日本の美術

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(康慶作興福寺南円堂不空羂索観音像 木造寄木 像高342cm)

慶派の基礎を築いた康慶については、出自など詳しいことはわかっていない。興福寺と縁が深かったことから、奈良仏師の流れから出て来ただろうと推測されている。奈良仏師は、定朝のあと脈々と続き、藤原時代の末頃に成朝が活躍するが、成朝が死ぬと、それとは別の流れである康慶が出現し、その康慶の流れから、運慶を始め鎌倉彫刻を代表する仏師が輩出した。

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東大寺南大門仁王像のうち阿像については、一応快慶が担当したと推測されているが、両像のコンセプトにはかなりの共通性が見られるので、運慶による全体的な目配りがあったものと思われる。運慶が、全体に共通する方針を立て、それに従った形で快慶も制作にあたったというのが実際ではないか。

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東大寺は、治承四年(1181)の平家による南都焼き討ちで、伽藍の殆どが焼失したが、すぐさま重源による再建が始まった。その再建の過程で、運慶や慶派の仏師たちが造仏にかかわり、本堂の諸像や南大門の仁王像を造立した。そのうち本堂の諸像は、永禄十年(1567)の兵火で焼失したが、南大門は幸いにも焼けず、今日に伝わっている。その一対の仁王像は、運慶と快慶を中心にして造られたものであり、鎌倉彫刻の最高傑作といえるものだ。

鎌倉時代の美術は、仏教彫刻を中心に展開した。それを主に担ったのは慶派と呼ばれる仏師集団である。慶派は、奈良仏師の流れで、藤原時代の末期に康慶が出て一派の基礎固めをし、その子運慶の代に盛隆を極めた。そして運慶の流れが鎌倉時代を通じて日本の仏教彫刻界を主導していった。

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これは万葉歌人柿本人麻呂の文字絵。白隠はこの図柄のものを結構の数作っている。柿本人麻呂は単に「人丸」とも言ったが、「ひとまる」が「火とまる」を連想させるところから、火災よけの神として庶民に信仰された。白隠はそんな信仰心に応えて、人丸の文字絵を量産したのだろう。

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文字絵とは、文字で絵を表すもので、室町時代頃から作られていた。文字絵のテーマとしては、渡唐天神図と人麻呂図が好まれたようで、白隠もこの二つをテーマにいくつかの作品を描いている。この「渡唐天神図」はその代表的なもので、巨大な画面に勇壮な筆致で描かれた絵が、見る人に迫力を以て迫ってくる。

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「びゃっこらさ」も「毛槍奴立小便図」同様、奴を風刺した絵と思われる。この絵の奴は、白狐の姿を借りており、その白狐の「びゃっこ」と奴の蔑称である「やっこらさ」を引っ掛けて「びゃっこらさ」としたわけであろう。

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この絵は、毛槍奴が立ち小便している様子を子どもたちが見て囃したてているところを描いたもの。右側の賛に「毛槍をもって立てししす」とあるのは、「毛槍をもって立ち小便する」という意味。左側の賛には「しかも大きなしじじゃ、小じゃりが飛ぶは、あれ見よ」とある。「しかし大きなちんぽこじゃ、小便の勢いで小石が飛んでいる、あれを見てごらんよ」という意味である。

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鷲頭山は、伊豆半島の西側の付け根にあたるところにある。白隠が住職を勤める松陰寺からは、富士同様によく見える山だ。しかもこの山は仏教伝説ともゆかりがあるというので、白隠は特別の気持を抱いていたにちがいない。この山を描いた絵に、そうした白隠の気持ちが籠められている。

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白隠は、沼津の東海道に面した松蔭寺の住職をしていたから、そこからは富士が手に取るように見えた。そんな富士の姿を白隠は数多く描いている。これはそのうちの一枚。雄大な富士をバックに大名行列が通り過ぎるところを描いている。画面いっぱいに富士を描き、裾野に大名行列を描く。その行列は西へ向かって進んで行き、その先には川があり、川の近くにはそばだった岡も見える。

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これは鍾馗が擂粉木で味噌を擂っている図柄。よくみると、擂鉢のなかにいるのは、四匹の鬼。これらの鬼は人間の煩悩の化身で、それらを擂りつぶした味噌を食えば、煩悩から解放されて成仏できるじゃろう、というのがこの絵の狙いだ。白隠なりの衆生教化の意図が籠められたものと言えよう。

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白隠は鍾馗の図を数多く描いている。鍾馗は厄除けの神として親しまれ、端午の節句には子どもの厄をはらう守護神として尊重された。もともとは、中国に実在した人物で、それが神になったにはいわれがある。玄宗皇帝のときに科挙を目指したが落第を重ね、それを恥じて宮中で自殺した。ところが、どういうわけか、重い病気にかかった玄宗の夢の中に現れ、玄宗を悩ませていた悪鬼を追い払ったところ、玄宗の病気が治った。それに感謝した玄宗が、画工に鍾馗の姿を描かせて顕彰した。それ以来厄除けの神として庶民に慕われたというのである。

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お多福女郎が客の尻にお灸を据えているユーモラスな図柄のこの絵には、「痔有るを以てたつた一と火」なる賛がある。そのまま虚心に読めば、「痔があるのでたった一つの火で治療してやろう」となるが、その裏には別の意図が隠されているという。この言葉は、当時の寺子屋の教科書でよく使われた言葉、「人肥えたるが故に貴からず、智有るを以て貴し」をもじっているというのである。

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お多福は現代ではおかめとして、ひょっとこと対でイメージされることが多い。白隠は布袋と並べてお多福を描いた。それも布袋がお多福を生み出したという形のものが多い。この絵もその一枚で、布袋が吐いた煙からお多福が生まれたということになっている。

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すたすた坊主というのは、主に街道筋に出没し、芸をしながら物乞いをする乞食坊主のことで、徳川時代の中頃に沢山存在したようである。白隠は、そのすたすた坊主に布袋を重ね合わせた。布袋がすたすた坊主となって、人々に功徳を施すところを描いたわけである。

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七福神のうちで白隠がもっとも多く描いたのは布袋だ。七福神は日本の風習だが、布袋は中国に実在した人物がモデルになっていると言われる。彼は僧侶なのだが、盛り場に出没し、おどけた行為をしては、見物人から金や物を乞うていた乞食坊主だった。ところが実は弥勒菩薩の化身だったということがわかり、庶民の信仰を集めるようになった。その伝説が日本に入ってきて、七福神の一人に数えられるようになったというわけである。

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「鼠大黒」と呼ばれるこの絵は、七福神とよく似た図柄だ。船は省かれていてないが、その他の部分には共通するところが多い。中央には、鏡餅を前にして大黒天が座禅を組み、その周りに七福神のほかのメンバーが音曲を楽しみ、ネズミたちが宴の準備をする。これは新年を祝う宴なのだろう。

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「七福神合同船」と呼ばれるこの絵は、一艘の船に集合した七福神を描く。その船は「寿」という文字をあしらった文字絵で表現されている。文字絵は白隠の特技の一つだ。この絵の場合には、「寿」という文字を分解して、マストの部分と船体の部分とを、それぞれ心憎く表現している。

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白隠は、観音菩薩と並んで文殊菩薩も多く描いた。白隠の描く文殊菩薩は、観音菩薩同様女人のイメージで描かれている。文殊菩薩といえば、釈迦三尊の一員として普賢菩薩と並んだ姿とか、西大寺の文殊菩薩のように眷属を引き連れた勇ましい姿で描かれることが多いが、白隠は観音菩薩同様、女人のイメージで単身の姿を描いたのである。

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蓮池観音とは、観音の異名の一つではなく、観音が蓮の池に臨んでいる様子をあらわした言葉だろう。この絵は、白隠としては珍しい横幅の画面に、岩絵の具を用いて丁寧に描かれている。

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