日本の美術

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定慶は、運慶や快慶と同世代の仏師で、作風からみて慶派に属すると見られる。しかし、その作品が収められたのが興福寺と春日大社に限られ、また僧綱位についた形跡がないことから、慶派の主流ではなかった可能性が高い。その作風は、慶派の特徴である写実を基本としながらも、細部へのこだわりや装飾性等など、彼独自のものを指摘できる。

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蓮華王院の風神・雷神像は、二十八部衆像と共に、千躰千手観音の眷属として安置されているものだ。風神・雷神の由来については諸説あり、もっとも有力なのは日本神話とそれがもとになった民間伝承に起源を求めるものだが、二十八部衆同様仏教起源だという説もある。蓮華王院の風神・雷神は、宋本における風神・雷神のイメージを形象化したものと言われており、その点では仏教起源説に従っているといえよう。

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京都蓮華王院には、千手観音の眷属である二十八部衆の像が安置されている。二十八部衆には、梵天、帝釈天、阿修羅などおなじみのキャラクターのほか、婆藪仙、迦楼羅王像といった地味なものも含まれている。これらが、千躰千手観音とともに収まっている眺めは壮観である。

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俊乗上人重源は、治承の兵火で焼けた東大寺の復興に奔走した人である。かの西行も、重源に協力して、奥州の藤原氏に砂金の勧進を行ったことが知られている。重源の努力が実って、東大寺は速やかに復興できた。その復興に、運慶をはじめ慶派が総力をあげてかかわった。

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運慶の四男康勝の作品としては、法隆寺の阿弥陀如来像、教王護国寺の弘法大師像と並んで六波羅密寺の空也上人像がある。空也上人は、平安時代中期に活躍した僧で、浄土教の先駆者として知られ、阿弥陀聖などと呼ばれた。六波羅密寺は彼が創建したとされる。

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運慶の三男康弁の作品としては、興福寺の天灯鬼・龍灯鬼立像が残っている。もと西金堂に安置されていた。仏前に灯篭をささげる一対の鬼をかたどったものである。天灯鬼は左肩で灯篭を担ぎ、龍灯鬼は頭の上に灯篭を乗せている姿だ。龍灯鬼像内から出た銘文には、建保三年(1215)仏師法橋康弁が作ったと記されていた。

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湛慶の作品として今日伝わっているものは、蓮華王院の諸像のほか、高知の雪蹊寺にある毘沙門天像及び吉祥天、善膩師童子の諸像である。毘沙門天像の足部の墨書銘によれば、これら三像は法院湛慶によって造立されたとなっている。湛慶が法院になったのは建暦三年(1213)のことだが、それから建長三年(1256)に没するまでの何時の時点でこれらを作ったのか、くわしくは判らない。

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運慶には六人の子どもがいて、みな仏師となった。そのうち今日作品が確実に残っているのは、長男の湛慶、三男康弁、四男康勝の三人である。これらの息子たちが中心となって、慶派の本流を支えた。京都蓮華王院の千躰千手観音以下の諸像は、彼らの集大成と評価されている。もっとも蓮華王院の諸像は、慶派のほか、院派や円派などもかかわっており、当時の仏師を総動員しての壮大な事業であった。

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快慶は、建仁三年(1203)の東大寺僧供養の際に法橋となった。この地蔵菩薩立像は、「巧匠法橋快慶」の署名が右足部に刻まれており、快慶の法橋時代の作品で、唯一現存するものである。

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文殊菩薩騎獅像は、奈良の文殊院の本尊として作られた。文殊院は大化の改新時代の官僚安倍倉梯麻呂の氏寺として創建された寺で、安倍文殊院とも呼ばれている。この像は寺の本尊として、善財童子以下の眷属四像をしたがえ、獅子に騎乗した姿であらわされている。獅子は本来文殊の乗り物である。

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快慶は、建仁年間(1201-03)に作風の転換期を迎え、中期の段階に入ったといえる。いまだ前期同様安阿弥陀仏の署名をしてはいるが、その作風には、前期の特徴である写実に加え、優美繊細さが目だってきた。これは、この時期の快慶が、宋風、藤原彫刻、奈良の伝統的な様式を丹念に取り入れたことの結果だったと考えられる。こうした試みを通じて快慶は、運慶とはまた違った、彼独特の作風を確立していった。

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快慶初期の傑作のひとつに、浄土寺の阿弥陀三尊像がある。本尊の阿弥陀像が像高530cm、両脇時が370cmと、非常に規模の大きな仏像である。「浄土寺縁起」によると、建久八年(1197)に丹波法眼懐慶によって作られたとあるが、この懐慶とは快慶をさす。「丹波法眼」とした理由はよくわからない。

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快慶は、康慶の弟子として、運慶とは兄弟弟子にあたる。運慶と共に東大寺南大門仁王像を造立したことに象徴されるように、鎌倉彫刻の全盛期において、運慶と名声を二分した。南大門仁王像を共同制作したことなどで、彼らの作風に共通点ばかり強調される傾向があるが、その作風には微妙な違いが指摘できる。単純化して言うと、男性的な荒々しい作風の運慶に対して、女性的で優雅な作風の快慶ということになろうか。両者に共通しているのは、リアリズムを貫いているという点である。

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無著・世親は、五世紀頃のインドで活躍した兄弟僧である。法相の教学を確立したとされている。その兄弟僧の立像を、興福寺北円堂の中尊弥勒仏の住持として運慶以下が作成した。弥勒仏台座の銘によれば、世親は運慶第五子運賀の担当とされている。無著のほうは、第六子運助の担当だろうと推測されている。

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治承四年(1180)の兵火で焼かれた東大寺や興福寺は、いち早く復興された。その過程で、康慶・運慶父子をはじめとした慶派の仏師も参加した。東大寺南体門の仁王像はその代表的なものである。興福寺のほうについても、運慶を中心に仏像の再建が行われた。北円堂の諸像はその代表である。

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浄楽寺は、鎌倉幕府侍所別当和田義盛が文治五年(1189)に創建した寺である。その本尊として運慶が作ったのがこの阿弥陀三尊像であ
る。運慶はこれとあわせて、不動明王、毘沙門天の両像も作っている。これら三者は、願成就院でもやはりセットになっている。不動明王といい、毘沙門天といい、東国武士の好みを強く反映したものだ。

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願成就院の不動三尊像は、阿弥陀如来像、毘沙門天像とともに、文治二年(1186)に運慶が北条時政のために作ったものである。不動明王とその従者、制多迦童子及び矜羯羅童子からなっている。X線写真で、二童子像の内部には、毘沙門天像の内部から取り出された木札と同様のものが入っていることが確認されている。おそらく制作経緯を記しているのだろうと思われる。

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運慶は、三十歳代半ばに鎌倉に下向して、結構多くの仏像を作っている。奈良仏師で、康慶と同世代の成慶が頼朝に招かれて仏像を作っているが、運慶も成慶を追うようにして鎌倉に下向し、頼朝の岳父北条時政のために仏像を作っている。今日伊豆韮山の願成就院に残っている阿弥陀像以下の諸像がそれだが、ほかにも浄楽寺の阿弥陀三尊像がこの時期の作である。

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運慶は年少時から父の康慶に師事して奈良仏師としての修行を積み、二十代の半ばには一人前の仏師になっていたと思われる。その成果を物語るのが、円成寺の大日如来像である。台座の蓮華板裏面に書かれた銘文には、大仏師康慶実弟子運慶が安元元年(1175)に作り始め、翌年十一月に完成したと記されている。実弟子とは、実の子でありかつ弟子であるという意味である。

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(康慶一門作興福寺南円堂持国天像 木造寄木 像高206.6cm)

興福寺南円堂には、本尊の不空羂索観音像を囲んで四天王像が安置されている。これらの像は、康慶が中心になって、彼の弟子たちが協力して作られた。この持国天像は、康慶の舎弟実眼が分担したとされているが、いずれにせよ康慶の構想によるものと考えてよい。

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