日本の美術

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人間の生首をくわえた狼が、満月のかすかな光を踏みながら岩を伝って歩く、なんとも言えないすさまじさを感じさせる絵だ。暁斎は妖怪とか幽霊を多数描いたが、このようなすさまじい図柄の絵はそうはない。その意味で、暁斎の作品の中でも出色のものと言える。

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「暁斎楽画」は鳥獣草木を描いたシリーズで、乾坤の二巻からなる。鶏と獺をモチーフにしたこの絵は、坤巻の中の一枚。互いににらみ合う鶏と獺を描いている。鶏は鑑賞用の派手な種類、獺のほうはいまや絶滅してしまったとされる日本獺を捉えている。

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「白鷲と猿図」はジョサイア・コンドルの旧蔵品で、もともと暁斎がコンドルへの画法教授の目的も兼ねて描いてやった作品だと思われる。この作品は、狩野派の画法の特徴を盛り込んでいるところから、狩野派の一員としての暁斎の画法の一端をコンドルに示したのだろう。

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「群猫釣鯰図」と題したこの絵は、題名通り鯰を釣る猫たちを描いたものだろう。八匹の猫が木の上から、下の川で泳いでいる鯰を釣り上げよとしているように、一応は見える。川の流れは画面には描かれていないが、構図からそう読み取れるようにもできている。猫たちが木の枝から身を乗り出して、下をのぞき込んでいることからも、また、彼らが見ている鯰が上から描かれていることからも、この鯰が木の下を流れる川に浮かんでいるような見え方になるわけだ。

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河鍋暁斎は、蛙と同じように猫もよく描いた。「猫又と狸」のなかの猫はその代表的なものだ。そちらの猫は猫又といって半分妖怪のようなものだったが、この絵の中の猫は、色気のある雌猫である。色気はあるが、ゆるんではいない。目つきはなかなか鋭い。

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河鍋暁斎は、「風流蛙大合戦之図」をはじめとして多くの蛙の絵を描いている。すでに三歳にして蛙を写生したと伝えられる。蛙がよほど好きだったのだろう。その生き生きとしたところは、鳥羽僧正の蛙たちと双璧をなすと言ってよい。写実的な蛙もあれば、擬人化されたユーモラスな蛙もある。といった具合で、蛙の姿を千差万別に描き分けている。

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これは鳥獣の下絵のなかの一枚、動物たちの行列を描いたものだ。行列の先頭には烏帽子をかぶった梟が行き、その後を狐にまたがった狸が行く。この狐と狸の関係は、狐が狸を乗せているのか、狸が狐に乗っているのか、どちらとも言えないところがミゾだ。一方の狐は冠がわりに人間の頭蓋骨を頭に乗せ、もう一方の狸のほうは大きな葉っぱを蓑がわりに羽織っている。これはこれから化けるという合図かもしれない。

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河鍋暁斎は、動物を描くための下絵として数多くの作品(画稿)を残している。これはその一枚。動物たちの踊る姿を描いている。これはあくまでも下絵であるから、これをもとに本格的な作品を描こうという心つもりだったわけであるが、今日の目から見れば、これ自体として立派な作品になっている。

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「髑髏と蜥蜴」と題したこの絵は、「風俗鳥獣画譜」のなかの一枚。このシリーズは明治二年から三年にかけて、十四図が描かれた。いずれも絹本に金箔を貼り、極彩色で描かれている。テーマは木枯らしの霊だとかお多福だとか、暁斎一流の戯画的なものである。

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河鍋暁斎は動物を主人公にした数多くの戯画を描いた。それらの動物たちは、いずれも人間的な仕草や行為をしており、擬人化されている。単に擬人化というにとどまらず、風刺やアイロニーが込められてもいる。その点では人間さまをフィーチャーした暁斎流戯画の動物版といってよい。

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「放屁合戦絵巻」は、戯画師暁斎の面目躍如といった作品だ。放屁合戦の模様にことよせて世のなかを屁とも思わぬと笑い飛ばしている。暁斎はこのテーマの絵巻を二つ作っており、これはそのうちのひとつ。慶應三年に制作した。この手の戯画的な絵巻としては、鳥羽僧正の「鳥獣戯画」のほか、平安末期の仏絵師定智の「へひり比べ」などがある。この作品はそうした伝統を意識したのだろうと思う。

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「新板かげづくし」は、慶應三年(1867)に出版した影絵シリーズ。このシリーズは、回り灯籠に江戸風鈴をあしらったものに、灯籠に移った影を見世物にするもので、軍人の戦闘を描くものや、物の怪を描いたものなどがある。「天狗の踊り」と題したこの一枚は、文字通り天狗たちの踊る様子を影絵で描いている。

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「五道」と題したこの絵は、「とうつくし画帳」シリーズの中の一枚。このシリーズは、日本橋大伝馬町の小間物屋勝田五兵衛の依頼で描いた一連の小型浮世絵のことで、暁斎はこれらを百枚以上描いたという。ほかに五兵衛の依頼で作ったものに「猩々狂斎風俗画帖」があり、いずれも暁斎を名乗る以前の幕末期の作品である。

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「不動明王開化」と題するこの絵は、「暁斎楽画」シリーズの一枚(第五号)だ。「暁斎楽画」は明治七年(1874)沢村屋から出版した大判錦絵のシリーズで、明治維新にともなう文明開化の諸相を皮肉たっぷりに描いたもの。風刺のさびと色彩の豊かさが独特のコントラストを醸し出し、江戸っ子の人気を博した。

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「一寸見なんしことしの新ぱん」と題する三枚組の浮世絵は、幕末の物価騰貴を痛烈に批判したものだ。文久年間から上がり始めた物価は、慶應年間に入るとすさまじい勢いを呈し、この浮世絵が出回る直前(慶應二年)には、関西では米価が十年前の十倍、江戸でも四倍に跳ね上がる様相を呈した。そのため庶民の生活が窮迫し、米一揆や打ちこわしが各地で発生したほか、江戸近傍では武州一揆と呼ばれる大規模な騒乱が起こった。

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河鍋暁斎は、若い頃から社会情勢には敏感で、世の中の動きを戯画にして笑い飛ばしていた。「風流蛙大合戦之図」と題したこの絵はその代表的なもの。元治元年(1864)に描かれたこの作品は、同年夏に勃発した第一次長州征伐の様子を描いたとされている。

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川鍋暁斎は、絵そのものもユニークなものが多かったが、創作態度も破天荒だった。その一つに席画というものがあった。これは大勢の見物人を前にして、即興的に絵を仕上げるというものだ。その際には、酒を飲んで酔っていることもあったようだ。

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河鍋暁斎(1831-1889)は、幕末から明治初期にかけて活躍した画家だ。しかし長い間その業績が正当に評価されることはなく、近年になってやっとその存在が認められるようになった。しかも日本の国内からではなく、海外での評価の高さがきっかけとなった。なぜそうなのか。海外の名声が国内での評価につながった例は、伊藤若冲はじめほかにもあるが、暁斎の場合には、国内と海外との落差が誰よりも大きかったのではないか。

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蔦の細道図屏風は、伊勢物語第九段東下りのうち、宇津の山の蔦かずらの生い茂った細道の部分をイメージ化したものに、烏丸光弘が賛として七首の歌を書いたものだ。賛の歌は、いずれも伊勢物語からとられたものではなく、光弘が物語の雰囲気を踏まえて独自に詠んだものと思われる。この部分の原文は次のとおりである。

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宗達の手になる伊勢物語の色紙が今日46枚伝わっている。それらは、一時期に描かれたものではなく、寛永の半ばころから慶安年間にわたる十数年間に描かれたらしい。いずれにも宗達による落款はないのだが、色紙と裏打ち紙との間にある覚書から、ある程度の情報が得られる。それによると、書の筆者は、高松宮良仁親王や万里小路雅房など、身分の高い人であり、晩年の宗達が、貴族社会と深いかかわりを持っていたことがわかる。

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