1476-1559)に始まり、永徳(1543-1590)によって画壇の主流の地位を確固としたものとし、探幽(1602-1674)が徳川政権の御用画師としての地位を獲得し、以後徳川時代を通じて、画壇を支配した。いわば日本におけるアカデミーを主催したようなものである。

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