日本の美術

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「芦雁図」は、雪の降り積もった芦の生える沼地のようなところへ向かって、一羽の雁が急降下してゆくところを描いたものである。雁の姿は画面からはみ出すように大きく描かれており、実物よりもはるかに大きい。それ故、この絵を見た人は、雁の姿に異様な迫力を感じる。

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「老松鸚鵡図」は、松をバックにして一対の白い禽獣を描いた点では、「老松白鶏図」と対をなすものである。「老松白鶏図」では鶏たちの視線は真っ赤な旭日に収斂していくが、この絵では、白い鸚鵡たちの視線の先には緑色の鸚鵡がある。その鸚鵡の羽の一部に赤が塗られている以外には、この絵には赤い部分がない。それでいて寒々しさを感じさせないのは、背景や松の幹に多少の暖かさがあるためだろう。

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「老松白鶏図」は、枝葉を大きく広げた松をバックに、真っ白な鶏の雌雄一対を描いたものである。若冲は禽獣を白く描くのが好きだったようだが、これはその作例の初期のもの。鶏の躯体部分に、下地として金泥を引き、その上から胡粉を用いて丁寧に羽などの模様を施している。

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「芙蓉双鶏図」は、咲き乱れる芙蓉の花をバックに、雌雄一対の鶏を描く。鶏がいるのは、土手のようなところか。そこには芙蓉のほかに、鉄線の花も咲いている。芙蓉といい鉄線といい、初夏を彩る花だ。

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「老松孔雀図」は、老松を背景にして、孔雀を画面いっぱいに描いている。同じようなテーマのものとして、「老松白鳳図」と対をなす。右下に居士若冲製とあり、製作の年月は記さない。

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「梅花皓月図」は、皓々と輝く満月を背景に、咲きほころぶ梅の花を描いたもの。梅の花を描いたものとしては、「梅花小禽図」と対になるものである。若冲には、ひとつのテーマを一対の絵にする傾向があった。

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「大鶏雌雄図」とあるこの絵の鶏が、どんな種類のものかはっきりしないが、色彩が鮮やかなオスと、黒い地味なメスとの組み合わせは、薩摩地鶏を思わせる。おそらく、地鶏の一つなのだろう。若冲は、その大鶏の雌雄一対を画面いっぱいに描いた。

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「紫陽花双鶏図」は、紫陽花の花の陰にいる雌雄一対の鶏を描く。画面上部に紫陽花の群れ咲く様子が、画面右にはバラとつつじの花がそれぞれ岩にへばりつくようにして咲いている様子が描かれている。

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「向日葵雄鶏図」は、一斉に咲き広がった向日葵をバックに雄鶏を描いたもの。向日葵は徳川時代になってから日本に渡ってきた花で、その形の斬新さとあいまって、エクゾチックな雰囲気を連想させた。若冲も、向日葵のもつそうした雰囲気を、雄鶏の生命力と対比させて、この作品を描いたのであろう。

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秋塘群雀図は、秋の堤に生えた粟に群がる雀を描く。画面上部には、左手下の方向へ向かって一斉に飛んでいく雀の群が、下部には実った粟の実に群がる雀が描かれている。下のほうの雀には、一羽一羽に動きの多様性があるのに対して、上のほうの飛んでいる雀は、みな同じ姿勢をしているのが面白い。若冲には、多くの対象をこのように同じ形に描くという強い習性があった。面白いのは、同じ姿勢をしていながら、色彩だけ違うのを一羽付け加えていることである(白い雀)。

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雪中鴛鴦図は雪景色の中に鴛鴦を描く。鴛鴦はおしどりのこと。鴛でオスを、鴦でメスをあらわすこともある。オスのほうが色彩豊かである。この絵では、オスは豊かな色彩を誇示しながら水面近くの石の上に立ち、メスは水中に頭を突っ込み、尾羽を外に出している。

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年期に「宝暦戌寅春」とあることから宝暦八年(1758)の作だとわかる。年期の表示のあるものの中でもっとも古い作品だ。画面の左下から右上に向かって梅の老木の幹を配し、幹から上に伸びた夥しい数の枝に無数の梅花を散らしている、その花の合間からは八羽の小鳥が覗いている。

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「芍薬群蝶図」は、「若冲動植綵絵」三十幅のうち、技法上の特徴などをもとに、もっとも早い時期の作品と推定されている。制作年代を確定できる最古の作品が、宝暦八年(1758)の「梅花小禽図」であるから、この作品はそれ以前、恐らく宝暦七年以前ではないかと推定される。

伊藤若冲は、馬歯四十の年(宝暦五年<1755>)、京都錦小路に構えていた青物問屋の家業を弟に譲って画業に専念することになった。それに先立つこと三年前の宝暦二年に、相国寺の僧大典禅師と知己となり、若冲の号を授かった。若冲の絵が本格化するのは、その頃からである。その若冲にとって、画業のマイルストーンとなったのが、「動植綵絵」シリーズである。このシリーズは、宝暦八年ころから製作に着手され、十数年かけて三十幅の絵として結実した。若冲はこの三十幅に、釈迦三尊の像三幅を加えた三十三幅の絵を、馬歯五十の年(明和二年に二十四幅)とその五年後の明和七年(残りの六幅)の二度にわけて、相国寺に寄贈した。そのことでこれらの絵が、未来永劫に残ることを期待したのだと言われる。その期待通り、これらの絵は、徳川時代を通じて相国寺で保管された後、明治時代に皇室に寄贈され、いまでは皇室の蔵するところである。大事に秘蔵されてきたために、いまだに鮮度の高い状態を保っている。

歌麿の春画

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歌麿は、おびただしい点数の春画を作った。彼の画家としての収入源は、美人画のそれより、春画のほうがはるかに多かったと思われる。歌麿が徳川幕府ににらまれ、ついには手鎖五十日の刑に処せられたのも、本業の美人画はもとより、春画を大量生産したことにも理由がありそうだ。

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(山姥と金太郎 乳ふくみ)

歌麿は、山姥と金太郎のテーマを繰り返し描いた。山姥も金太郎もそれぞれ、伝説の背景を持っているが、歌麿はそうした伝説に捉われず、母と子の触れ合いという普遍的なテーマとして描いた。そうしたテーマの延長として、ほかに海女と子というのもある。

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「針仕事」は三連式の版画組絵で、江戸時代の女性の日常生活を描いたものである。画面全体には四人の女がおり、みなで協力しあって針仕事をしているところが描かれている。四人の女とは、母親とその三人の娘たちであろう。母親は、中央の画面にいて、右手の画面の娘とともに、仕立てるべき布の寸法取りをしている。母親の背後には、別の娘が針箱を抱えもって、仕事の準備をしている。

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(化粧美人 大判錦絵)

歌麿には、鏡に映った自分の顔に見入っている娘の後姿を描いたものが多くある。これはその一枚。鏡の中の女の表情よりも、うなじの美しさにポイントを置いている。

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(木挽町新やしき 小伊勢屋おちゑ)

日本橋木挽町にあった水茶屋の看板娘おちゑを描いたもの。娘が手にとって見ているものは、絵本の類だろうか。きりっとしたまなざしには、知性のようなものが感じられるが、豊満な体つきからは女の色気が強く伝わってくる。

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(ぐうたら兵衛 大判錦絵)

寝起きの女を描いたものだろう。手ぬぐいを肩に、茶碗の水でうがいをしている。髪がほつれているのは、寝相の悪いためだろう。いかにも「ぐうたら」の名にふさわしい。

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