日本の美術

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蓮華寺は、もともと西八条塩小路(現在の京都駅付近)にあった時宗の寺院で、応仁の乱後荒廃していたのを、寛文二年(1662)加賀前田藩の家老今枝近義が現在地に再興した。現在地は、高野川の上流上高野の地にある。叡山電鉄三宅八幡駅で降りて、川沿いに数分歩いたところにある。

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東福寺は、十三世紀の半ば頃に摂政九条道家によって造営された禅寺である。何度か火災にあったが、そのたびに再建され、大規模な寺院として伝統を保ってきた。しかし、庭園にはそう古いものはなく、徳川時代に作られた普門院開山堂前の庭園が有名である。

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大原三千院の参道奥にある宝泉院は、大原寺(勝林寺)の僧坊として、11世紀始めに創建された寺である。額縁庭園として知られるこの寺の庭園は、徳川時代の中ごろに作られた。額縁と言われるのは、客殿から庭園を見ると、額縁に収まったようにコンパクトに見えることによる。

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いま三千院のある地には、もともとは往生極楽院という寺があった。そこへ、明治時代になって、門跡寺院として格式の高かった三千院が移ってきた。そんなわけで、いまでは、三千院として知られているが、この地に現存している建物や仏像などは、極楽往生院のものを引き継いでいる。庭園もそうで、三千院を象徴する聚碧園は、徳川時代に往生極楽園の庭園として作られたものである。

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詩仙堂は、徳川時代初期の造園家として名高い石川丈山が、隠居所として寛永十八年(1641)に造営した。時に丈山は五十九歳、以後九十歳で死ぬまでここに隠居した。建物の内部に中国の三十六詩人の詩と狩野探幽に描かせた画像を掲げたことから「詩仙堂」と呼ばれるようになった。

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知恩院は、法然在世中よりこの地にあって布教の拠点となっていたが、山門や御影堂などの現存する伽藍群が造営されたのは徳川時代に入ってからのことである。大方丈と小方丈は寛永18年(1641)に作られ、その際に方丈庭園もあわせて作られた。庭園の造営を指導したのは、小堀遠州と縁のあった石立僧玉淵とされる。池泉回遊式庭園である。

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天授庵は、南禅寺の開山大明国師創建になる開山塔として歴応三年(1337)に創建された。山内でもっとも由緒のある寺である。文安四年(1447)の南禅寺大火以降荒廃したが、慶長七年(1602)細川幽斎によって再興され、それ以後細川家の菩提寺のような形となった。寺内の墓地には細川幽斎夫妻はじめ細川家の墓が多くある。

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南禅寺は、正応四年(1291)に亀山法皇が無関禅師を開山に迎えて創設した古い禅寺であり、いまでも臨済宗の大本山として広大な規模を誇っている。庭園としてもっとも見るべきは本坊方丈庭園で、これは寛永六年(1629)に、当時の南禅寺住職金地院崇伝が小堀遠州に依頼して作らせたものである。

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桂春院は、慶長三年(1598)に妙心寺の塔頭見性院として、信長の甥津田秀則によって創建された後、寛永九年(1632)に美濃の豪族石河貞政によって再興され桂春院と改称された。庭園はその折に造営されたものである。小堀遠州系の庭師によって作られたと推測され、徳川時代には名園として名高かった。

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高台寺は、秀吉の死後その妻おねねが、徳川家康の許可を得て慶長十一年(1606)に創建した寺である。おねね自身の墓もある。秀吉が茶を愛したことにちなみ、傘亭、時雨亭という一対の茶室を小高い丘の上に建てた。これがこの寺のシンボルとなっている。

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二条城は、慶長八年(1603)に徳川家康が、京都における徳川家の居城として作った。家康はこの城を、内裏のあった神泉苑の敷地をつぶす形で作ったが、それは朝廷に対する家康の挑戦だったと言われている。寛永三年(1626)には、二代将軍秀忠が後水尾上皇を、行幸と言う名にこじつけて、ここに呼びつけている。そのために大改築が行われ、今日の二の丸の形となったが、そのさいにあわせて庭園が整備された。造園を担当したのは小堀遠州である。

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高桐院は、細川幽斎の長子三斎忠興によって慶長六年(1601)に建立された大徳寺の塔頭である。細川忠興は、織田・豊臣・徳川三代を武人として息抜き、正室ガラシャが明智光秀の娘であったにもかかわらず光秀にくみせず、自主独立を貫いたことで知られる。彼の遺体は、遺言によってこの高桐院に埋葬された。

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円徳院は、秀吉の死後妻のねねが移り住み隠居所としたのが始まりで、その後、寛永九年(1632)に高台寺の塔頭となった。庭は、伏見城内にあった化粧御殿の庭を移築したとされ、庭師賢庭の作と伝えられている。桃山時代を代表する庭園である。

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三宝院は永久三年(1115)に遡る古い寺だが、応仁の乱で焼けて以降荒廃していたところを、秀吉によって再興された。有名な醍醐の花見はこの三宝院で行われ、その際に現在に伝わる庭園が整備された。池泉回遊式の見事な庭園で、秀吉好みの豪華な雰囲気に包まれている。

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西芳寺の近くにある地蔵院は、いまでは竹の寺として知られるが、南北朝時代の貞治六年(1367)に、管領細川頼之が夢窓国師の高弟宗鏡禅師を招請して建立した禅寺である。夢窓国師を開山としているが、実質的な開山は宗鏡である。一時は、大寺院として繁栄したが、応仁の乱で消失。その後、徳川時代に、皇室と細川氏の援助によって再建された。現方丈は、貞享三年(1686)に再建されたものである。

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日本最大規模の禅寺である妙心寺は、康永元年(1342)に創建され、四十六もの塔頭からなる。広大な寺域は、石畳で結ばれた寺町を形作っている。その中には仕舞屋もあり、大徳寺以上に寺町らしい雰囲気を漂わせている。退蔵院は、塔頭のなかでも最も歴史が古く、応永十一年(1404)に建立された。

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龍安寺は、宝徳二年(1450)、細川勝元が妙心寺の義天玄承を開山として創設した禅寺である。この寺は石庭で有名だが、これが有名になったのは戦後のことである。そんなこともあって、この石庭の造営時期や設計者については、研究が浅く、いまでも定説というものがない。

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銀閣寺は、足利八大将軍義政が、将軍職を子の義尚に譲った後、文明十四年(1482)から延徳二年(1490)の死に至るまで、八年間の歳月をかけて、隠居所として造営した東山殿を起源としている。東山殿が慈照寺として相国寺の末寺に加えられたのは、義政の死後のことである。

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金閣寺は、足利三代将軍義光が、応永五年(1398)に造営した北山殿の一部である。京都の北山に設けられた北山殿は、護摩堂、懺法堂、紫宸殿、公卿間、舎利殿、天鏡閣、泉殿、看雪亭などの立ち並んだ広大な邸宅であったが、そのうち舎利殿が現在に伝わる金閣寺である。そのほかの建物は、義光の死後、その子義持によってことごとく破壊されてしまった。その理由ははっきりしないが、父親への嫉妬だとする説もある。

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南禅院は、鎌倉時代の末に亀山上皇が離宮としたところで、南禅寺発祥の地といわれる。応仁の乱以降荒廃していたが、元禄十六年(1703)桂昌院(徳川綱吉の母)によって再建された。庭園は、創建直後の面影を伝えるとされ、亀山上皇の作庭によるとも、夢想国師の作庭によるとも言われる。

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